小説の「面白さ」について

エイジ

第1話

小説の面白さとは……。

と、つねづね考えてまいりました。

僕らが創作をやる上で常に大上段にあるテーマは「面白い話を作る」だからです。

今のところ僕の答えは、面白い話とは、

「珍しい話」

です。


例えば二人組の女子中学生がいたとします。

彼女たちは話好きです。

相手が喜ぶ「面白い話」をどこかで手に入れてきて相手に披露します。

その中で、特に面白い話というのがあったとします。その話は、彼女たちから他の人に「面白い話」として伝わります。


ある日、女子中学生の片方の子が、今朝がた見た夢の話をしました。

「夢の中で私は冷蔵庫を開けたの。中には卵が一つだけ入っていて、なぜか金色だったの!」

大興奮で話す女子中学生。

「それで、どうしたの?」

聞き手の女子中学生は聞きました。

「金色の卵を見ていると、なぜか白い卵に戻ってしまったの」

「それで?」

「それで目が覚めたの」

「それで?」

「それだけ」

……つまらないです。

人の見た夢の話ほどつまらないものがあるでしょうか。

夢の話は現実世界の話ではないからです。誰も傷付けはしないが得もしない。そんな話をされても「ふーん」としか言いようがありません。


またある日、片方の女子中学生がこんな話をしました。

「誰にも言わないで。……実は、私の親戚に殺し屋がいるの」

これは面白そうです。

だけど、

「夢の中の話だけどね」

と、付け加えられたら、とたんにその殺し屋の話はつまらなくなります。

なぜでしょう。

現実の話を人は面白いと感じるのでしょうか。


ニュースを見ていて、どのニュースも興味深く見ることができます。

ところが、たとえば映画の中で待合室があったとして、そこに設置されているテレビで流れるニュースには興味がわきません。それは作り話で、現実の話ではないからでしょう。


ということは、僕らは現実の話に惹かれて、作り話には惹かれないということがわかります。作り話とは嘘の世界で荒唐無稽だからです。


困りました……。

小説とは作り話です。

作り話とは、最初からつまらないものなのです。

僕らの「面白い」話を作りたいという努力はむなしいものなのでしょうか……。


しかし、ちょっとまってください。

僕らには、大好きな映画があります。ドラマがあります。漫画があり、小説があります。それらは、ほとんどはフィクションであって、「作られた話」なのです。嘘の世界です。それをどうして僕らは「面白い」と感じるのでしょう。


創作物は、小説であっても映画であっても漫画であっても、そのほとんどのものはリアルタイムで時間を進行させて見せる手法を取っています。


なぜかというと、今、目の前でこの話が展開している。そのように錯覚させるためです。


物語作りにはルールがあります。

一人称の小説において、やってはいけないこととされているのが、語り手の主人公が知らないはずのことを語ってしまうことです。


なぜ、それは「やってはいけない」のでしょう。

これは作られた世界だ……と、読者が気付いてしまうからなのだと僕は考えています。


映画は多くのスタッフによって作られます。

本当は、流れる映像のすぐ脇に、照明さんや音声さんや監督さんがいます。映画を観ている人も、そんなことは誰でも知っています。けれど、映像の中に、スタッフが映り込んでは絶対にだめです。スタッフが映ると、観客は「これは作られた嘘の世界だ……」と、気付いてしまうからです。


誰でも本当は知っているのに、スタッフは映ってはだめ。


なぜなのかと考えると、創作の世界とは、実際に起こっていると錯覚させる仕組だからです。今、この物語が目の前で起こっている。そう視聴者は錯覚して、その錯覚を楽しむのが創作物です。


作り話は面白くないが、現実の話は面白い。


創作物とは、作り話を実際に起こっていると錯覚させる装置である。

そのように考えます。

他の考えもあるかもしれないけど、その一面は真実であると思います。


小説の冒頭で、

「やあ、僕の名前は田中五郎。健康な中学三年生だ!」

という自己紹介で始まるものはよくないとされています。


読者に向けて自己紹介すると、実際の物語……という錯覚が起きにくいからです。読者は、あくまで「こっそり」と物語を見ている謎の人で、主人公が読者に語りかけるのは危険な行為です。錯覚が解けちゃいますから。

筆者がちょくちょく出て来て解説をするのもよくないとされています。それも同じ理由だと思います。筆者の話で「作られた話」と読者は気付いてしまうからです。映画でスタッフが画面に映り込むようなものです。


もちろん、本当は観客は知っています。

映画の映像の見えない脇にスタッフが本当はたくさん居る。でも、スタッフは見えてはだめ。錯覚が解けてしまうから。


創作の物語とは、実際に起こっていると錯覚させる装置なのだと思います。

遠近法で描いた絵に奥行きを感じるように、物語は、ある手順を踏めば実際に起こっている物語だと錯覚させることができる。


小説で、さあ山場だ。というときに、

「この物語はフィクションです」

などと入れたら、読者は興ざめです。

そんなことはわかっているのです。ですがそれを入れたら読者は、「そんなの知ってる。今は錯覚を楽しんでいるから邪魔しないでくれ」と、そう思うでしょう。


小説の面白さとは何かということですが、「珍しさ」である。

と、考えています。


聞き慣れた、ごくありふれた日常の話は、あえて小説として読みたいとは思いません。そんな日常は毎日見ているからです。


読者が求めているのは珍しい話。


同じ日常でも、殺し屋の日常なら面白そうです。珍しい話だからです。自分が殺し屋であって、同業者が周りに溢れている人であれば、一般のサラリーマンの日常の話の方が面白く感じるかもしれません。それは、その殺し屋にとって「珍しい話」だからです。


異世界物など、昨今「流行り」とされているものはどうでしょう。

これなど、今では珍しくない話であるのに、流行は続きます。まだきっと、読者にとって珍しい話だからだと自分では思っています。異世界物であっても、「またか……」と食傷している展開もあって、それは面白くない話ではないでしょうか。異世界物でも、今まで見たことのない展開を読者は望みます。珍しい展開は面白いからです。


小説の新人賞では、特に「珍しさ」にこだわります。

歴史物の新人賞で信長を主人公にしては受賞が難しくなります。ラノベ系の新人賞でも異世界物は評価が低くなる。

それは、新人賞の編集部では「珍しさ」を「面白さ」と定義づけている証拠ではないでしょうか。珍しさのことを彼らはセンスと呼んでいる。……気がする。


面白さとは何か……。

そういう問いに自分で答えを出してみたくて、考えながら書いてみました。

ちょっと、まとまったっぽい気もします。


今、この時点で僕が考える小説の面白さとは、

「珍しさ」

それに、フィクションをノンフィクションと感じさせる装置としての小説。


今はこんなふうに考えています。

また、考えが変わったら、これについて書きながら考えてみたいとおもいます。以上です。



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