それでもこの冷えた手が
伊東デイズ
第1話
エンバーミング。ご存じかな?
古くは死化粧といったが、現在では亡くなった方との穏やかな別れを促すために衛生的に遺体を処置する、といった意味合いのほうが強い。
もちろん事故死や
例えばあなたが外国旅行中に不慮の事故でなくなったとする。当該地で
相手国での警察の事故検証や書類手続き等々……とにかく時間がかかる。こんなときも我々の出番だ。
およそ仕事が枯渇することはありえない業界だが、最近は同業他社の競合が激しくなってきた。少子高齢化が進むこの国では葬儀関係はこれからの成長産業だといえる。幸いわたしは独立してからというもの、技量を買われて仕事は順調だ。
なによりわたしはこの仕事を愛している。
あなたが自動車整備工だったら、持ち込まれた車の状態をみて、この車はどこを走ってきたのだろうか、と考えたりしないだろう。車両整備業界は重労働であるし、想像する時間も余力はたぶんない。
あなたが医者だったら? 同じ体を診るものではあるけれど、診察室で苦痛と愚痴を垂れ流す老人たちの中にあって、彼らの人生に思いを馳せるのは難しいだろう。
……わたしはある。
御遺体を洗浄消毒し、死後も伸び続ける体毛を丁寧に剃ってあげる。特注の――企業秘密だ――防腐剤を注入する。その後は助手たちを下がらせ、最終仕上げはわたしがやる。そのうち後任に伝授することになるだろうが、わたしを引き継ぐだけの弟子はまだいない。
最終仕上げをするのは助手たちが帰宅してからである。わたしは助手に残業は絶対にさせない主義だ。エンバーミングはある種の芸術的手腕も求められる。寝不足が原因で大切な御遺体を毀損するようなことがあってはならない。
広い地下室には誰もいない。マスターキーを持っている私だけがここに入ることができる。
かつて醸造所だった場所に我が社はある。地下は倉庫だったものを改造している。気温は常に摂氏十五度。天井の強力な空気清浄機がカビやホコリの存在を許さない。
作業デスク横のパソコンを立ち上げ、プリンタの電源を入れる。プリンタのタンクはまだ交換の必要はないだろう。
わたしは施術台に横たわる御遺体に視線を落とした。
見たところまだ二十代の女性だった。お顔は穏やかに見え、唇は柔らかく結ばれている。
故人の個人情報は我々には必要最小限しか伝えられない。亡くなった時の状況や病歴など……。過去に処置中の御遺体から施術者に感染した事例があったため、伝染性の病だった場合は、伝達が義務付けられている。今回は肌の色から間違いなく自殺とわかった。硫化水素は肌を特有の緑の死斑で染める。
彼女の職業はピアニストだったという。その繊細でありながらどこか力強さを感じさせる手を私は気に入った。
まず肌の色を復元するべきだろう。彼女がステージで演奏していた頃を彷彿とさせるくらいに美しく仕上げてあげよう。専用の化粧品もある。一般の製品と違うところは、メイク落としを前提としていないことくらいで、あまり違いはない。まあ、使われているほうは全く気にしないだろうし、わたしは手元に注意すればいいだけだ。付着するとしばらく取れないのだ。
自分で言うのも何だが、腕は立つ。
御遺族の方から、礼を言われることも多い。他のエンバーマーがさじを投げてしまうような深い傷跡だらけの御遺体を生前同様の姿でお別れの席にお届けするのは私のささやかな誇りだった。
ほぼすべての処置はおわった。彼女は……彼女の体だったものは眠っているように見える。自ら死を選択させた苦しみはお顔からは見いだせない。故人を慕う御遺族は一層悲しみを深くされることだろう。深く短い喪の期間を経て人々は日常へ帰っていく。
最後の作業が残っている。
注入された防腐剤は死後硬直と同時に体細胞から放出されるカルシュウムと結合してゲル状に固化しているはずだ。同時にバクテリアは増殖できなくなる。
わたしはすばやく御遺体の肘の部分にメスを入れる。出血はない。腱を切断し、上腕骨と橈骨を切り離す。ついでわたしは3Dプリンタのフードを開けて「腕」を取り出した。
「腕」は彼女の腕とほぼ見分けがつかない。スキャンしたデータから作り出されたヒドロキシアパタイトとプロテインからなる「腕」。皮膚の表面はすでに年齢相応の劣化処置を施している。
葬儀で露わになるのはお顔くらいで、腕まで確かめることはないが、慎重に接合する。防腐剤の粘着効果(と「腕」の構成体に含まれるプライマー)のお陰で接合は完全だ。接合痕すら見当たらない。
御遺体には保冷庫にお引取り願ってわたしは隣の部屋に行く。
特注のガラスケースにその冷えた手を入れた。満たされた保存液のツンとした香りが、一瞬わたしの鼻をくすぐる。
身体でもっとも人生に影響のある部位はどこだろう。もちろん、顔はあるだろう。女性の場合は特にそうかもしれない。
だが人生を綴る部位は下腕部……特に手……をおいて他にない。
何を掴み、何を作り、どのように生きてきたかを想像するのは実に楽しい。なんと価値あるコレクションではないか!
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