憑撃スカルバディ

五速 梁

第1話 頼れるあいつは就寝中


                 序



 冷たい血の海に漬かりながら、私は黒く塗りつぶされた人々の動きを眺めていた。


 ――救急車だ、早く呼ばないと!


 ――ごめんなさい、こんな馬鹿な子のために。……でももう遅いかもしれない。


 私は遠くに転がったヘルメットと、横倒しになって血のように油を流している愛車を見ながら、私の最期を看取ってくれるのはこいつらだけかとぼんやり思った。


 ――大丈夫ですか?今、救急車がきますから、気をしっかり持って!


 誰かが懸命に私を励ましてくれている。有り難いけど、もう駄目な気がする。あれだけのスピードでぶつかって、空中を派手に舞って、アスファルトに叩きつけられたんだもの。

   

 ……ああ、いくらレースに出られないからって、雨の日に飛ばすんじゃなかった。これは神様がもう引退しろって言ってるんだわ。でも人生からもなんて、ちょっとひどすぎる。


 次第に近づいてくるサイレンに耳を澄ませながら、私は意識が遠のいてゆくのを感じた。


                 ※


「ねえ先輩、やっぱり何かの間違いですよ」


 私は名月なつきさんの背中を呼び止めて、必死で訴えた。真剣な話を切りだそうとしているのに、私はなぜか「やっぱり背中も綺麗だ。私もこんな三十代になれるだろうか」とどうでもいいことを考えていた。


「いいえ、間違いじゃないわ。あなたは今日をもって交通課から捜査一課に異動になるの。私の推薦でね」


 くるりと振り向いた名月さんはいつも以上に美しく、私は一瞬、抗議の言葉を忘れそうになった。


「そんな、ひどいです。私が先輩に憧れて交通課を志望したこと、知ってますよね?」


「ええ、何度も聞いたわ。でもね、人には適性を最大限に生かせる環境ってものがあるの。私はあなたの能力を伸ばしてあげたいの」


「能力って、いったい何の能力ですか。一課といったら殺人ですよ?怖いじゃないですか」


 私が鬱憤をぶつけると、名月さんは困惑するどころか、カラカラと笑い始めた。


「あのね、これから行く部署は「残務処理係」と言って未解決事件を洗い直す部署なの。捜査本部もなければ犯人逃走もない、終わった事件の後始末をする部署だから安心して」


 私は激しく気落ちした。名月さんの説明は私を楽にするどころか、かえって疑問の種を増やしただけだった。


「どうしてそこが私に向いていると思ったんですか?」


 私はできる限りの恨めしい表情をこしらえて言った。よもや憧れの人からこんなひどい仕打ちを受けるとは。レーサーの夢を諦めてまで警察官になったのは、あなたの凛々しい仕事っぷりを見たからなのに。


「そうねえ、強いて言えば、私の弟がそこにいるから、かな。あなたとなら絶対、いいコンビを組めると思うわ」


 私は意外の念に打たれた。仕事人間のような名月さんの口から、家族の話を聞くのは初めてだったからだ。


「弟……さん?」


「ええ、一回りも離れてるからいまだに子どもにしか思えないけど、一応、刑事をやってるわ。小さいころから何をやらせても人並みにできない子だったけど、この仕事だけはどうにか務まってるみたい」


「その人と私が、コンビを組むんですか」


「そうよ。今なら暇だし、たぶん「起きてる」んじゃないかしら。忙しくなる前に挨拶しておくといいわ。捜査が始まったらもう、彼じゃなくなっちゃうから」


「彼じゃなくなる……って、どういうことですか?」


「ごめんなさい、悪いけどそのあたりは本人に聞いて。……あ、もうそこが処理係のドアよ。じゃ、またね」


 名月さんは無責任にそう言い置くと、さっそうと廊下の奥に消えていった。私は仕方なく「残務処理係」という、まるでゴミ処理室みたいな名前のドアをノックした。


「はあい、どうぞ」


 ドア越しに返ってきたのは、なんとも間延びした男性の声だった。私は「失礼します」と断り、ドアを開けた。入り口から見えたのは、三十歳くらいのずんぐりした男性だった。


「あの、今日付で残処理室配属になった桜城蓮那おうじょうれなです」


「ああ、はい。僕は雷郷長生らいごうひさお。これからお世話になります」


 私は眠そうな目をした先輩刑事の口ぶりに、体中の力が抜けてゆくのを覚えた。

 お世話になるのはこちらだというのに、こんな人が先輩で大丈夫なのだろうか。


「ここは終わった事件をあつかう部署だから、あんまりあくせくしないで自分のペースでやったらいいよ。僕もそうしてるから」


 そういうと雷郷という刑事はあくびを漏らした。不安と不満とでもやもやが溜まっていた私は、溜めこんでいた疑問を思わず口にした。


「あのう、この部署への移動はあなたのお姉さんからの推薦だっていう話ですけど、どういう理由で私が抜擢されたんでしょうか」


 私がうっかり不平めいた調子で尋ねると、雷郷は二、三度目を瞬いた後「なんだ、そんなことか」という表情になった。


「君さあ、確か事故で頭を打って生死の境をさまよったことがあるんだよね。その時誰かに会わなかったかい?」


「会うって、病院でですか?……先生と看護師さんには会いましたけど」


 私が正直に答えると、雷郷は目の前でちっちっと舌を鳴らしながら指を振った。


「違うよ「あの世」でだよ。覚えてないの?」


「あの世……残念ですがあの世に行く前に運よく戻って来られました」


「そうかあ。覚えてないんじゃあ、しょうがないな。……まあ、そのうち思い出すだろう」


 雷郷は意味不明の文句を口にすると、驚いたことに部屋の隅にある長椅子に、ごろりと横になった。いくらひまとはいえ、来客中の態度とは思えなかった。


「あの、それで今日はこれから何をすれば……」


 私が指示を請うと、雷郷は「何もしなくていいよ、僕はひと眠りするから」と言った。


「えっ、寝るって勤務中に……ですか?」


「うん。そろそろ「あいつ」に運動させないとストレスが溜まっちゃうからね」


 私は思わず首をひねった。「あいつ」っていったい、誰のことだろう。運動させなきゃ、なんて犬じゃあるまいし。


「あ、それから僕が寝ている間に「僕じゃない奴」が起きたら、冷蔵庫にあるパンと牛乳を出して。あ、それともラーメンがいいかな。僕が起きた時、お腹が空いてるだろうから」


 雷郷の言葉は隅から隅まで意味不明の連続だった。目の前ですうすうと心地よさげな息をし始めた雷郷に私は慌てて問いを放った。


「あの、さっきから「あいつ」とか「僕じゃない奴」とか。いったい誰の事なんです?」


「……会えばわかるから、本人に直接聞いてよ。大丈夫、隣の三途之町にいる従兄についてる奴よりはおとなしいから」


「三途之町?従兄?」


「そう。僕と違ってできる奴さ、六文は。奴についてる「相方」もね。……おやすみ」


 そういうと雷郷は目を閉じ、呆れた事にぐうぐうと本格的な寝息を立て始めた。まいったな、他にこの部署の職員はいないのかしら……私が途方に暮れかけた、その時だった。


「……ふう、珍しく真面目に働きおったようだな。お蔭で体がなまって仕方ないわい」


 まぎれもなく雷郷の、それでいて妙に低くしわがれた声が背後から響いた。思わず振り向いた私の目に、上体を起こして不敵な笑みを浮かべている雷郷の姿が飛び込んできた。


「あ、あなた……雷郷さん?」


 私が恐る恐る尋ねると、雷郷はゆっくりと頭を振った。


「聞いていなかったのか?わしは……」


 明らかに雷郷の姿の、それでいて「雷郷ではない誰か」が言い放った、その時だった。


「あ、桜城さん、今日は弟しかいないみたいだから、挨拶が済んだら退勤していいそうよ」


 名月さんがドアを開けて姿を現し、同時に雷郷が「むっ」と唸ってがくりと項垂れた。


「ちょ、ちょっと、雷郷さん?」


「大丈夫よ。また弟に戻るだけだから。「あいつ」、私が苦手らしいのよ」


 慌てて駆け寄ろうとする私を、名月さんが声で制した。


「あの、「あいつ」って……」


「うふふ、今にわかるわ。少なくとも弟ほどポンコツじゃない事は確かよ」


 名月さんは雷郷と調子を合わせるかのように謎めいた言葉を残すと、廊下に姿を消した。


 私は再び長椅子で寝息を立て始めた雷郷を見ながら、私は今日、挨拶したこの男はいったい何者なのだろうかと訝った。


               〈第二回に続く〉

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