滴る赤

瀬戸晩霞

第1話

 それは、些か宜しくない心の内の淀みであった。

 騒つく漆黒の潮のような、芯まで錆の染みた刃のような、自らを冒す悪いものであった。

 かたかたと小さく震える手、それは惨めさか、それとも悦びか。

 どんよりとした鉛色、冬の曇天よりも重苦しく、有刺鉄線を持って雁字搦めにされた様に、ずくりずくりと痛みゆく胸の内。

 熱く痺れ冴え渡る頭は、暗澹たる心持ちとは相反して、此処が天上であるかの如く実に仕合わせな思考を巡らせていた。

「僕はなんとも良い環境にいる」

 根拠のない自信という、見てくれだけは立派な張りぼての鎧を剥がされた、それ故の虚勢であるか、それとも客観的に見た事実かは識らないが、少なくとも今はそう思う他ない。

 きんと響く声は、酷く明るく晴れやかに、適度に薄暗く黴臭い、寂れた四畳半の城に響く。

「実に、実に良い心地だ」

 ぎしぎしと軋む天井が、建てつけの悪い戸の外の月が、僕の全てを肯定し、同意を示す聴衆のようで。少しばかり得意になった僕は、謳うようにその場ですぅ、と胸を開く。

「この空気も、何もかも」

 嗤う声は、爆ぜ掛けた風船のように高らかに、誇りかに、己の愚かしさという恥も知らず、夜の帳を駆け抜けてゆく。

 そう錯覚するほどに、己の声は、冷え冷えとした部屋のうちという、狭くもいとしい世界に満ち満ちていた。

「ああ、そうさ」

 脳裏を過る、身の髄を擽る甘さをもった官能を覚える梅の香と、捉える事の叶わなかった、白く嫋やかな花弁がひとひら。

「この世界で僕は、一等偉い生き物なのだ」

 偉いならば、何をしても赦される筈。

 ふと、ぱたりと本のページを繰るように移った思考。そんな中、指先に光る赤を目に留めた。

 それはさも自らが甘露であるかのように、僕の心を動かし、誘う。

 触れれば微かに指が食い込む、そのような艶めかしさを持って。

 肉感的でありながら、蝋のようにしろい肌を持つ、白魚のような指先を此方についと向ける、絶世の美女のように。

 ああ、血を口にする、その背徳のなんと恐ろしい事か。

薄暗い中でも、ありありと存在を示してみせる滑り、生温い、指先から滴る薄黄色の紅を、畏怖を押し殺し舌へと載せる。

決心から数瞬の後、ぱっと口腔に広がる、幽かな鉄の風味と、心を満たすような切ない甘さ。それは、ある意味で身を灼く快楽と、精神を緩める享楽の、辿り着く果てとも言える味である。

ともすれば崩れ落ちる危うさを、触れるだけで穢すかのような危うさを孕んだ、切り花の如く刹那的な、処女を想起させる一等の滋味である。

恍惚とした心地の中で、割れた爪の隙から漏れ出るうつくしい色彩、それを啜り、心を騒がせ、ゆっくりと目を閉じる。

「ああ、心がざわついて、ざわざわとして、如何様にも仕様がない」

本能の奥底を、柔らかなな羽根で愛撫されるかのような感覚、上がる血流と、どくりどくりと、耳の中で鳴っているのかと錯覚するほどに五月蝿くなる心臓。

 それは勘違いと恍惚の産みだした倒錯であった。

 


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