ベイリー・ラドフォード



 ベイリー・ラドフォードは簡素な執務室から、広大な車庫を眺め下ろした。


 そこには悪魔の中指デビルズ・ミドルフィンガーと呼ばれる車体――すなわち蒸気式装甲車9型――が鎮座していた。


 黒々とした鋼鉄の塊から朦朦と蒸気が吹き出すと、ほどなく執務室と車庫とを隔てる分厚いガラスが曇った。


 首都を制圧して以来、ベイリーは懊悩の中にあった。


 絶えず付き纏うのは、悔恨の念。

 王室に巣食う奸物を討つためとはいえ、血を流し過ぎた。軍部を掌握し、腐敗した宦官と貴族どもをなぎ倒し――そして、あろうことか王家の血を引く最後の人であるサルキアを……。


 公女サルキアの父、王弟ルパートとベイリーとの間には因縁があった。

 ベイリーの父クライスは、北方の政策を巡ってルパートと意見が相違した。王法に基づき将軍クライスは北部の民を手厳しく扱ったが、ルパートは情をもって遇した。

 反乱に対する処遇に手心を加えるよう王を説得したのもルパートだった。


 王国の秩序を重く見たクライスと、北方民に心を寄せたルパートとの間に生じた軋轢は小さくはない。ルパートがなぜ北の民に肩入れしたのかは謎だった。


 やがてベイリーの父クライスは、将軍の職を解かれ、半ば強引に引退させられることになる。晩年は故郷の邸宅に引きこもり、恨みを飲んだまま病死した。


 ラドフォード家の長子であるベイリーには父の無念を晴らす責務があった。


 たとえ国の存亡がかかった混乱の最中にあっても、ルパートの子であるサルキアを見逃すわけにはいかなかった。少女を手なずけさえすれば、さらに容易にこの国の実権を握れたはずだ。しかし、ベイリーは尊父の遺恨に、血の怨恨にとらわれた。


 それは躓きの一歩目であり、死刑台へ続く階段の最後の一段のようでもあった。


 胸に残る棘のごとき疚しさ。

 それがゆえに人生の絶頂と言えるこの時点でさえ、美酒に酔うことができないでいるのだ。あどけなさを残したあの少女の横顔を思い出さない日はない。十五の歳まで幼さを残せた幸福な人生がベイリーにとっては腹立たしい。


 ベイリーは同じ年の頃にはすでに苦い初陣を終えていた。血と胆汁の味を知っていた。


 だが、とも思う。

 あんな穢れを知らぬ幼さを守るために剣は、武力はあるのではないか。弱さを圧し拉ぐためだけの力であるならば、武官はただの暴力装置でしかない。


 玉座を攫い滅多矢鱈に走り回るあの古代機械のように盲目であり、そこに知性も神聖さもないのだ。


 非情な命令でサルキアを弑して以来、ベイリーの心は凍てついたままであり、癒せぬ不眠の夜を数えていた。


 わかっていた。

 王都にいればやがてただの抜け殻のようになってしまうだろう。疚しさを拭い去り、もう一度己の血の温もりを信じられるようになるためには、もうひとつ為すべきことがある。


 玉座を王の間に連れ戻す。


 それでこそ王国は――さらにはベイリーの精神の健康も――復旧するのだ。


「調整はあらかた終わっております」

「ああ、燃料の補給地はどうだ?」

「申し分ありません。国中の炭鉱より全640箇所の補給地に運ばせる手はずです」


 ルゴーの差し出した書類にベイリーはサインをする。追跡の間、悪魔の中指は各地で石炭を補給することになる。精微なルート算出が追跡の成否を分けるだろう。


 蒸気式装甲車九型は、機械技師ヴィンス・ターナーの残した設計図から開発したものだった。老いたヴィンスは王宮を退き、湖水地方の故郷に没したというが、彼が王国に成した業績は計り知れない。しかし、そんな老ターナーさえも王宮の地下に眠る古代機械に関してはまるでお手上げだったというから、古代の技術力は想像を絶するものがある。


 ちなみにルゴーは老ターナーの愛弟子で、現代は王国の技術部の主任を務めている。ベイリー率いる追跡隊にも同行する予定だった。


「履帯はダブルブロックのものを用意致します。それと今回は蒸気機関にミレット合金のシリンダーを使用しましたので高温状態での負圧のみならず正圧の効率的な利用が……」

「もういい」


 ベイリーはとめどなく話し続けるルゴーを制した。

 興味深い話だが、いつまでも拝聴しているわけにはいかない。


 ルゴーは悪びれもせずに「これからがいいところだったのに」と呟く。


「知りたいことはひとつ。あの薄気味悪い古代のカラクリに追いつけるのか、それだけだ」

「もちろんでさ。王様の椅子をガメたあの機械蜘蛛をコテンパンにしてやりましょ」


 ルゴーは軽薄に請け負う。ヴィンス譲りの一徹さと、これも師匠から受け継いだ楽天性がルゴーも美質のほとんどすべてだった。


「最新の目撃情報は?」

「デルフォーの湿地帯ですね」

「いつのことだ?」

「一昨日の日中らしいです」

 執務室には大きな地図が飾られている。ルゴーは地図の上に指を滑らせた。

「湿地をどちらへ向かった?」

「西南の方角へ」


 ――よし。

 ベイリーには、疾走する玉座を補足する地点が見えた。 

 デルフォーの湿地から、西南の方角。そこには巨木と豊富な種類の生き物たちが住まう森があった。


「ドッジ森林地帯」


 原始の赴きを残した壮大な森林地帯。はじまりのステージとしては悪くないだろう。


 ルゴーは「ひゃっほぅ」と喜び、飛び上がった。そして車庫に通じる伝声管の漏斗状受話器に顔を突っ込むようにして吠える。


「野郎ども出発だ! 玉座をひっ捕まえて俺たちの大将のケツにキスさせろ」

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