第三話:吸血衝動②

 ただでさえ衰えていた力はまるで坂道を転がり落ちるように低下していった。


 その速度は僕がここ十日の状態変化から予想していたものよりも遥かに速かった。もしかしたら、体内に取り込んだセンリの血が完全に枯渇したのかも知れない。

 吸血鬼の身体能力は人外のものだ。だから、まだ夜通し歩くことくらいは出来ているが、本格的な戦闘になれば以前との差異は明らかになるだろう。


 もしも、センリの血を吸った直後の僕と戦ったら瞬く間に叩き伏せられるはずだ。


 口数が減った。意識が朦朧とした。とにかく腹が減った。

 食事は十分以上に取っているが、やはり吸血鬼にとって食事は吸血の代替行為にするには不完全らしい。


 吸血衝動は飢えに似て、飢えとは違う。身体が熱くなり、意識が朦朧とする。まるで魂が燃やされているかのようで、事あるごとにセンリの所作に視線が向いてしまう。


 あれ以降、センリがあからさまな誘いを掛けてくる事はなかった。

 だが、その鈍い銀の輝きを放つ髪が、しみ一つない白い肌が、どこか物憂げな紫の双眸が、今の僕にとっては狂おしいほど愛おしい。

 吸血衝動により満たされるのが性欲と食欲だとするのならば、今僕がセンリに抱いている感情もその二つが統合されたものなのだろう。


 フィクション、ノンフィクション問わず、『良い吸血鬼』という物はほとんど存在していない。

 肉を食らっても、水を飲んでも、獣の血を飲み干しても満たされる事のない乾きと、徐々に抜けていく力は、きっと吸血鬼を恐ろしい怪物と化している理由なのだろう。

 まさしく、『呪い』だ。消滅へと近づいている実感は、生前一度それに似たものを味わった事のある僕でもにわかに耐え難いものだった。


 センリに頼めば少しだけ血を分けてもらう事もできただろう。

 だが、半ば意地になっていた。センリの全幅の信頼を得る方法はわからない。時間を引き伸ばす事だけが僕のできる事だった。


 まず最初にやめたのは会話だった。僕はセンリとの会話を最低限まで抑え、ただ思考に埋没する事で癒える事のない乾きに抵抗した。


 孤独には慣れていた。考える事はいくらでもあった。


 今後どうやって生き延びていくか。センリからどうやって信頼を得るか。手っ取り早く外敵に抵抗できる力を得るにはどうすべきか。屍鬼の変異先――『闇の徘徊者ダーク・ストーカー』をスキップしてしまった事で未だ使えない影に隠れる能力をどうやって取得するか。僕が次に変異するまでどれだけの時間があるのか。そして、協力者を得るにはどうすればいいのか。


 吸血鬼は流れる水を渡れない。消滅するわけではないが、水の上では身体に力が入らず、特殊能力を完全に失うという。

 だから、吸血鬼は島には滅多に現れないし、発展した大都市は周囲に人工的な川を擁している事が多い。まだ下位吸血鬼でその影響が抑えられている今の内に拠点をちゃんと考える必要がある。


 人間社会で活動するには必須になる協力者についても、難しい。

 僕には味方はいない。だが、センリの仲間は更に信用できない。


 可能性があるのは二人――二つだけだ。


 一人は、僕のようなちっぽけな下位吸血鬼よりも余程恐ろしいロードの協力者だった『死体運び』のハック。

 もしかしたら、彼ならば僕を助けてくれるかも知れない。二回程面識もある。一番高い可能性だろう。

 ただし、違法なアンデッドの取引をしているハックは本来、センリ・シルヴィスの敵だし、それをクリアできたとしても、彼は商人だ。ロードは彼に相応の見返りを与えていたから物資を補給してもらえていたのであって、僕には彼にリスクに見合うだけの報酬を与えられない。

 そして、そもそもこれが一番の問題なのだが、彼がどこにいるのかわからない。エンゲイの街にいるのかもしれないが、そこにのこのこ行くわけにも行かない。既に捕まっている可能性もある。


 そして、二つ目の可能性は――生前の僕の家だ。

 小さいが、僕の家は爵位を持っている下級貴族だった。だから奇病に侵された僕もすぐには死なず定期的に治療を受けられたのだが、アンデッドと終焉騎士を養うくらいの財産はあるだろう。


 問題は、僕の家族が寝たきりだった僕をどう考えていたのかわからない事だ。



 終わりのない思考に埋没しつつ、ただ機械のように足を動かす。


 唯一、地面に転がっていたため終焉騎士たちに持っていかれなかったロードの遺産……黒の鉈、『光喰らいブラッド・ルーラー』 が役に立った。

 ずっしりと重い鉈は、最小限の動きで、襲いかかってくる肉食の魔獣の頭蓋をかち割る事ができる。

 特殊能力を使わなければ、極わずかだが力の低下を抑えられる。


 時折、僕の注意不足で見逃してしまった獣が襲いかかってきたが、センリは僕よりも熟達した戦士だ。問題はない。


 そして、二週間近い時間を掛け、僕たちは無事、鬱蒼と茂る森を抜けた。

 そしてその時には、僕の吸血衝動は限りなく限界に近くなっていた。




§





 焦燥感と空腹が、獣の衝動が、僕を怪物にする。身体がまるで自分の身体ではないかのようだった。


 森を抜けた先――眼の前に広がっているのは地平線まで見える何もない草原だった。

 首を振り、熱っぽい思考を振り払い、目を細める。


 森と比べ、陽光を遮る物は何もない。森を抜ければ何かが変わると祈っていたが、状況がよくなっているようにはとても見えない。


 空には四分の一程に削れた月が見えた。日に日に月の大きさは縮んでいた。僕が未だ衝動を耐えられている理由の一つだ。


 吸血鬼は満月の時に最も力が強くなる。

 吸血鬼は満月の晩に狩りを行う事が多いという。力が高まるという事は感情も高ぶるという事であり、吸血衝動も強くなるのだろう。


 わからない。どうすれば良いのかわからない。

 障害物のほとんどない草原を見ていると、自分がどうしようもなく小さな存在に思える。



『エンド、貴様このままでは――死ぬぞ』



 不意に、残滓の残滓の残滓が何の生産性もない事を語りかけてくる。

 突然現れた影にも驚きはなかった。驚くほどの余裕は既に僕にはなかった。


 いつの間に現れたのか、呆れたようなロードの幻が僕を見下ろしていた。


 後ろに立っているセンリも気づいていないようだから、恐らく完全に幻覚の類だ。



『貴様の力は、限りなく低下している。よくもまあ、衝動にそこまで耐えられるものよ』


「うる、さい……」


『無駄な抵抗だ。貴様は鬼だ、生きるには血を啜らねばならぬ。なぜ、私が女奴隷を側に置いていたのか、気づいていないようだな』


「? エンド……大丈夫?」



 啜りたくないわけではない。僕が血を啜らないのは――僕の弱さ故だ。

 僕はここに至ってまだ、センリを信用しきれていない。厳密に言うのならば、センリを信用している自分を信用していないのだ。

 慎重に慎重を期す必要があった。もしかしたら、状況が致命的になるまで行動を起こせないのは、僕の悪い癖なのかもしれない。



『吸血鬼は血を吸えば吸う程強くなる。エンド、そこの女は最高級の血だ。うまく全ての血を吸い尽くせば、貴様は下位吸血鬼として――限りなく高みに登れる。逃げるなり、戦うなり、何なりできる』


「……」


『後は、どこかに身を潜め、偶然近くを通りかかった不運な者の血を啜ればいい。貴様の敵は、貴様を殺し得る敵は……極わずかなのだ』



 確かにそれは有用な選択肢だ。

 果たしてセンリが血を吸い尽くすような僕の暴挙を許すのかという疑問はあるが、やり方次第ではうまくいく可能性もある。


 だが、それではただの吸血鬼と何もかわらない。そしてただの吸血鬼はいずれ確実に滅ぼされる運命にある。


 この敵だらけの身で生き延びられるには何らかの策がいる。

 恐らく、僕がロードならばその方法でもうまくいけた。ロードには知識も経験もあるし、死霊魔術もある。恐らく、伝手もある。だが、僕にはない。


『驚嘆すべき意思、器よ。太陽刑に耐え、吸血衝動に耐え、あまつさえ半死半生でも、私の意思が侵食できないとは……』


 ロードの胡乱な目が僕を見ている。僕に囁いてくる。幻にしてはその声も姿形も驚くほどはっきりしている。




「エンド、私を受け入れろ。我が魂は貴様の中にある――私を表に出すのだ。さすればこの危機も容易く打破してみせようぞ」



 悪魔の囁きだ。これは本当に幻なのだろうか、あるいはロードの言う通り、ホロス・カーメンの意識は僕の中に残っているのだろうか。


 どちらにせよ、僕の答えは一つだ。失せろ。


 僕は一人でも、生きていける。




「エンド……酷い顔色だし、一度……森に戻った方がいい。そろそろ、夜も明ける。外を歩くのは……明日からにすべき」


「ああ…………わかった。ああ……わかってるよ。言われなくても、わかってるッ!」


 センリの言葉に、ほぼ反射的に、何も考えず答える。いつの間にか、ロードの幻は消えていた。

 手を引かれ、ふらつく肉体を叱咤してついていく。


「……ごめんなさい、今の貴方を、外に出すわけにはいかない……」


 ふと、小さくセンリの謝罪が聞こえる。だが、そんなものどうでもよかった。内容を理解する余裕すら僕にはなかった。

 眼の前の銀髪が揺れている。血の通った白い指先が僕の手に触れている。森に出る直前に水場の気配がした。そこまで戻るつもりだろう。


 恐らく、今の僕は血走った目をしていることだろう。



『エンド、喰らえ。一度、血を啜ったのだ。貴様に選択肢などない。怪物である貴様に、敵を作らない未来などないのだ』


 姿は見えないが、ロードの言葉が頭の中に響き渡る。


 左手で自分の頭を押さえる。だが、全く衝動は収まらない。


 駄目だ……もう限界だ。このままでは僕は彼女を殺してしまう。


 僕は小さく息を吸うと、自らの意思で目の前の肉に思い切り牙を突き立てた。



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