第324話 ●「戦争の転換」

 アインズ川。

 

 エスカリア王国の西部を縦断するこの川は、本流だけで八。支流も含めれば実に十五の貴族領の間を流れる。

 さらに支流の一本は、エスカリア王国の中央を流れるナルコレクス川と合流するため、全体を見れば王国全土に影響する重要な川となる。


 本流の長さはおよそ三千三百キロ。世界一といわれるナイル川の約半分といったところだが、あくまでも人類が確認できている長さに過ぎない。


 というのも源流域は、亜人の領域であるグエンサリティスファルンテに存在し、下流部もバルクス領を経て魔陵の大森林へと続いているからである。

 魔陵の大森林と接する場所は、バルクス伯が長年にわたり多くの犠牲を出しながらも頑強なる水門を築き上げその部分にルード要塞が増設される形となり今に至る。

 つまりルード要塞は水陸両方ともが監視対象ではあるが、魔物はどうやら水を嫌う傾向があり未だに川中からの襲撃は無い。

 勿論だからと言って監視を緩めることは無いが。


 西部に位置する貴族領にとってアインズ川が上流から運んでくる肥沃な土と水の恩恵を長年にわたり受けてきたといってもよい。

 それが数十年に一度の川の氾濫による犠牲を伴うものだとしても……。


 そのアインズ川の恩恵を最も受けてきたのはどこかと尋ねられれば多くの貴族が二領を上げるだろう。

 『エウシャント領』と『バルクス領』である。


 この二領を除く場所は、その殆どが渓谷となっており、川からもたらされる恩恵は限定的となる。

 そのアインズ川が平原を流れ始めるのがバルクス領の北部に位置するエウシャント領とバルクス領となるのだ。


 現にバルクス領ではアインズ川流域を中心として多くの開拓村が出来、その人口を爆発的に増やしている。


 そんなアインズ川を巡って新たなる動きが始まったのである。


 ――――


「何? バルクスの小倅こせがれから公文書だと?」


 エウシャント伯領主都コーカスス。当主であるエウシャント伯爵は、執務官からもたらされた知らせに露骨に嫌そうな表情で口を開く。


「は、はい。こちらがその文書となります」


 その態度に知らせを持ってきた執務官は額に湧き上がってきた脂汗をハンカチで拭いながら一枚の封筒をエウシャント伯爵に渡す。

 執務官たちもこの伯爵に対してはバルクス辺境侯の名がタブーであることは周知の事実。

 この公文書を伯爵に届ける役も多くの者が忌避した結果、年少の彼が貧乏くじを引くことになったのだ。


 伯爵が、辺境侯を唾棄するほどに嫌う理由。それは『嫉妬』である。

 自身が伯爵に陞爵しょうしゃくした際、近隣で最有力の伯爵はバルクス伯であった。

 最初は、新米の伯爵家が古くからある伯爵家にささやかな対抗心を抱いた程度であった。


 その感情は中央の貴族――古くからの侯爵家以上の上級貴族は除く――たちが呼ぶ『番犬』というバルクス伯爵家への蔑みに近い呼び名も少なからず影響を受けたといえるだろう。


 だがそんなエウシャント伯爵の根拠なき優越感はバルクス家。しかも自身より二十も年少の若造が辺境侯に陞爵したことで木っ端みじんとなる。

 その挫折感は屈折してバルクス辺境侯に対する憎悪となり、その一方的な感情は貴族であれば誰もが知る物であった。


 そんな嫌悪する辺境侯からの公文書を読み進めていくにつれエウシャント伯爵の顔色はみるみる紅潮していく。


「なんだこれはッ! ふざけおってっ!!!」


 そう言うと同時にエウシャント伯爵は公文書を地面に叩きつけると右足で踏みつける。


「どうかなさりましたか? エウシャント様」


 その様を隣に立っていた男――ラスティア・ヒアルス・ファーナ執務副官が冷静に尋ねる。


「あの小倅めっ! 我が領地での汚染水をアインズ川に垂れ流すなとか言ってきよったっ!

 もし止めなければ宣戦布告も辞さぬとなっ! このような世迷言聞いたこともないわっ!」


 そう喚きたてる主を見ながらエウシャント伯爵が叩き捨てた公文書を他の執務官や武官が回し読みをする。

 その殆どが読み切る前にエウシャント伯爵と同様に顔を紅潮させ怒声を発する。

 それを一人冷静に見ていたラスティアの元に公文書が回ってくる。

 

 公文書の中身を要約するとこうである。


 バルクス領より上流に位置するエウシャント領から毎日排出される汚水が処理される事なくアインズ川に流されていることでバルクス領側が迷惑していること。

 エウシャント領と同じくバルクス領にとってはアインズ川の汚染されていない水は死活問題であり毎日流される汚水の量はバルクス側として看過できないこと。

 アインズ川の一日の流量を元にエウシャント側に一日の汚染水の放出を定めた量にとどめる事を強く要請すること。

 そしてそれを拒否するのであれば、自分たちの生存権のためエウシャント側のアインズ川流域の確保をするために宣戦布告することも辞さないこと。

 回答期限は、およそ一か月後の王国歴三百十六年十一月二十日十二時。

 そこまでに無回答もしくはバルクス側が望む回答で無ければエウシャント伯爵に対してバルクス辺境侯は宣戦布告するものである。


 ――という内容である。

 アインズ川の流域という事は詰まるところエウシャント領のほぼ全域を意味する。つまりは体のいい侵略戦争である。

 

 戦争も辞さぬと喚きたてるエウシャント伯爵を他所に、表情に出さぬままにラスティアの背中を冷たいものが流れていく。

 『生存権』という言葉も、河川の水を条件とした戦争もラスティアにとっては初耳に近い。

 いや、実際にこれまでの歴史上でも町村単位での水の所有権を巡ってのいざこざはあっただろう。特に水資源に乏しい北方の帝国では頻繁に起こっていた。


 だが水資源が豊富なエスカリア王国では前代未聞。しかも日照りなどで水が枯渇したからが原因ではない。

 水はある。だが汚染するのを止めろという諍いは歴史上でも初めての事であろう。


 それよりもラスティアがこの公文書から受け取った恐怖は、『バルクス側がエウシャント領から排出される汚染水の量を把握している』という事である。


 ラスティア自身が汚染水の量をちゃんと把握しているかと言われれば把握はしていない。

 そもそもが汚染水というものについて考えたことが一度としてなかったからだ。故にバルクス側の主張が嘘である可能性も高い。


 だが公文書の別紙として付けられた町村ごとの汚染水量の一覧は、逆を言えば既に町村にそれを調べるためのバルクス側の人間が多数潜入している事の証左だ。

 そしてそんな彼らがただ汚染水量だけを調査しているはずがない。領内の地理、商業、産業、軍事拠点、輸送ルート。そういった情報も調べられていると考えた方がいいだろう。


 もちろんエウシャント側もバルクス領内に何人かの諜報員を潜入させている。だがそれでもその情報はせいぜいバルクス領の北部のごく一部に過ぎない。

 それだけ本来は情報を収集するという事は困難なのだ。


 しかもバルクス側は諜報員への対応が徹底している。現にエウシャント側が放った諜報員の九割程がすぐさま音信不通となっている。


 その厳しい警戒態勢の中で送られてくる情報も重要な情報はほとんどない。手に入れられても何らかの意図をラスティアは感じる。

 それはバルクス側が『わざと』流出させた情報。しかも真偽を織り交ぜてというのがラスティアの見立てである。


(まったく、優秀な人材が多いのは羨ましい限りですね)


 ラスティアは誰にも見えないように薄く笑う。

 そんな彼に気付くこともなくエウシャント伯爵は次々と執務官たちに檄を飛ばしていくのであった。


 ――――

 

 後に『エウシャント水戦争』と呼ばれる水を巡っての戦争が歴史上に登場したのはこの時が初めてであろう。

 当時の国民にとっては、戦争理由がなんとも間抜けなものにうつり、中央での王位を巡っての華々しい『獅子鷹戦争』を他所に始まったこの戦争は、それほど記憶に残るものではなかった。


 だがこれ以降の悠久なる歴史の中で水を巡って数多な紛争が起こったことを考えればこの戦争は歴史の転換期の一つであったといえるだろう。


    ボルクス・ヘンマートック著 『戦争――歴史の転換期』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る