カナリア色の未来

守宮 泉

カナリア色の未来

 水谷由李の元に手紙が届いたのは、高校を卒業した春のことだった。

 帰宅した由李は、郵便物を台所のテーブルに広げた。ほとんど父に宛てられたものであったが、一通だけ彼の名があった。無機質な茶封筒の差出人は、日田恭子。そんな名前の知り合いはいない。

 いたずらか何かの勧誘か。どちらにせよ、開ける価値はない。そう思った由李は、処分するためにハサミを取り出した。

 ふと差出人の住所が目について、手を止める。O県K市は、以前住んでいた場所だ。よく見ると部屋番号まで一致している。由李たちが引っ越した後、入居してきたのだろう。由李と同じく、向こうもこちらのことは知らないはずだ。彼は少し考えた。危険なものは入っていないだろうと判断して、封を切った。

 中に入っていたのは、数枚の便箋と外袋より一回り小さい封筒。由李は便箋より先に封筒を手に取った。彼の名が書かれた宛先の文字に、見覚えがあった。I市の消印の日付は一年ほど前。裏には何も書かれていない。

 ハサミを使うのももどかしく、口を破る。一枚だけ入っていた便箋には、「カナリアは元気にしていますか」とだけあった。


 ***


 ガシャン、と音がして窓ガラスが割れた。咄嗟にしゃがんで頭を抱える。由李の目の前にガラスの破片が散らばった。それを踏みしめる音と共に、ふわりと声が降ってくる。

「こんにちは、新入生さん」

 おそるおそる顔を上げると、制服姿の少女が立っていた。胸のリボンは臙脂色。三年生だ。風になびく黒髪に、桜の花びらが点々とくっついている。美しい立ち姿に似合わないバットを持つ手には包帯が巻かれていた。顔にもガーゼがあてがわれている。微笑むその口元からは、血が垂れていた。

「口が……」

「あら、さっき切れちゃったのね。気づかなかったわ」

 なんでもないかのように、彼女はぺろりと血を舐めとる。そして、呆然とする由李の手を引き上げた。

「迷子にでもなったの?」

 小首をかしげて問われる。我に返った由李は、本来の目的を思い出した。

「……いいえ、生物部の部室を探しているんです」

「それならちょうどよかったわ」

「え?」

 彼女は廊下のつきあたりにある部屋に鍵を刺す。上手く開かなかったのか、ドアを押さえてえいやっと声が上がった。ドアを開け放つと、立ち尽くす由李を手招きした。長机と椅子だけの簡素な部屋だ。物と言えば、机の上にぽつんと鳥かごが置いてあるだけだった。中には一羽のカナリア。歓迎しているのか、それとも餌をねだっているのか、薄い黄色の羽を揺らしてピルピルと鳴いている。

「ようこそ、生物部へ。わたしは部長の西宮桐子。これからよろしくね」

 それが、由李と桐子との出会いだった。


 ***


 二日後、由李は母校を訪ねていた。こちらは暖かく、桜が満開に近かった。入学式の頃には散ってしまいそうだ。グラウンドからは、部活に勤しむ生徒たちのかけ声が聞こえてくる。

 事前に連絡していたからか、職員室に入るなり、当時の先生たちが集まってきた。質問攻めにされたが、当時の担任、長井がやってくるとその輪は散っていった。由李はほっとしてため息をつく。

「待たせたな。じゃ、行くか」

「はい」

 職員室を出て、部室に向かう。

「あのカナリアな、獣医に見てもらったんだが、健康体だってさ」

「それはよかったです」

「お前も元気そうでよかった。突然どうしたんだ?」

 由李はちらりと隣を見やった。ほがらかに笑う長井は、当時と変わらない。あの事件があってから、先生たちの態度はぎこちなくなった。けれど、担任だった彼だけは何もなかったかのように振る舞った。

「……実は、彼女の居場所が分かったんです」

「西宮、いや高野の?」

「はい」

 桐子はあれ以来父親には縁を切られ、母親の姓に戻っていた。西宮なんて気取った名字は嫌いだと言っていたから、ちょうどよかったのかもしれない。

「もう、会ったのか?」

「いや、これから行くところです」

「そうか……」

 長井は言葉を切り、黙り込んだ。二人分のスリッパの音が空っぽの校舎に響く。シューズ特有のキュッという音がしないことで、もう生徒ではないことを感じさせた。重たい空気をかき消すように、長井が喋りはじめた。

「……今日は、泊まるのか?」

「そのつもりです」

「じゃあ、飲みでも行くか」

「先生、俺未成年なんですが」

「いいじゃないかちょっとぐらい。高校卒業したらほぼ成年だ」

「教師のくせに、何を言ってるんですか」

 そう返しながら、由李はほっと息を吐く。内心はどんな反応か来るかと緊張していたのだ。これ以上追求されないことは、ありがたかった。

 そうこうしているうちに、部室に着いた。長井は由李に鍵を渡すと、頭をかいた。

「……あいつには、よろしく言っといてくれ」

「はい」

 長井が去り、部室の鍵を開ける。うっすら机に埃が積もっていたが、何もかもあの時のままだった。机と椅子と、そして鳥かごに入ったカナリア。由李の姿を覚えていたのか、近くに寄ってきてピルピルと鳴き始めた。


 ***


 西宮家は昔から、この地域の権力を握る大きな家だ。祖父が市長を務めたこともあり、市の有力者でもあった。一人娘の西宮桐子は、父と女中との間に生まれた子だ。女中が病で死んだあと、西宮家に引き取られた。自由気ままでわがままな彼女は、しょっちゅう問題を起こし、西宮家を困らせている。

 これらはすべて、周りが言っていることだ。由李は引っ越してきたばかりで事情を知らなかったが、近所のおばさんやクラスメイトが噂しているのが聞こえてきた。生物部に入ってからというもの、ただでさえ浮いていた由李はクラスメイトに、何も知らない物好きとして遠巻きにされた。転校続きで一人には慣れていたから気にすることはなかったが、桐子の噂だけはどうにも納得がいかなかった。

「部長……また何かしましたね」

「すごいわ由李くん、なんで分かったの?」

「……今度は何ですか」

 放課後。由李が部室に行くと、桐子の怪我が増えていた。

 桐子はいつもここにいる。一度、授業が早めに終わったときに覗いてみたことがあった。鍵は開いていて、並べた椅子の上で桐子が寝ていた。目をつむり、気持ちよさそうに眠る姿は珍しく無防備だった。由李は見てはいけないものを見たような気がして、足早に離れた。授業にはほとんど出ていないようだった。

 ここにいないとき。それは怪我の原因となる何かをしているときだ。

「今日は階段から落ちたのよ。……なあに、その顔。嘘じゃないわ。あれは事故だったの」

「……本当に?」

「失礼ね。いくらわたしでも昨日の今日でやらかさないわよ」

 桐子の言う通り、今日の怪我は膝に絆創膏を貼る程度の小さなものだ。由李の目は、彼女の腕の包帯に向く。それは昨日、絡まれていた少女を助けたときに作ったという傷だった。

「もう、しないでくださいね」

「あら、心配してくれてるの? 平気よ、これくらい」

 桐子は生傷が絶えなかった。そのことで問題児扱いされているようだが、昨日のように理由があることがほとんどだ。理由なく暴れるような人ではないと思っている。 カナリアの餌箱を掃除を始める由李の後ろから、小さなつぶやきが聞こえた。

「……最初も言われたわね。傷のこと」

「そういえば、あのときはどうして窓を割ってきたんですか?」

「ガラスが邪魔だったのよ。入部希望者を逃すわけにはいかなかったから」

「それだけ、ですか」

「ええ、それだけよ」

 桐子はしれっと答えた。ある意味、問題児ではあるのだろう。根も葉もない噂も十分の一くらいは当たっているのかもしれない。由李は声を漏らさないよう、ひっそりと笑った。

 籠の扉を開けると、カナリアはバタバタッと羽ばたいて餌箱に寄ってくる。由李の手が引っ込むや否や顔をつっこんでついばみ始めた。入部してからしている世話も慣れたものだ。由李は椅子を持ってきて、カナリアを眺めた。

「この子の名前、ないんでしたよね。俺がつけてもいいですか」

 何の気なしに発した提案は、桐子によって撥ねつけられる。

「だめよ!」

 その語気は強く、思わず振り返った。立ち上がった彼女はカナリアをじっと見つめている。唇を引き結び、険しい表情だった。眉を少し下げてもう一度、だめよと小さく言う。カナリアがピルル、と鳴いて小首を傾げる。と、にっこり笑ってこちらを向いた。

「だって、いつかはここからいなくなるのよ。なのに名前をつけたら、別れがたくなってしまう」

「いつかって、いつですか」

 由李は驚いた。桐子が拾ってきたというカナリアは、生物部唯一の動物だ。彼女が卒業しても、自分が世話を続けるものだと思い込んでいた。

「わたしが卒業したら連れていくつもりよ」

「でも、家では飼えないって」

 西宮の家は厳格で、動物を飼うことは許されないと言ったのは彼女だ。一体どうするつもりなのだろう。

「どうにかするわよ」

 桐子の瞳を見ていると、本当に何とかなる気がしてくるから不思議だった。きっと、何か策があるのだ。由李はその策を知りたいとは思わなかった。彼女を信じていたから。由李は、再びカナリアに目を戻した。

 このときは、自分が一番桐子のことを分かっていると思っていた。だが、彼は何も知らない、ただの物好きにすぎなかったのだ。


 ***


「拝啓

 突然お手紙を差し上げます失礼をお許しください。

 私は現在、貴方の住んでいた部屋に住んでいる者です。ようやくお手紙を送ることができてほっとしています。

 同封した封筒は、ご覧になっていただけたでしょうか。これが届いたのは約一年前のことです。最初はいたずらかと思いましたが、前の住人である貴方宛てであると知りました。現在の住所を探すうちにずいぶん時間がたってしまいました。本当に申し訳ありません。

 一年前の手紙ということもあって迷いましたが、大事なものかもしれないと思い、送ることにしました。少しでもお役に立てていれば幸いです。

 もう連絡することもないでしょうが、皆様の多幸をお祈り申し上げます。

                                    敬具

水谷由李様

                                 日田恭子」


 由李は便箋を封筒に戻し、視線を下ろした。彼の握った手の中は、汗でびっしょり濡れている。気晴らしに手紙を読んでみたが、効果はなかったようだ。彼女に会うことを考えると、緊張が高まった。

 白い壁の施設は、駅のすぐそばにあった。ごく普通の町中に溶け込んでいる。門柱のプレートがなければ、工場のようだ。いざ入ってみると、病院の待合室のようで拍子抜けしてしまった。面会手続きの書類を書き終えれば、あとは呼ばれるのを待つだけだ。他に面会者はおらず、由李一人が座っている。

 彼はふと、顔を上げた。コンクリートで打ちっ放しの壁。この向こうには、大なり小なり罪を犯した人たちが生活している。

 あの日から二年半が経った。ほとんどの人が忘れかけているが、彼にとってはまだ終わっていなかった。少なくとも彼女がこの壁の内側から出てくるまでは。


 ***


 事件が起きたのは、夏休みに入る直前の夜のことだった。蒸し暑く、なかなか寝付けなかったのを覚えている。由李は寝返りを打ちながら、かすかに救急車の音を聞いた。パトカーのサイレンも、後を追うように聞こえてくる。ああ、どこかで事故でもあったのだろうなどとぼんやり思っているうちに眠りについた。

 朝のニュースに見知った風景が出てきて、由李は箸を止めた。テレビの画面を食い入るように見つめる。実名は出ていないが、この家の女子高生といえば一人しかいない。

 テロップの「殺人容疑」の文字が信じられなかった。夢でも見ているのかと思ったが、向かいに座る父親も口を開けていたから現実であると分かった。

 学校では、西宮家の事件の話で持ちきりだった。

「桐子さんの下にもう一人、娘がいたんだって」

「病気がちだったから認知してなかったんだろ、なんであの家にいたんだ」

「それがね、桐子さんが西宮家に入る条件にしてたんだそうよ」

「ふうん、よっぽど大事だったんだな」

「継母にいびられてたって話もあるとか」

「それがどうしてこんなことに……」

 クラスメイトたちは、黙って席についている由李をちらりと見やる。同情するような視線に耐えられなくなり、彼は教室を飛び出した。廊下で担任の長井とすれ違ったが、何も言われなかった。

 部室には誰もいなかった。机の上のカナリアは由李の姿を見るなり、小さくさえずった。主人の不在に気づいているのか、元気がないようだ。由李はそっと鳥かごの戸を開けた。ピョンピョンと跳ねたカナリアは、彼の手に移る。窓を開けると、珍しく心地いい風が吹いていた。白い雲と青い空のコントラストが夏の始まりを告げている。カナリアはじっと由李の手から離れず、外に向かってピルルと鳴いた。

 

 発見当時の彼女は凶器の紐を持ち、倒れている被害者を前に呆然としていたらしい。発見した家人の通報により、現行犯逮捕された。家庭裁判所の調査は、西宮家の状況を重視したものだった。日頃の怪我は虐待ではないかと問題視されたが、彼女は否定した。結局、詳しい事情を知ることはできなかったという。よって、取り調べでの「言うことを聞かなくて、頭に血が上ってしまった」という自白を鵜呑みにせざるを得なかった。凶器を用いているものの動機が薄く、殺意はなかったとして、彼女は傷害致死罪で検察官に逆送された。

 衝動的な殺人、しかも実の妹を、ということでこの町だけでなく、全国の人々が驚愕に包まれた。メディアは大騒ぎし、連日少年犯罪の特集が組まれた。

 

 報道が下火になってきた事件の三ヵ月後、由李の元に裁判所から呼出状が届いた。

 弁護人に付き添われてやってきた桐子は、堂々としていた。被告人席に座ると、由李に向かって微笑む。放課後、彼が部室に入ってきたかのように。由李はここが法廷であることを忘れそうになったが、裁判官の開廷を告げる言葉に姿勢を正した。

 起訴状が読み上げられた後、弁護人の陳述が始まった。被告人である桐子は罪を認めているため、ほぼ形だけの弁護だった。裁判官に呼ばれ、由李は中央の証言台に立つ。彼女と目が合い、緊張しながらもうなずいてみせる。裁判官が口を開いた。

「被告人との間柄を教えてください」

 証人尋問は彼女の人柄に始まり、日頃の言動、生活態度などを簡単に聞かれただけで、あっさり終わった。桐子の父親と義母も呼ばれていたが、事件当時の行動の確認だけだった。とんとん拍子で進んでいった裁判は終わりに近づいていく。

「被告人、今回の被告事件について最後に何か言いたいことはありますか」

 桐子は顔を上げ、裁判官をまっすぐ見た。

「みなさん、どうか正しい判断をなさってください。わたしはすべてを受け入れます」

 穏やかな声だった。そこに強さはまるでなく、去り際の彼女はどこか疲れているように見えた。

 

 下された判決は、有罪。彼女には、懲役七年の刑が科せられた。求刑懲役は十年だったにも関わらず短くなった理由は、事態を重く受け止め、全面的に罪を認める彼女の姿勢から、更正の余地ありと判断されたためである。

 由李はこれを新聞で知った。そのときにはもう現在の住所に引っ越していたからだ。それきり、彼女の話題は消えた。判決が出た後、由李は西宮家に連絡したが、「縁を切った」の一点張りで何も得ることはできなかった。


 ***


「面会準備ができました」

 そう言われて、由李は面会室に向かった。木目調の壁にオレンジがかった照明。向こうとこちらを隔てるガラスがなければ、カフェテリアと言っても通用しそうだ。目を丸くする彼に案内役の女性刑務官は、受刑者の精神安定を図るためです、と微笑んだ。そのまま促され、中央の椅子に座る。彼女は扉を閉めると、少し間を空けて口を開いた。

「……桐子さんへの面会者は今回が初めてです」

「今まで誰も来ていない、ということですか」

「そうです」

 桐子にはもう身内がいない。母方の家はどこにあるかも分からず、父方の家からは縁を切られている。その性格から、友人もいなかったのだろう。

「あなたは桐子さんとどのような関係だったんですか」

「俺は……」

 由李は口を噤んだ。どう言えばいいか分からなかったのだ。証人尋問では、所属している部活の部長だと言った。だが、今は違う。何の繋がりもない赤の他人だった。言いよどむ由李の様子を見て、女性刑務官は笑みを漏らす。

「二年経っても想ってくれる人がいるなんて、桐子さんも幸せ者ですね」

 その言葉の意味に気づいたときには、彼女はいなくなっていた。残った由李は勘違いだと知りながらも、頬が熱くなるのを感じた。

 向こう側の扉が開く。由李は頭を振って、膝に置いた拳を握りしめた。いよいよだ。

 中年の女性刑務官に伴われて、桐子は姿を現した。作業服に身を包んだ彼女は少し痩せたようだが、長い黒髪とまっすぐな瞳は変わっていない。一時見せた諦めは感じられなくて、由李はほっとした。彼女が座るのを確認した刑務官が、時間を記録している。あんなに会いたいと思っていたのに、いざ相対すると言葉が出てこなかった。 しばらく無言だったからか、面会は始まってますよ、と声をかけられた。

「久しぶりね」

 先に口火を切ったのは桐子だった。

「……本当に」

「ここに来たってことは、あの手紙はちゃんと届いたのね」

「ええ。一年の時差がありましたけど」

 由李が手紙が届いた経緯を説明すると、彼女は感心したように息をついた。

「そんなドラマみたいなこと、本当にあるのねえ。びっくりしちゃった」

 一時とはいえ世間を騒がせていた張本人とは思えない反応に、由李の体から力が抜けた。

「あなたがそれを言いますか」

「それとこれとは話が別でしょう。私のはただの犯罪だもの。ロマンも何もないわ」

「ロマン、ですか……」

「そう。ロマンよ」

 それこそ彼女が目指していたものだった。由李は桐子への糸が切れた後も、事件について調べられるだけ調べた。彼女の動機に納得できなかったのだ。あんな理由で人は、身内を殺せるのだろうか。裏に何かある。そう信じて資料を見ているうちに、とある結論に至った。桐子は殺しなどしていないのではないか、と。彼女の妹は自分のふがいなさに耐えきれず、自ら命を絶ったのではないか、と。そして、それを見つけた彼女は絶望した。彼女は、高校卒業後に妹を連れて家を出るつもりだった。あのカナリアも一緒に。

 これはただの推測にすぎない。むしろ由李の勝手な妄想といってもよかった。真実は彼女にしか分からない。だが、法廷で見たあの顔からして、真実に近いのではないかと思っている。今、それが確信に変わった。

「部長、俺」

 桐子は、鋭い口調で由李の言葉を遮った。

「部長はやめて」

「え、じゃあ何て呼べば……」

「お好きにどうぞ」

 笑みをたたえながらも、目は笑っていない。どうやらここで失敗すると、話をさせてもらえないようだった。由李は悩んだ。そして、一番シンプルな答えで挑むことにした。

「桐子、先輩」

「半分正解ね。半分間違ったから、その話は終わり。二度としないでちょうだい」

「そんな、あんまりです」

 由李の悲痛に満ちた声に、刑務官が小さく吹き出した。桐子も声を出して笑っている。その目には涙が浮かんでいた。いくら何でも笑いすぎだ、と思ったが、女性しかいないこの状況では、明らかに由李が不利だった。

「あー、こんなに笑ったのはいつぶりかしらね」

 ようやく落ち着いた桐子が涙を拭う。最初こそ苦々しく見ていた由李だったが、胸にはあたたかな気持ちであふれていた。事件直後の穏やかな笑みより、腹を抱えて笑っている方が彼女らしかった。そう思ってからやっと、自分は事件の答え合わせがしたかったわけではないのだと気づいた。

「……どうして俺に手紙を?」

 これは、封筒を開けたときからずっと気になっていたことだった。一度は消えた関係が動き出した理由となったあの手紙。あれがなければ、由李は桐子に一生会えなかっただろう。

「さあ?」

 質問に質問で返され、由李は眉をひそめる。桐子は肩をすくめた。

「わたしにも分からないの。ふとね、あのカナリアのことを思い出したのよ。あなたなら知っているんじゃないかと思って。不思議よね、もうどこか別のところにいるかもしれないのに」

「まだあそこにいますよ、カナリア」

「本当?」

 身を乗り出す勢いで食いついてきた彼女に驚きつつも、由李は後を続ける。

「ええ。長井先生に無理言って頼んだんです。俺はあの後すぐ引っ越したので。昨日見てきたんですが、健康体だそうです」

「そう……」

 桐子の顔が陰る。そのとき、刑務官が面会の終わりを知らせた。腰を上げる彼女に、由李が声をかける。

「あの」

「なあに?」

 彼女の動きが止まり、こちらを見た。由李はあわてて言葉を探す。これっきり会えなくなるのが怖かった。次に会う口実が欲しかったのだ。

「早くしてください」

 刑務官に急かされた由李は、あの時と同じ提案を持ちかけた。


 ***


 あれから三年半が経つ。大学院に進んだ由李は、研究室で頭を抱えていた。傍らには、『女の子のための名前事典一〇〇〇』というタイトルの分厚い本を広げている。彼女との面会は明日に迫っていた。

「何してるんですか先輩……って名付け?」

 ひょい、と覗いてきたのは今年入学したばかりの由李の後輩だった。彼は分厚い事典から顔を上げた。

「ああ、芝崎か。ちょうどよかった。知恵を貸してくれ」

「もしかしてお子さんができるとか? いつの間に……」

「違う、カナリアだ」

「カナリア? って炭坑の実験に使われた、愛玩鳥フィンチの一種ですか?」

「よく知ってるわね」

 そこへ、別の声が割り込んできた。見れば、眼鏡をかけた女性が研究室の扉に寄りかかっている。

「杏奈先輩!」

「こんにちは、実花ちゃん」

「何の用だ。お前の研究室は別の棟だろう」

 由李と同期である杏奈は、別の研究室に所属していた。たびたび遊びに来るため、この研究室に出入りする人間にはおなじみの顔になっている。中央に鎮座している赤い鯉の入った水槽に手を振ってから、こちらに近づいてきた。

「おーやってるやってる。もう七月も終わりかあ」

「俺をカレンダー代わりにするなよ」

 事情が分からず、きょとんとしている実花を杏奈が手招きをする。由李の方を窺いながら、こそっと耳打ちした。

「いろいろ考えてるかもしれないけど、あいつのことは諦めなさい。これ、経験者の忠告。なんせ六年も片思いしてるんだから。一途なのも大概にしてほしいわ、ほんと」

 実花は目を丸くして杏奈を見た。彼女はウインクしてそれに応える。

「芝崎に何を吹き込んでるんだ」

「大丈夫、犠牲者を減らしただけだから」

 その意味を理解できず、由李は首を傾げる。ははっと笑った杏奈は実花から離れた。

「ま、せいぜい頑張ることね」

 手をひらひら振る彼女の背に、由李はやれやれとため息をつく。一体何をしに来たのか。さっぱり分からない。すると突然、実花に睨まれた。

「由李先輩はひどい人ですね」

 捨て台詞を残して走り去る彼女を、ぽかんとした顔で見送る。しばらく女二人の言動を考えていたが、理解できそうにない。由李はこの問題を諦めて、事典に視線を戻した。手元のノートには、たくさんの名前が書き連ねてある。面会できる回数はあと十回もなかった。彼女が出てくる前に決められるか不安になってくる。由李は、あんな提案なんてするんじゃなかったと後悔した。

「あと、一年か……」


 ***


「カナリアの名前、今度こそ俺がつけますから。一ヵ月後に候補を持ってきます」

「わたしの審査は厳しいわよ?」

「望むところです」

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カナリア色の未来 守宮 泉 @Yamori-sen

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