◇ 羽田朱里の季節
第一話 好きな人
「本校を志望した理由を教えてくれますか」
折りたたみの長机の向こうに座る、初老の面接官がやさしい声でいった。
七三に分けたシルバーグレーの髪。濃紺の背広。白いシャツ、ピンク地に小紋柄が入ったネクタイ。四角い黒縁眼鏡の向こう、目尻に刻まれた皺がみえる。体格は中肉中背という感じ。胸を張る彼の表情に、小さな笑みをみつける。
わたしも笑みを返した。
「はい。わたしが貴校を志望した理由はいくつかあります。わたしは将来、がんばってきた英語を活かし、国際社会で活躍できる人間になりたいと思っています。そのために高校では、日々の学習をしっかりと積み重ね、卒業時に自分の希望する進路へすすめる学力を身に着けたいです。こちらは国立大学への進学率が高く、『自主・自発・自立』という校訓が生徒一人ひとりに浸透していると思いました。また、中学校でやってきた陸上競技を、ぜひ高校でも続けたいと思っていますので、もう一つの校訓である『文武両道』が、勉強と部活の両方をがんばりたい自分に適していると思い、この高校でなら自分の理想とする充実した高校生活が送れると感じ、入学を志願しました」
「選んでくれてありがとう。ではつぎに、委員会や部活動のことを話してくれますか」
「はい。三年間、クラス委員をしました。その経験から、みんなのリーダーになるということは、みんなの面倒をみていく仕事だとわかりました。誰もが自分のために一生懸命がんばっています。上に立つ人間ではなく、下に立って、みんなの意見を聞いて雑務をこなすことで、みんなは自身のためにがんばり、その結果、まとめることができると思います。
一年生のときにバスケットボール部、二年生からは陸上部に所属しました。一年生のとき、人数の少ない陸上部から声をかけられ、臨時陸上部として参加し、そのとき陸上部の楽しさを知り、転部しました。大会では一五〇〇メートル走、走り高跳びで賞を取り、二年生のときに参加した駅伝大会では、県大会出場を果たしました。
陸上は個人競技といわれますが、実際は固い団結と強い絆で結ばれた仲間との支え合い、一つのチームとして試合に望みます。なにより仲間の応援が、がんばる力になります。走ったあとの達成感は大きく、結果が悪くても、自分が弱いところを研究し、強くなればいいと思える強さを学ぶことができました」
あたらしい年を迎え、第一志望の女子高の推薦入試を受けた。
面接場所は、小さい部屋だった。
どこかの空き教室ではなく、指導室として使われているのかもしれない。
初老の面接官が、学校でどのような役職をしているのかも知らない。
ただ、人当たりがよさそうな、やさしい感じを受けた。
十五分もかからない短い面接では、この三年間をわたしがどう過ごしてきたのか、ほんとうにわかってもらうことは不可能だと思っている。当然、目の前の面接官も把握しているだろう。それでも、わかってほしい思いをこめて、短くまとめて応答した。
結果は翌日、学校に連絡することを告げられ、面接は終わった。
帰宅すると、玄関に見知らぬスニーカーがあった。
「ただいま」
返事はない。今日は母の帰りが遅い日だ。
台所によってから階段を上がり、弟の部屋のドアを軽く叩く。
「入るよ」
「あ、おかえりなさい。お邪魔してます」
先客あり。ベッドの横の椅子に腰掛ける、後輩の陽菜。悠一郎の彼女だ。
「これ、飲み物。陽菜ちゃんもよかったら飲んで」
オレンジ果汁一〇〇%のペットボトルを二本、手渡す。
「わー、ありがとうございます」
受けとった彼女は、「もらったよ」とタオルを額に当てて眠る悠一郎に声をかける。
「それじゃあ、ゆっくりしていってね」
「お構いなく。すみません」
邪魔者は退散だ。
部屋に入るとき、二人は手をつないでいた。
弟は昔から、いま時分に体調を崩しては、風邪を引いて寝込んできた。ほかのみんなと運動やスポーツをして遊ぶことより、わたしのあとをついて廻る泣き虫な弟が、少し鬱陶しく思った時期もあった。
わたしは「手がかからない子」といわれ、家族は弟をかわいがっている。弟とはいえ長男だから、ということもあるかもしれない。なにかあると、叱られるのは姉であるわたしだったし、そういうこともあって、生意気な弟とはよくケンカもした。年上の強みで勝利してきたけれど、いつの間にかわたしの身長を越し、腕相撲でも勝てなくなった。おまけに、お見舞いに来てくれる恋人を見せつけられている。うらやましいとはいわないけれど、少しさびしい。
「先輩」
自室で勉強をしていると、ドアを開けて、陽菜が顔を出す。
「どうも、お邪魔しました」
「ん、もう帰るの?」
「はい。長くお邪魔するのも迷惑ですし」
「そう。今日は、ありがとうね。ごめんね、なんのおかまいもできなくて」
「いえいえ、こちらこそです」
玄関までお見送り。
靴を履いてから、少し困ったような顔をしている。
「あの、悠くんは、だいじょうぶなんですか?」
「うん。ただの風邪だから、心配ないと思うけど。いまの時期になると決まって風邪引くのよね、風邪引きやすい時期だし、気をつけてね」
「はい。そうですけど」
釈然としないような、煮え切らない様子。弟を心配してくれているのだろう。姉としてはうれしいかな。
「またお見舞いに来ていいから。弟もよろこぶと思うし」
そういうと、彼女の表情に明るさが戻った気がした。
「はい。あ、あの先輩」
「うん?」
「受験は……どうでした?」
「うん。やるだけのことはやってきた。結果は明日だって」
「そうなんですか。先輩ならだいじょうぶです、合格してますよ」
あ、そういうことか。
「うん。気にかけてくれてて、ありがと」
玄関の扉を開けて帰ろうとしたとき、ちょうど母が帰宅してきた。
「あら、もう帰るの?」
「はい、こんばんは。お邪魔しました」
「一緒にご飯食べていかない? 今日はすき焼き、すき焼きよ」
「いえいえ、今日はこれでおいとまします」
礼儀正しく挨拶する陽菜を、母は気に入っているらしい。
彼女が帰ってから、母はひと言。
「陽菜ちゃんって、いい子ね。誰かさんも、はやく彼氏つれてこないかしら」
おっといけない、宿題があったんだ。
わたしは自室に逃げ込んだ。
好きなひとがいないと決めつける言い様が、気に障ったわけではない。
好きなひとくらい……と、頭の中に浮かんできたのは、どういうわけか鷹秋だった。
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