第125話 決死 → 決死

 はぁ、はぁ……


 くそ! 自分の呼吸音がうるさい。あいつに触るまでだったらいっそ止まってくれたっていいのに! ……って違う! 緊張でうまく頭が働いていない、落ち着け! 落ち着け……慎重に一歩ずつ、一歩ずつ。


 エンペラーはまだ食事と遊びが楽しいようで、肉山に顔を突っ込んだりしてこちらに背中を向けている。その背中に向かって近づく、ゆっくり、でもなるべく早く……あと三メルテ……二メルテ……一メル、テ……八十センテ……五十……セン……テ……よし、いける!


「クキャ?」

「え?」


 あとは手を伸ばせば届く。そこまで近づけて、ほんの少し気が緩んでまばたきをした次の瞬間だった。まばたき一回分のほんのわずかな一コマのなかで、首を百八十度捻ったゴブリンエンペラー。その目は、はっきりと僕の目を捉えていた。


「う、うわぁぁぁぁ!」


 完全に意識の隙間を突かれてしまった動揺は、簡単に僕の心のなかを恐怖で満たした。半ば錯乱しながらも、それでも無我夢中で【技能交換】のために手を伸ばした僕の目に、ゴブリンエンペラーがにやりと笑ったのがはっきりと見えた。ぐるりと体をこちらに向けたゴブリンエンペラーの右手が振り上げられた。


 同時に僕は体に激しい衝撃を受けて、吹っ飛ばされていた。





「きゅ……きゅう……ん、きゅうん」


 体を揺すられていることに気が付く……どうやら意識が飛んでいたらしい。僕の頬をぺろぺろと舐めているのは、肌に触れているもふもふ感からモフだということがわかる。どうやらモフに心配をかけてしまったらしい……それにエンペラーとのトレードは出来なかったし、周囲はまだ危険な状況だろう。早く起き上がって体勢を整えなくちゃ。


「モフ……心配かけたね」


 傍らのモフを撫でようと左手を伸ばしながら目を開け、起き上がるため体に力を入れようとしたとき、僕の左手がぬるりとしたものに触れる。


「え? ……まさか! モフ!」


 慌てて体を起こして左手を見ると、そこにはべったりと赤い血がついていた。


「モフ!」


 その血は僕のものじゃない……僕の傍らでぐったりと横たわるモフの……血だ。白く艶やかだったモフの毛皮が大きく斬り裂かれ、モフの鼓動に合わせてどくどくと血が流れいていく。その光景に一瞬我を忘れそうになるが、いまはそんな現実逃避が許される場面じゃない!


「モフ! ちょっと待ってろ! すぐに治してやるからな!」


 モフの傷口を閉めるようにして押さえると【回復魔法】をかける。とにかく傷口を閉じて出血を止める。あとは安静にさせてあとでリミに回復してもらって、それでもだめならタツマに【再生】を借りればきっと大丈夫。絶対にモフを死なせてたまるか!


「お前が僕を突き飛ばしてくれたんだよな……無茶しちゃ駄目じゃないか。この、馬鹿モフ……」

「きゅう……ん」


 わかっている。あの瞬間、僕があのエンペラーの攻撃をかわすのは不可能だった。あの状態で無理やりトレードを仕掛けようとしてしまったことで、防御することも出来なかった。それもこれも、僕がエンペラーを恐れて冷静な判断ができなかったから……。


 モフは、モフだけがあの瞬間に僕を助けることができた。自前の【敏捷4】に『敏捷の指輪』の【敏捷2】を持っていたモフだからこそあのタイミングでも間に合った。それでもきっと、エンペラーの【神速2】の攻撃に割り込むには、僕の盾になって僕を突き飛ばすしかなかったんだ。


「ありがとう……モフ。僕が不甲斐なかったせいで……ごめん」

「きゅん」


 モフの黒くてつぶらな目と僕の【調教】スキルは、モフが『気にしなくていいのよ、私はリューマの騎士なんだから』と想いを伝えてくれる。そして……それよりも強い想いで『私のかわりにやっちゃって!』と。


「わかったよ、モフ。これ、借りるね」


 ひとまずモフの傷が塞がったのを確認した僕は、モフに力強く頷くとモフの耳から『敏捷の指輪』を抜き自分の手に嵌める。そして、モフを守るように【土】の【精霊魔法】で小さな檻を作った。僕の【精霊魔法】ではシルフィのようにあんな大きくて頑丈なものは生み出せないが、このくらいならなんとかなる。

 檻が完成したので立ち上がって周囲を見回す。周囲のゴブリンはリミとシルフィが次々と仕留めてくれていて、かなり数も減ってきている。一部のゴブリンたちには戦意を喪失して逃げ出そうとしている個体もいるが、シルフィは逃がすつもりはないらしく、逃げようとするゴブリンは優先的に攻撃されているようだった。


 それにしても……僕が攻撃を受けたタイミングでふたりが飛び出してこなくて本当によかった。ゴブリンエンペラー相手ではメイは勿論、シルフィやリミでも危ない。


 そして肝心のゴブリンエンペラーは……肉山の上に座り、死んでいくゴブリンたちを見てクキャキャと手を叩いて笑っていた。ゴートさんのときもそうだったが、攻撃した相手のことなんてまったく気にもしていない。その様子は例えるなら足下に群がる蟻を面白半分に殺して遊ぶ子供、時には潰し、時には手足をもいでもがく様を楽しみ、意味もなく水に沈めたり、火であぶったりしてもまったく罪悪感のない無知な子供。

 その蟻から反撃を受けるかも知れないなどとは欠片も考えていないのだろう。いいだろう、やってやる!


「策はあるのか?」

「ゴートさん! 大丈夫だったんですね」


 いつの間にか僕の隣に立つゴートさんの目には怒りが浮かんでいる。その怒りはエンペラーに対するものよりも、死肉をぶつけられて気絶させられてしまった自分に対するもののような気がする。きっと屈辱だっただろうな。


「あいつに認識されている状態で逃げるのはおそらく無理だ。となれば、やるしかない。まともにやっても勝てるかどうかは微妙だが、策があるなら乗ってやる。まだなにか隠しているんだろう?」


 ゴートさんの言葉に僕は迷わず頷く。この期に及んで力を隠しておくなんて馬鹿なことをするつもりはない。


「はい。その力を使えば、あいつを大きく弱体化させることができます。でもその力を使うには相手に直接触れる必要があるんです。できればあいつの動きを止めてください」

「わかった。ただし、あいつの力を考えれば機会は一度しかないと思ってくれ」


「……わかりました。必ず一度で決めます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る