赤い河

 ガラッドとジヴが眼を覚ました時、サルキアは悪魔の中指の上で死んだヴェローナのために祈っている最中だった。


 ガラッドたちは水上に突き出す巨大生物に眼を奪われた。


「おい、あれは?」

「ご主人、イカれちまったんです。ボクたちついにぶっ壊れたんだ」


 ハイドラの長い影が三人を覆っていた。ガラッドはポカンと口を開けて「えらいことになってんな」と他人事のように漏らした。


 わずかな意識の断絶の後、彼らにとって世界は変貌していた。


「サルキア、おまえ何をのんきに――」


 ガラッドといえども、旅を共にしたヴェローナを悼む気持ちはある。それでもあんな化け物の膝元で悠長に祈りを上げる気にはなれない。


 サルキアは、うねる巨大な影さえも視界に入れたくないようだったが、ガラッドたちやヴェローナを放ってはおけず、気絶しそうな恐怖に耐えながら、この場に留まったのだという。


「わたしが眼を覚ました時には、あれは居たよ。気持ち悪すぎて直視無理。怖すぎて足がすくんでるし。もう、ダメ、連れてって!」

「賛成だが、〈大喰い〉がねえ!」

「河の真ん中に!」


 ジヴが指をさす方向にはメリサと〈大喰い〉のシルエットが見えた。 


「あのコソ泥女! 取り戻さねえと!」

「これ以上、河に近づくの? 正気?」

「ボクも長物はちょっと――」と珍しくジヴが弱気になるのを咎めるようにガラッドが提案した。


「なら、こいつを頂いちまうか。うちの商品はあっちに取られたんだ。こっちだってちょっと借りてもバチは当たらねえさ」


 操縦者のいない悪魔の中指にガラッドは鋭い眼を向けた。こんな時にも目ざとく利を得ようとするのは商売人の性だろうが、その口吻はどこか落ち着きがない。


(王都が誇る最新の兵器だ、大枚払って買い戻すだろうぜ)


 蒸気機関を扱うのは、器用なジヴにとってはじめてではない。ただし、軍用兵器の運用となると話は違ってくる。つまるところガラッドにしろジヴにしろ、何度も命をかけて挑んだ悪魔の中指を操縦する段になるとどうも腰が引けた。


「こいつは、さすがに手に余るかも」言い訳のようにジヴが言った。


「復讐は済んだ。ベイリーはヴェローナが仕留めてくれた」


 サルキアは最後にヴェローナの頬をそっと撫でた。そうすれば頬にまた血の気が差すと信じてでもいるかのように。


「待て、サルキア。ベイリー・ラドフォードは本当に死んでるのか?」

「ヴェローナが死の間際に放った一発を喰らった。生きてるわけがない。でも――」

 サルキアは言葉を濁した。


「死んでねえってんならトドメを指す必要はねえだろ。こいつは生かしておいても王宮に返り咲けやしねえ。玉座を求める遠征の失敗は大きな傷になるだろう。なんといったかな、二番手の野郎が陽の目を見るんじゃないのか」


 ガラッドにとって幾度立ち向かっても出し抜けなかった相手、それがベイリーだった。


 いつだって一枚上手を行く相手にいつしかガラッドは、憎しみ以外の感情を芽生えさせていたに違いない。その”二番手の野郎”であるルードウィンがすぐ至近の茂みに潜んでいることは知らない。


「これが玉座を賭けた大騒動の結末か。玉座もやつらも見えやしない」

「あの化け物に喰われたんだ。みんな消えちゃった」

「締まらねえな」とガラッドが物足りなさそうにぼやく。

「帰りましょう。南に。メリサでしたっけ、あの女も、ウェスも帰るんでしょう。遠足は終わりですよ」

「バカ、ウェスは俺らといっしょに帰るんだよ。こうなりゃ、このふざけた旅の唯一の収穫はあのガキだ。ふん縛ってでも――」

「いえ、やめときましょう。あのガキは飼い慣らせない」


 ジヴは、ハイドラの醜悪な巨体から露骨に顔をそむけた。


「いや、まだだよ」とサルキア。 


 公女の瞳には決意と確信の火が揺らめいた。さきほどの怯えた様子とは一変した顔付きにガラッドは眉をひそめた。


「ベイリーをあの化け物に食わせなきゃ。竜紋はみんなあいつの胃の中だってんなら、ベイリーも放り込むんだ」


「ベイリーが憎いのはわかる。だが――」


「そうじゃない」言いながら、サルキアは倒れたまま動かないベイリーの側にしゃがみ込むと見開いた眼を覗き込む。言葉にならないもどかしさがサルキアをイライラさせる。


「それだけじゃない。石みたい。でも死んでいない」


 熱に浮かされるようにサルキアは呟いた。


 ガラッドとジヴは人の形をした二つのクエッションマークのように並んで立ちすくむ。


 後顧の憂いを取り除くには、ここでベイリーの命を摘み取っておくのは良策だ。王国の新たな施政者としては正しい選択である。しかし、そんな単純なものではない、もっと深遠な理由をジヴはサルキアの表情のうちに読み取った。


 ――サルキア、今度の候補者たちにおまえが見繕ってやれ、お似合いの永遠を。


(誰? わたしにそんなふうに言ったのは?)


 サルキアは朧気な記憶をまさぐる。


 やがて、よく焼けた陽気な浅黒い顔に辿り着く。薄明の大地で日輪のごとく眩い笑顔を向けたその男は――?


「ハゼム」


 サルキアは思い出した。台地の柱状列石で見た奇妙な夢の中で、彼女はシェストラの初代王ハゼムと邂逅したのだった。その内容は奇妙で幻想的なものだったが、ただの夢にはない現実味があった。


 そしていま、その奇妙な幻想であったものが、サルキアを彼女自身の意に反して動かしていたのだった。


 そこへ――緊張感を欠いた声がガラッドたちの耳へ届いた。


「たまげたな、こりゃぁ、どうなってんだ」


 見れば、泥にまみれた男がよろよろと這い出てきた。


(近くの漁民か?)


「魚がいっぺぇ獲れるなぁ」

 

 水面に浮かんだ魚群に舌なめずりするように言うが、眼前の巨大な怪物が見えていないらしい。人は自分の常識にないもの意識の外に押し出すことがある。自己の世界像を破壊する対象を見て見ぬふりをすることが得意なのだ。


「あんた」とまだ若い漁民にジヴが声をかける。「ここは立て込んでる。悪いがどこかへ行ってくれよ」


 まだ若いというのに腰の曲がった男はにわかに反抗心を昂らせる。


「はぁ? ここいらは昔っから俺たちの漁場だぞ」

「わかってる。だけど――なぁ、あんた本当にあれが見えてないのか?」


 すると難儀そうに男は上体を上げ、ここからでは雲を突くように見えるハイドラの姿をはじめて視界に収めた。


 ――ビチャ。


 情けない音を立てて男は尻餅をついた。柔らかい金髪が振り乱された。


 ついでこの場に生者だけでなく死者も居合わせていることに遅まきながら気付いた。


 息絶えたルゴー、ヴェローナ、そしてクラリックは感電のショックで倒れたままいまだ目覚めていなかった。死屍累々とまではいかぬが、それに近い状況と言っていい。


「ふわぁああああ」


 狂乱の態で男は四つん這いのまま駆けずり回ったあげく、生死定かならぬベイリーの身体につんのめって覆い被さった。


× × ×


 大陸のあらゆる植物を食い散らしつつ疾走してきた〈大喰い〉は、いまや河の底に沈みつつあった。防水処理のされていない各部へと水が侵入してくる。


「あのガキ、女の髪をぷっつり切ったかと思えば、自分だけ飛んでったよ」


 メリサは地団駄を踏んだ。


 責められるべきスタンにはもう声など届きはない。怪物の胃の中に吸い込まれてしまったからだ。


「出てきなさいよ、あっけなく死んじゃうタマじゃないでしょう?!」


 ずぶずぶと沈んでいくのを止められはしない。〈大喰い〉を永久に失うはずのガラッドたちに向けては、ざまあみろと言ってやりたかったが、このままでは無骨な乗り物と心中するのだ。勝ち誇っている場合ではない。


(死ぬなら、誰かの胸の中がよかったよ)


 とっさに浮かんだのはベイリーの厳めしい顔だった。きつく結んだ口の中には、まるで石コロでも詰まっているようだ。全身の力が抜けそうになったメリサを鼓舞したのは、その顔だった。


 いまやハイドラの九つの首が縦横無尽に動き回り、それぞれに感知した異物を片っ端から呑み込んでいく。そのひとつが上方から覆い被さるようにメリサに向かってきた。


 円い影が沈みゆくメリサを囲い込んだ。黄色っぽい触手がわさわさと頭上で靡いた。見上げるメリサはそれ太陽のようだと思った。


(黒い太陽だ。それも落ちてくる)


 限界まで拡がった口蓋はおぞましくもどこか卑猥に感じられた。滴り落ちる粘液がメリサを濡らしていく。ある種の植物が放つような誘惑的な甘い匂いがした。すべての抵抗をやめてあの気味の悪い生き物の内側で溶かされてしまいたくなる、そんな誘惑が強い衝動となってメリサを揺さぶった。


 二度、〈大喰い〉のステアリングに額を自分からぶつけた。


 痛みと出血で眼が覚ます必要があった。濁った水といっしょにハイドラの消化器官に濾し出される運命に否を突き付けるために。


「抗え。九つの口を持つ本物のが迫ってる」


 メリサは乗り物を捨てて、行けるところまで泳ごうと決めた。あの大口がメリサを取りこぼすとは考えられなかったが、それでもやってみる価値はある。


 その時、水平に接近してくるものに気付いた。


 光で走る不思議な船。その機体は水面からわずかに浮き上がっており、摩擦なく滑るように走ってきた。


「飛び乗れ、メリサ!」


 ウェス・ターナーがメリサに手を伸ばそうとするが、怪物の巨大な口径、それがつくる暗がりの中では果てしなく心細い腕にしか見えない。すでに腰まで水に浸かったメリサは河の流れに自由を奪われつつあった。


「くそ、届かないか」


 ウェスが舌打ちした。


 メリサの方も手を伸ばすものの、わすが半スローほどの長さが足りなかった。


 ウェスがとっさに手にしたのは、ラトナーカルがロドニーから持ち出した棍棒だったが、それは重すぎてウェスの腕力では持ち上げることができない。


 みるみるうちにメリサの肩までが凍えるような水に浸かった。水面から出ているのは伸ばした左手と首から上だけだ。


「この棒め、持ちあがれぇ!」


 顔を真っ赤にしてウェスが力を込める。するとふいに棍棒は軽くなった。メリサの左手はそれを引っ掴むと釣り上げられるようにして光走船に引き上げられた。


「やったぞ」


 精魂尽き果てたウェスが振り返ると、棍棒の端を握り支えるラトナーカルの見慣れた手が見えた。おまえ、と思わずウェスが声は張り上げる。


「無事だったんだな!」


 古代機械に感電させられたラトナーカルの生死は不明だったが、こうして元気な姿を見られてウェスは飛び上がるほど嬉しかった。


「喜ぶのは早い」


 メリサが釘をさした時、重力が消えたように水が浮遊した。


 ――違う。ハイドラの口腔から生まれる強力な吸引力が、河の水を上方へ引っ張り上げているのだった。メリサの不揃いな髪も逆立った。


「しっかり掴まってろよ、おまえら!」


 ウェスは船を最大限に加速させた。


 二人と一匹を乗せた船は、間一髪でハイドラの牙なき顎をかわした。


 危難は終わらない。ひとつの首をかわすたびに別の首が迫ってくる。九つの首はレースを編むように上へ下へと重なり合いながら、ウェスたちをつけ狙った。


「ウェス、スタンが――」とメリサが言いかけるのを押しとどめて、

「あいつは死なない」ウェスは表情を変えずかぶりをふった。


 船は対岸へ、倒れたベイリーとガラッドたち、そして死してなお頽れることのないヴェローナのいる河岸へと向かった。九つの首を引きつれて。


× × ×


 ルードウィンは葦の茂みの陰に、軍服の上着とブーツを脱いだ。


 階級ごとに支給されるサーベルと制定銃もそこに置いた。顔に泥を塗りつけ、大雑把に髪を乱した。ついで腰を折って膝をО脚気味にすると、やがて軍人には見えなくなる。よろめくようにしてガラッドたちの前に出けば、彼らの見たいものになればいい。ほぼ丸腰に近い装備だったが、ひとつだけ虎の爪という弯曲したナイフを隠し持った。グリップエンドに人差し指を入れるリングがある。このナイフは、ルードウィンの命をサーベルよりも銃よりも多く救ってきたのだった。


「たまげたな、こりゃぁ、どうなってんだ」


 ルードウィンは漁民を装った。


 南部から来た元農奴の男たちに、ルードウィンの顔は知られてはいないだろう。公女サルキアとは何度も顔を合わせたことがあるが、サルキアにとって細面の軍の智将にどれだけ興味を持っていたかは不明だ。じっさいには、ルードウィンの名と顔はサルキアにとってベイリーにつぐ忌まわしい敵として記憶されていたからこそ、リドワップ台地で狙われもしたのだが、ルードウィンの安っぽい変装がまさにこの場においては功を奏した。なぜならハイドラというおぞましくも壮大な脅威が彼女を通常の思考から遠ざけていたから。


「魚がいっぺぇ獲れるなぁ」


 ルードウィンは彼の故郷の訛りで話した。ロドニーから東の方言とは似ても似つかぬイントネーションだったが、ひとりとして気がついた者はいない。


(ベイリーの生死を確かめる。ベイリーさえ亡き者にすればサルキアごときはいつだって殺せる)


「ここは立て込んでる。悪いがどこかへ行ってくれよ」


 厄介払いをしようとするジヴをルードウィンは値踏みした。隙のない佇まいだが、いかんせん疲れすぎているし、蓄積されたダメージが深すぎる。


「はぁ? ここいらは昔っから俺たちの漁場だぞ」

「わかってる。だけど――なぁ、あんた本当にあれが見えてないのか?」


 ガラッド・ボーエンの腕っぷしもなかなか強そうだが、素人の喧嘩殺法と軍隊格闘術では比較にならない。ルードウィンは体格や腕力には恵まれなかったものの、動脈や急所を狙う繊細な技術には長けていた。


 漁民に化けた総督代理は、ハイドラに驚愕してよろめくフリをしながら、仰向けになったベイリーの上に覆いかぶさった。胸に耳を当て、指先を首に当て、鼓動と脈の両方を計ろうとする。どちらもひどくゆっくりと不規則だったが、完全に途切れてはいない。


「ベイリー、君が生きていて喜ばしいよ。僕が手を下せるんだから」


 まるで褥に身を重ねながら囁く睦言のようにルードウィンは言った。


 隠し持ったナイフは手品のように一瞬で手の内に現れるだろう。そのまま頸動脈に刃を滑らせれば、ベイリー・ラドフォードの輝かしい生涯は終わる。 


 落ちかかる太陽が河口を赤く染めた。眼という窓を持つすべての生き物が、その鮮烈な赤さを内側にまで染み渡らせる。


「――なんだ、ここに居たのか、ラトナーカル」


 乾燥し、ひび割れたベイリーの唇が動いた。


 その名が誰のものなのかルードウィンにはわからない。きっと夢を見ているのだろう。せめてそれが美しい夢であることを願った。


 ベイリーの顔が濡れた。それが己の落涙のためだと気付くのにルードウィンはしばらくかかった。


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