第295話 ●「とても簡単なこと1」

 王国歴三百十五年九月十六日

 

 ボーデ伯領のピシャール要塞への襲撃から端を発した後に『南方の悪夢エルクーゼ』と呼ばれる事件の始まりから丁度十か月が経つ頃。


 ボーデ領奪還のためにホールズ方面から進攻した貴族連合軍は、旧領の北東部を中心に三割を奪還するに至っていた。

 これはルーティント方面から進行しているファウント・バルクス連合軍が同時期に一割強の進捗であることを考えれば破格のペースであった。


 だがこれは、多くの犠牲のもとに成り立つ強行軍である。

 彼らは強制徴兵された民兵を魔物の足止め用の餌として使うという非人道的な戦法を取っていた。

 むしろ彼らは『ただの餌』でしかないと見切りをつけ、身体・精神障害者や危険思想家、女子供といった生活弱者などを口減らしとして積極的に徴兵した。


 これまでの三割を奪還するために犠牲になったのは平民が一万人ほど。

 だが貴族連合は、大人口の所領を持つ貴族が大半を占めその人口は二千万人強。

 アリスやクリス達であれば頭を悩ませる損害も、貴族たちにとって二千分の一は些末な話でしかなかった。

 

 彼らの思いはただ一つ。

 

 『政敵のファウント公爵よりも覚えめでたき功績を上げる』


 それだけである。

 

 そして現場からもたらされる民兵の被害数が削除された順調な進捗と、民兵をあくまでも後方支援要員とし被害を極力抑えながらゆえに緩やかな進捗のファウント公爵軍との進捗差に喜悦する。


 その歪んだ思いに触発されるかのようにボーデ領の奪還は日々進むのであった。

 平民と騎士との心の溝を日々深めていきながら……


 ――――

 

「で? これは結局てめぇの仕業なのか? 『蟲毒』?」

「いえ、これについてはまったくのイレギュラーですよ『雷腕』。

 彼らは『魔人の制約』に囚われているはずなのに、それを破って北に侵入した……まったく、いままでバルクス方面だけに目を向けさせて最高のタイミングで解き放つという私の計画がすべてパーですよ」


 『蟲毒』ことルーディアス・ベルツには珍しく負の感情――イラつきをあからさまにする。

 それを『雷腕』は馬鹿にしたように笑う。


「はんっ! いつもみてぇに辛気臭く這いずり回るからそうなる。問答無用でやればいいだろうが」

「まったく、これだから筋肉バカは度し難い。それこそ忌まわしき神族どもの思うつぼではないですか」


 そう、現在の魔人だけでは神族に勝つことは難しい。それは悔しいが紛れもない事実。

 ゆえに『漆黒』はその身を神族が気づかぬ場所に置き、それ以外の六人の魔人が闇に隠れて行動しているのだ。


 そんな中、突如ボーデ領付近の魔物たちが北への侵攻を開始したのだ。しかも自分が手の離せないタイミングを計ったかのように……

 自分の直接の配下である使徒を警戒に当たらせておけば……と後悔しても後の祭りである。

 

 これでバルクス方面の魔物を活性化させてボーデ方面の警戒を解かせ最高のタイミングで大進攻をかけるという策の一つを潰されてしまった。

 こんな統制も取れていない侵攻。しかも人間どもの余力もまだ十分な時ではまるで意味がないのだ。


 もちろん、複数用意した策のうちの一つが潰されただけだから致命的ではないとはいえ、気分が悪い。


 ゆえにようやく手が空いた今。少しでも原因を探るためにこうしてボーデ領へとわざわざ来たのだ。

 それに何故かは知らぬが『雷腕』も勝手についてきたわけである。


 そして彼らはボーデ領の南側から攻防の最前線となっているだろう北へと歩を進める。

 道中で魔物と遭遇したところで力の差が歴然としているし、そもそも魔人の異質な魔力に気圧されて付近からを姿を消してしまう。

 人間に遭遇しても自分はもとより人間種の中年男性と同じ風貌だし、『雷腕』は現在認識齟齬魔法でガタイのいい人間にしか見えないようになっている。

 ボーデ領からの生き残りと言い逃れもできよう。


 彼らは軽口を叩き合いながら昼夜問わずに常人の三倍のスピードで歩を進める。この程度で彼らが疲労することはない。

 

「あぁ、なんだありゃ?」


 それから三日後、ちょっとした丘を登り切った『蟲毒』と『雷腕』の目の前にこの状況では不可解な事が起きていた。

 南。つまり二人に向かって逃げてくる襤褸切れに近い身なりの数千はいるだろう人間を騎士鎧を着た数十の人間が追いかけ、当たるを幸いと切り伏せていく風景であった……。


 ――――


「もう……限界だ……」


 その言葉を誰が発したのかは不明だ。だがそれはこの場にいるすべての人間の共通の思いであった。

 ここはホールズ方面から進攻した貴族連合軍の野営地の一角。


 強制徴兵された平民たちはこの狭い一角にほぼすし詰め状態となっていた。

 魔物の餌扱いの彼らに支給される食事は本当に必要最低限。

 彼らはその少ない食事が配給される夜を迎えるたびに『今日は死なずに済んだ』『昨日隣にいた人間が今日はいない』と諦観を含んだため息を吐く。

 それをほぼ毎日のように繰り返す。


 遠くからは自分たちの数倍あるであろう食事を食べ、酒を食らい盛り上がる正規騎士たちの笑い声が響いてくる。

 それが彼らの飢えや疲労で精神的に疲労し、募った不快感をさらに逆なでする。 そう、彼らはもう限界だった。


「俺は……もう……いやだ……もう……逃げるぞ。お楽しみの奴らは誰も見張りにいない……逃げられる……大丈夫だ」

「そうだ……逃げよう……皆で逃げれば……大丈夫だ」


 誰かが呟く。それが周りに伝播していく。


「だがどこへ逃げる? 北か?」

「いや、北は奴らがいるから無理だ……西も……東も……」

「それなら……南……か?」


 南。それは彼らにとっては戦場。いや餌場か。それは彼らにとっては死と同義である。

 そう彼らに逃げ場などなかった。そう絶望する中。一つの声が上がる。


「わ、わたしこの近くに昔住んでいたの。ここから南に十数キロ行ったところに町があったはず。

 今回のことで放棄されているだろうけれどこれくらいの人数が隠れるには十分の広さがあったわ」


 その一人の女性の声に希望が込められた小さな歓声が沸く。


「な、ならばそこに逃げよう。そこに隠れていれば俺たちは助かるかもしれない。

 ど、どうせ明日死ぬかもしれないんだ。行ってみる価値はあるだろう?」


 その声に既に追い込まれた彼らから反対の声は上がらない。


 ――そしてその夜。酒に酔った監視の兵の目を盗み、物資も盗み出したと思われる数千人の民兵の姿が消えたのであった。


 翌日、酔いからさめた騎士たちはその信じられない光景に色めき立った。

 今日の戦いにおいても自分たちの壁となり餌となるはずである民兵が監視の目をくぐって――そもそも監視役も深酒で眠っていたのだから監視の体を成してはいなかったが――全員が忽然と姿を消したのである。


 その数は五千八百人ほど。


 しかも彼らは北に一キロほど上った場所にある物資積載所から物資の多くを奪い、ご丁寧に残った物資を焼き払っていたのだ。


 今回の戦いは対魔物。魔物の狙いは人間そのものあり物資に目もくれない。

 ゆえに対人であれば気にすべき物資の防衛をおろそかにしていたのが大きなミスであった。

 逃げ出した民兵たちは大量の食糧や物資を奪い、さらには騎士たちの追っ手を防ぐために残りの物資を焼き払ったのであろう。


 その狙いはまさに的確であった。

 騎士たちは怒り狂ったが、先立つものがなくなったのは事実。騎士の大半が一時的に後方への後退を余儀なくされたのである。

 だが騎士たちの一部は自分たちの民兵に対する扱いを棚上げにして、裏切り者の逃亡兵を屠ろうと四方に派兵される。


 彼らはまず逃走兵の逃走ルートは北と考えた。それはそうだろう。


 野営地の北にある物資積載所を襲ったのだからそのまま北に上がるのがスムーズである。また既に魔物から取り戻した東側と西側も候補である。

 一方で南側はいまだに魔物の巣窟。逃亡兵が逃げるルートとしては考えにくい。


 そのため、逃走兵の追撃部隊は北・東・西に多くが当てられ、南側は数十人規模。しかも魔物と遭遇したら直ちに逃げるという消極的な派兵であった。

 だが、幸か不幸かその数十人の部隊が南方へと逃げる数千人の逃亡兵を捕捉。援軍要請用の伝令を放った後、彼らを始末するため騎馬を走らせたのであった。

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