第23話 淵底
「こいついつまで寝てるの?」
変な感覚と声に目を開く。どうやら髪の毛を引っ張ってられた様で、頭部の違和感と驚きから体を起こすことが出来ない。
「起きた?」
「あぁ。」
状況が整理できないが、どうやらこの娘は私で遊んでいるようで握った髪をなかなか離そうとしない。小さく息を吐き、作られた握りこぶしをゆっくりと剥がしていきようやく私は解放される。
「ごめんネ。不思議だからって言ってなかなか言う事聞かなくて。この人はあたしが何度か休む場所として部屋を借りてるフィンさんネ。」
彼女はぼうっとこちらを見ているが、どう反応するべきか分からずただ黙り込む。
「フィンさん、わざわざお部屋をお貸し頂きありがとうございました。」
「別にいい。」
ミルラの声にも答えたが、彼女はまた寝る体勢に入ってしまった。
「いつもこんな感じね。さて、いくネ。」
クルネはそう言ってさっさと部屋を出ていってしまった。仕方なくそれに続くようにして家を出ると驚くほど元気な姿のクルネがそこにいた。
藁を投げ入れ、全員が馬車に乗り込むと直ぐに走り出す。
「ところで目的地はどこネ?」
流石に全員が閉口する。クルネは場所も決めずに走り出していたというのだからどう反応するべきか分からずただ呆然としてしまう。
「首都ではないのか?」
シュラスが驚いたように声を漏らす。全員どこかまだ疲れは残っているように見えたが、それでも昨夜よりは顔色が良いようだった。クルネに振り回された為か呆れながらも表情には笑顔も出始めていた。
「クルネ様、東へ.......。東の端へ向かってください。」
ミルラが瞳を閉じて虚ろにそう告げる。その意味は分かっていた。ミルラはそう言い終えると、壁面に体を預けて眠りについたようだった。
「朝までミルラ様は起きていらっしゃったようです。やはり素性の分からない方の家で全員が寝てしまうのは怖い.......と。」
レーネは眠り込んだミルラの髪を優しく撫でる。彼女もまだ心の傷が癒えていないのだろうか、その瞳は優しいのだが酷く悲しそうに映った。
「そうか。感謝するミルラ、そしてレーネよ。」
きっとレーネも同様に眠ることが出来なかったのだろう。安心したように眠りについたようで、こてんとその場で横になっていた。
「悪いことをしたネ。安全って説明しておけば良かったネ.......。」
「いや、貴様にも負担をかけている。私達に責めるつもりは一切ない.......特に眠りについてしまった私はな。」
そう言うとシュラスが盛大に吹き出していた。
「そうネ!じゃあ東へ向かうことにするネ。端までって言われたから向かうけど、報酬は弾んで貰うから覚悟するネ!」
クルネがそういうと一気に加速していく。昨日が嘘だと思えるほどの速度に驚くものの、二人が起きる様子は無い。私はただ景色を眺めるだけというのも性にあわず寝ようと試みるも、消えてしまった眠気が返ってくることは無かった。そこでふと藁を縛り付けていた麻糸が目に入る。
私は欠片を取り出して、それを腕輪にすることにした.......が、馬車が唐突に跳ね上がり衝撃で欠片が足元に転がる。幸いなことに外に飛び出すことは無かったがヒヤリとしたものが背中を伝った。
「ごめんネ。」
いや。そう呟き、足元のそれを拾う。一つ、二つと拾い上げる。
「あ、俺がとるよ!」
シュラスが転がった赤いそれを拾い上げた.......その瞬間だった。ほんの一瞬だけ稲妻のような黒い光が辺りを駆ける。何が起きたのか分からずに周囲を見回すが変わった場所はない.......ほっとシュラスに視線を戻すと、彼の体を真っ黒なものが覆っていた。
粘着質な、ゼリー状にみえるそれはシュラスの周囲をぴったりと覆い尽くしその体は水中で浮かんでいるように見えた。虚ろな表情と電気が走ってるかのように小さく痙攣する姿に驚く。
「それを離せ。」
声を出す。しかし届かない。
「それを離せ」
声を荒らげるが、彼には届いてないようで虚ろな瞳の周りに段々と黒いそれが集まり出し吸い込まれるように消えて行く。何が起こっているかは分からないが嫌な予感がしていた。
私は無理やりその黒いものの中に片腕を入れる。ぬるりとしたそれは質量が無い、まるで空気の様に軽いというのに何故か皮膚に伝う感覚は水のそれの様。意志を持つかのように私の腕を伝い這いずり始めるそれを振り払い、私は彼の左手に握られた赤い欠片を強引に引き剥がそうとする。
ぐにゃりと突然黒いそれが重くなり、欠片と私を引き剥がすように黒いそれが強い急流で腕を外へと追い出そうとする。私はそれを堪え、なんとか欠片を奪い取る。黒いそれから欠片が抜き取られた後、息を荒らげる私の目の前で床に溶けだすようにそれは消えた。
「な、なんだ今のものは.......。」
光、振動、音。しかし私以外の人間はだれもそれに気づいていないのか、誰一人としてそれに反応はしない。だが、体の支えを失ったシュラスは座ったまま私の方へと倒れる。ぐにゃりと意識のない体は柔らかく一切の力が感じられない。
何が起こったのかが分からず、ただその細く小さな体を眺める.......しかし外観で分かるものは一切無くただ眺めるしかなかった。
少しの時間がたち、ぴくりとその体が反応を示した。
「ん?俺寝てた?」
シュラスはゆっくりと体を起こすとまるで寝起きのように目を擦り、体を震わせて大きく伸びをする。
「何も覚えていないのか?」
「え?俺なんかやっちゃった?」
シュラスは本当に何も覚えてないようでキョトンとした瞳はただ不思議そうに私を眺めているだけである。私は説明にも困り、どうするべきかを悩むが下手に彼に意識させてしまうことの方が危険ではないかと思えてしまい、口から声が出ることがない。
「おいー、ヴァイス聞いてるのか?」
「いや、なんでもない。あまりにもよく寝ていたものでな。」
シュラスはそれを聞くと恥ずかしそうに笑いながらも視線を私から外し、ただ側方を眺め始めた。
二度と他の人間に触らせてはいけない。
私の想像を超えるほどそれが危険なものなのではないかと思えてしまった.......いや、現にシュラスはどうなってしまうか分からない、それほどまでに理解の及ぶことの無い状態になっていた。
私は麻糸を解く。そして細いそれを編み直して細く強靭なそれを欠片に巻き付ける。落とすことの無いように欠片を結びつけて、一つ一つを繋いでいく。
三つの欠片で三角形を描き、更にその横から伸びるように糸を出して一つの腕輪が完成する。落とすことの無いようにと作成を企画した段階で起こった不可解な現象ではあったが、少なくともこれ以後この欠片はほかの人間に触れることは無いと思えてようやく心が落ち着いた。
大きく深呼吸して辺りを見渡す。周囲を囲むのは青々とした植物達で呼吸をする度に特有の香りが体に広がるようで心地が良い。心に鈍く刺さるものが消えることは無いだろう。幾度と無く打ち付けられたそれは一つ一つに返しがついてるかのように抜けていくことは無い。それでもただ木々だけが包むこの空間、景色はそんな重たい体にどうしてかよく響いていくようだった。
そのうちに気づけばシュラスも眠りについたようでぐったりとその場で仰向けになっていた。クルネに話しかける気にもなれず私は変わることの無い木々だらけの景色を眺める。呆然と眺めていると時間の進みが驚く程に早く、次第に日が沈み始める。
「疲れていないか?」
唯一働き続けているクルネは黙々と馬を走らせていた。
「大丈夫ネ。でもそろそろ何も見えなくなるから夜になったら野宿するしか無いネ。」
「そうか。今日も冷えそうだ。」
夕焼けが周囲を染め上げていくと同時に、横から殴りつける風は冷たく体にどんどんと染みていく。
「今日は落ち葉にでも包まって寝るしか無いかもしれないネ。」
日が地へと消えゆく直前、クルネは馬車を止めて木々の間へと駆け出す。そして辺りに落ちる葉っぱをおもむろに掻き集めると馬車の中へと適当に放り投げ始めた。
私も仕方なく辺りの木々から少しばかりの葉を頂き馬車の中へと詰め始める。そこでようやく皆が目を覚ますものの、夢うつつの彼らは小さく唸るばかりであった。
そうしてようやく幾分かの量を詰め込み終える頃にはすっかりと日が暮れて辺りで見えるもの木々の合間から降り注ぐ月明かりに照らされたものだけとなった。
「あたしも寝るネ。」
クルネは葉の中に潜り込むと直ぐに眠りについてしまった。疲れている訳ではないが、潜り込んでみれば妙な心地良さから私も眠りに誘われてしまっていた。
酷い揺れだ。
ガタガタと体が揺れる感覚に起こされる。目を開けると葉の中に埋まり、何も見えない。掻き分けて這い出でると辺りの景色が私の予想していたものとは遥かにかけ離れたものとなっていた。本当にここ数日まともな目覚めをしていない。
「起きたネ?
寝ていたからもう出発してたネ。」
辺りは一面砂と岩だらけ。殺風景な景色と凸凹な地面のせいで目覚めは最悪と言っていい。
「申し訳ありません。昨日は東と伝えただけでそれからの記憶が一切無いのです.......。任せっきりになってしまったようで.......。」
「いや、それはクルネに言うべきだろう?」
ミルラが申し訳なさそうな表情をこちらに向けるものの、言った通り私は何をした訳でも無ければ全てはクルネのおかげなのだった。
「朝からずっと謝りっぱなしなのネ。本当にミルラはもう少し適当にやることを覚えた方がいいネ。」
クルネがそう言ってシュラスをチラッと見るが、その意図に気づいたのかシュラスが何か言いたげにこちらを見つめてくる。
「あぁ。その通りだな。」
「俺ってそんなに適当なのか?」
シュラスは私の反応に何かを悟ったように問いかけるが、その声に応えるものはいなくただ全員で笑うだけであった。
「そろそろ最東端のはずネ。」
ポツポツと現れる緑。そしてその先に見えた青。そう、海である。
「見たところ辺りには何も無いネ。ここからはどこに進むネ?」
クルネが不安そうに後方のミルラに問いかける。
「いえ.......説明が難しいのですが、端まで進んでください。」
ミルラもどこか煮え切らないような答えしか持ち合わせていないようだった。クルネは首を傾げつつも馬車を海の方へとひたすらに走らせた。進めど進めど見えてくるのは転がる岩や申し訳程度の草木のみ。
街などがある様子は一切なく、これまでと比べればかなり異質である事が分かる。しかしそれでもミルラはただ海の近くであることのみを告げるだけであった。
程なくして、海がすぐそこまで迫ってくる。分かったことは海へと続くのは大きく切り立った崖であるということ。
「これ以上は進めないネ。」
クルネはそこで馬車を止める。すぐ目の前に迫った崖の下には大きな岩がいくつも連なり、波が当たっては飛沫を上げて消えて行く。
「ここにあるというのか?」
辺りを見回すとやはり岩しか無い。落ちているのかと考えるが、光るようなものは視界に入らず掘るしかないのかと考える。
「あちらの岩が入口となっているはずです。」
ミルラは崖際にある大きな岩を指さした。私はミルラの言っていることは理解出来ても意味がほとんど理解出来ない。しかしどうすることも出来ないので、仕方なく転がる大きな岩の元まで歩く事にした。
「何も無い.......みたいだけど?」
一足先に駆け寄ったシュラスは岩に触れ、探っているがなにも見つからなかったようで不思議そうにミルラを見ていた。
「いいえ、崖の方から岩の下を覗いて見て下さい。」
私は崖端のギリギリの場所を歩き、岩の裏へと回り込んでみる。すると岩の下部からその下にかけて空洞が広がっていた。そしてその奥からは緑色の不思議な光が見えた。
「ここの先にあるのか?」
私にも訳が分からなかった。
「はい、この先に村があります。そしてそこにあるのです。」
「この先に村があるんですか!?」
普段無口なレーネが驚いたように声を上げた。私も声を出してないだけで内心驚いていた。転がっているのかと思えば大きな洞穴があり、そこにあるのかと思えば村があるというのだから反応に困ってしまうのは別段おかしいものでは無いだろう。
ミルラはただ頷いている様子。私は洞穴の中を覗き込む。足元は緩やかな坂の様だが、小さな凸凹が段差のように見えなくもなかった。私はゆっくりと足を踏み入れる。少し湿った地面は岩のようで、気をつけなければ滑り落ちてしまいそうだ。
「少し距離を置いて進んだ方が良さそうですね。」
次に足を踏み入れたミルラもそれに気づいた様で後方の三人を止めてゆっくりと進んでいく。そして少し距離が空いたところで入ることにして、ゆっくりゆっくりと進んで行った。
進めば進むほどに緑色の光が強くなる。そしてその光源は壁面、そして天井にまで広がっている。進めば進むほど広がって行くそれは巨大な洞窟の様で傾斜も緩やかになっていった。
「あれは.......家.......?」
シュラスがぽつりと漏らす。洞窟の奥に見えたのは岩を切り崩した様な正方形のものでみれば熟れ始めた果実の様な鮮やかな光を灯していた。
「誰だ、おめぇらのような余所者が入れるような場所では無いのだが?」
女が一人。麻で作られたような原始的な素材のものを要所にだけ身に付けたその女は私達に明らかな敵意を向けている。短く切りそろえられた髪と大きく丸い瞳、茶色く染まった全身は犬にそれを連想させる。
握られた棒状の何か。その用途は知る由もないがいま使われようとしていることがなんであるかは想像に難しくない。
「私達はただ.......。」
「ただ?」
ミルラが何か言い訳をしようとしているようだったが言葉が続かないようで口を閉ざしてしまった。女は怪訝そうにしつつも苛立ちが募っていくようで、棒状のそれをコツコツと地面に当てている。響くそれは段々と響き、そして大きくなっていった。
「不法侵入ってやつよね。全員ここで殺すわ。」
女がそれを振り上げる。私は腕輪へと手を伸ばしーー
「やめておけ」
大きな声。女が振り返ると同時に私は腕へと伸ばした手を止める。
「どうして止めるの.......。」
「お客さんに乱暴はあまり感心せんぞ、マーヤ。主が全てを望むのは、主がそれを望まないからである。忘れたのか?」
大柄な初老の男。白く染った頭髪は薄暗い肌の色と不釣り合いの様に見えるがその大きな体に威圧感を付与していると感じる。
「ヌシらが来た目的はあえて聞かないこととしよう。ついてきなさい。」
彼はそう言うと広い洞窟の中央へと歩き始める。見えるのはいくつかの光のみ。視界は白く濁り、足元も悪い。
女はただひたすらに睨む。非常に歩きにくくはあったがとにかく男の背を追った。歩く、ただ歩く。
しかし歩くほどに視界は晴れていく。足元も心做しか平坦で歩きやすくなる。
「ヴァイス様、上を。」
ミルラの声に反応し、上を見る。天井に張り付いている緑色の光と丁度私の前方.......そこには大きな横穴が穿たれているようで細く横に亀裂のように広がるその穴からは光が矢のように降り注いでいた。
そして、辺りを抜ける風。どうやら視界を奪う煙を振り払っていたのはあの大穴からの風のようで、爽快に体を撫でて消えて行く。
「驚いただろう?」
男の声が唐突に聞こえた。
「あぁ。」
「そうだろう。まぁ後にここのことを知りたくなれば教えて貰えるはずだろう。さて、ヌシらはここで待つがよい。」
男はそう言って一件の民家の中へと入っていった。
「なんでこんな奴ら.......。」
女は小さくぶつくさと口を動かしている。私達の後方で動こうとしないのは私達の動向を疑っている為なのか、殺す機会を伺っているのかそんなことは分からないが動かないでくれるなら好都合であった。
「いいのか、ヴァイス?」
「あぁ。問題は無いだろう。」
私達はただ待つことにした。シュラスは落ち着きが無いように見えるが、それは不安であるからというその一点であることが理解出来る。
「待たせてしまったな。中に待ち人が居る。ヌシらを待っていた者、ヌシらが望む者であろう。」
彼はそれだけ言うとどこかへと消えていった。
「大長老様が.......?」
女は驚いた様に間抜けな声を漏らすが、その言葉の意味を考えることを私は放棄した。そして開かれた扉の先、布だけが唯一の遮蔽物となったその民家の中へとゆっくりと進む。
「遠い。近い。長い年月を過ごし、幾つも見てきた。いいや、見過ぎたのかもしれんの。お主らはまだ足りないのじゃろうな。のう、白竜よ」
ゾワっと身体中の体毛が逆立つ感覚。ただ何も無い床に布が敷かれただけの薄暗い部屋の中央に、まるで地蔵の如くただ佇む影。薄く細く嗄れたその声は今まで聞いた何よりも人間臭いと感じさせる。
「どうしてそれを知っていらっしゃるのでしょうか.......。」
ミルラが驚くように細い声を漏らす。
「知っている.......。見たことがあるからじゃと答えれば良いかの?」
ヒラリと老人の体を覆っている布が揺れ動く。姿は一切見えないが、その細く枯れかけた細い腕は冬の古樹を連想させる。
「お主らがいつかは訪れるのではないかと思っておった。そう言ったとしたならば、お主らは何を思う?」
私達が訪れるということを予見していた。その上この老人は私が何者であるかということを知り得ている。見たという言葉であるが、この言い回しはやはり知っているとしか考えられない。
「貴様、人間か?」
「何を言うかと思えば。」
老人は笑う。掠れた笑い声は感覚を空けてひろがりゆったりと消えゆく。
「かの権能と賢才の白竜がこの有様か。あまり笑わせないでおくれ。歳も歳、笑って逝ってしまうなど冗談であっても笑えないではないか。
ワシはどこからどうみてもただの人間。じゃがお主らはそのただの人間すらも理解してないと見えるが。
じゃがワシにそれを教える義理は無いのぉ。」
老人が顔の前の布をはためかせると布が小さな光を放ち始める。そしてそれが濃い緑を強く見せると、それが小石となって具現化する。
触らなくとも分かる。
「欠片.......。」
「これはワシがいつか訪れるであろうお主らの為にと持ち続けてきたもの。」
細い指先に乗せられたそれは段々と光を増していく。そしてようやく老人の顔が私の目に映った。
酷く痩せ細り、白く乾燥した皮膚は既に元の面影すらも残ってないのだろう。骨格だけがそのまま露わとなり今にも消え入りそうな命の光はここにいる誰もが見えているだろう。
ゴクリと喉元を鳴らす音が連鎖する。
「ふん、寿命などとっくに終えておるわ。」
「貴様は.......。」
老人は言った。持ち続けて来たと。神が我々の為にと用意したはずのそれを何年も持ち続けてきたと。考えられる事象はいくつかあるが、未来の見ることの出来ない今ではそれを確かめる手段は何も無い。
「知りたいのならばお主のその腕で掴み取るべきじゃろう。主が全てを望むのは主が全てを望まないからである。いつか主が全てを知り得た時、主を締め付けるのはきっと主そのものじゃろう。肝に銘じておくがよい。」
カランと音を立てて地面を転がる。緑色のそれが止まった時、老人の体は白く枯れていた。
「大長老様.......。」
地面を激しく揺らして女が駆け寄る。しかし既にそのものの意思で動くことが無くなったそれの腕を掴み上げると、驚いた様に声を漏らしてその場に膝をついた。
「どうして。おめぇらが何者かは知らない.......だけど大長老様が命を投げ捨ててまで.......。
余所者の分際で。」
ゆっくりと骨だけの腕を下ろさせ、女が鬼の形相で迫る。怒りを露わにした彼女の腕に握られた細い金属の様なものが頭上に掲げられる。振り下ろされてしまえばただで済むことは無いだろう。
そう思い身構えた時、金属の棒が破裂するような音と火花を散らしてその中腹部から先が後方へと吹き飛ばされる。あまりの衝撃に驚き、一歩後退するがそれは彼女にも想定外の事のようで怯えたように持ち上げられた腕を下ろす。
「同じことを二度言わせるとは。ヌシは命が惜しくないという解釈で宜しいな?」
ドスの効いた声。地を這うように、辺にあるものに共鳴し響いていくその声は決して大きいものでは無いが体そのものに語りかけるように思える。
女は短くなった棒をその場に転がすと、そのまま膝から崩れ落ちた。先程と同じ光景であるがその本質は完全に別物。震えは恐怖から来るようで俯いたその顔を彼女は頑なに上げようとしない。見たくないと現実から逸らすようにする彼女は既に行動を起こすことすら困難なほど壊れていた。
ゆっくりとした足音。ひたりと水面を水馬が歩くような静かで吸い付くような足取りを想像させる柔らかな足音。後方の破れかけた布が捲られるとそこから現れたのは先程の大柄な男であった。
その表情は彼女の顔とは対照的に冷たく、何かつまらないものを見つめるようで見つめられているだけでも温度を奪われてしまうようだった。
「ヌシには大長老の思い.......その一端を読み取るだけの知性も能力も無いのだろう?
残念だ。」
ゾワッと全身の体毛が逆立つ感覚。ゆったりと持ち上げられた剛強な腕。その腕が彼女へと振られ.......。
爆発音が響いた。地面を揺らし、耳をつんざいたその音が聞こえたのは彼の足元からであった。
「ヌシは一体どういうつもりであると言う?」
「殺さなくたって良いじゃないか。」
男が投擲しようと振ったその腕の軌道を逸らしたのはシュラスであった。その細く小さな体とそれに見合わない長振りの刀が独特の構えで据えられている。
「そうであるな。」
男が無造作に腕を横に薙ぐ。目にも止まらぬその一撃は簡単にシュラスを吹き飛ばす.......と思われた。しかし現実でそうはならず、シュラスは柄側から振られたその腕に刀では追いつかないと思ったのだろうかその細い腕で止めてみせたのだ。
「何?」
嫌な予感がした。一瞬だけではあったが明らかな殺意.......殺してやるという生易しいものでは無い。確実に殺すという強い意思とそれを可能と感じさせるだけの圧力が空間を包んだのだから。だがそれは一瞬にして消え失せ、男は後ずさった。
「興が覚めた。少年、ヌシには後でいくつか伺いたい.......。代わりに今この場で誰にも手を出さないことにしよう。」
「分かった。」
シュラスが長い刀を納める。何かによって穿たれた床から舞い上がった粉塵で悪くなっていた視界も段々と光を取り戻す。
「マーヤ。大長老の意志を踏みにじり、最大の客人にその矛を向けた代償。安いものであるとはまさか思っておるまいな?」
一際大きくその体を震わせたマーヤと呼ばれる女は未だに顔を上げようとしない。
「はい.......。」
震える声。男は床に空いた大きな穴に腕を入れて何かを拾い上げると全員に出ろとでも言うかのように入口の方を指さす。従う他無い.......そう思い私達は彼の横を通り、外へ出た。
「大丈夫か、シュラスよ。」
「大丈夫。でもあのオッサンあんな急に殴ってくるんだからびっくりしたよ。まだ腕の痺れが抜けないし本当に死ぬかと思ったよ。」
シュラスはヒラヒラと手を振ってみせる。表情は曇り掛けているものの、まだ余裕すら感じさせる。ただの打撃なんてものでは無いことは明白なはずであるのだが彼のそれは私の知るものでは既にないだろう。
「驚かされたのはこちらだ。しかし話を聞くのは後として.......マーヤ。」
ビクリと後方で何かが蠢くのを感じた。そしてその影が私達の前へと躍り出ると、その場に膝をつき両手でそれを差し出した。
「どうか、お受け取り下さい。大長老様の意志を.......どうか。」
俯いたまま震えが止まらない両の手で大事そうに緑の欠片をこちらに向ける様子は、流石の私でも気の毒と感じる。
「ヌシらが探していたものじゃないのか?遠慮するような余裕はあるまい。」
私は彼女の手のひらに乗せられたそれを受け取ることにする。淡い緑色の光が体を包むように広がる。それはゆっくりと乾燥した大地に水が染みていく様に、細胞を伝って段々と広がっていった。
そしてそれが体の端々へと染み渡った末に、私の視界はゆっくりとボヤけていき不思議な映像が映し出される。
もう何度か見ている風景。光を物質として固めたような奇妙ながら美しい竜鱗……しかしそれにあまりに似合わない雰囲気。
広くただ孤独な空間にそれは佇んでいる。何を考えているのだろうか、見下ろしたその瞳は冷たく禿げた大地を見据えている。自身の胸元をその鋭い鉤爪で搔く。激しい摩擦音と咆哮が殺風景な大地を揺らしてその赤と剥ぎ取られた白銀の竜鱗が大地を落ちる。
寂しいそこにあるモノが赤く染まると、それはやがて蠢き始めた。
そして竜はまた一度大きく咆哮をあげると、自身の猛々しく生えた角を四本切り落とした。
「まさか.......。」
思わず口をついで出てしまった。竜はまた大きな咆哮をする。陽の光に照らされた体に光が透過していく.......それとは対象的に切り落とされた角は竜の胸元で光を集め始めたように見えた。
私には分かる。そうして竜は神となって行ったのだと.......。
ポツリと落ちた雫が掌を濡らす。我に返ったことに気づき、私は空を見上げた。
「ヴァイス様.......?」
ミルラの声が聞こえた。酷く冷たい声質にも感じる。
「分かったのだ。」
私は欠片を握り込む。今はまだそのときでは無い.......分かっている。しかし強く握りこんでしまうこの腕を自身で上手く制御ができない。
「ヴァイス様!!」
冷たい。ミルラのその手はとてつもなく冷たかった。驚きと共に、急激に握っていた力が緩んでいくのを感じた。
「なぜ分かった.......。」
「何も分かりません。ただ苦しそうに感じました.......それだけの事です。」
私が苦しい.......?その言葉の意味が私にはよく理解出来なかったが事実私は彼女に救われたのかもしれないということだけが頭に残る。ふわふわとした意識がようやく今がここであるということを告げる声に反応する。
「そうか。」
言葉に詰まってしまう。それでもミルラは私を見て優しく微笑んでいるのが分かった。
「やはりか.......ヌシはやはり急がなければならないようだな。大長老は生前仰っていたのだよ、ヌシがここに来るということもヌシが急がなくては行けないということも、その理由も。」
男は神妙な面持ちでそう告げた。
「理由.......だと?」
「そう。ヌシは既にある程度の理解をしているのではないか?
自身の才覚も他の竜に劣っているということも、これ以上食われてしまってはどうしようも無くなってしまうということも。」
「それはどういう意味だ?」
聞き返すも、彼はただ一度首を横に振った。
「分かっているのだろう?大長老から伝えて欲しいと頼まれたのはここまで。それにもし真実が知りたいのならばいま視ればいい.......それが出来るだけの才能も頭も持ち合わせているのだろう。」
彼はそう言って背を向ける。あぁ。知っているとも、今がどうであるかも私の勝機が何処にあるということも。それでも知りたいと願うことは、弱いということであるとでも言うのか。
「こちらがいてはやりにくいはず。聞きたくなればまたここに来ることだ、必要な限りは話すとしよう。」
彼は一件の民家へとその大きな体を押し込んだ。本当に恐ろしいものだ.......。
「ミルラ、それと貴様らも着いてくるがよい。」
私は全員を呼んで村の近くを離れていく。そして村を霧のような煙が隠し、辺りがほとんど見えなくなる場所までつきようやく息を吐いた。
「ヴァイス.......俺には何がなにやら分からないんだけど。」
「シュラス様、きっと見れば分かるということなのだと思います。」
シュラスはそれでも納得出来ないように少し俯いているが、レーネとクルネから何かを感じ取ったのかその場で大きく深呼吸をしていた。
「ここでは息を整えるのは不正解ネ。」
案の定咳き込んでしまったシュラスであったがなんとか落ち着きを取り戻す。ここに来てからいままで殆ど息をつく暇すらなかったのだからと思い、手のひらに集まった四つの欠片を見つめる。
そうして、やはりこの場はあまりにも適さないことに気づき仕方なく元来たあの階段を登る。足元はやはり滑ってしまう為にただ登るだけでもかなりの負担がかかる。そしてようやく登り終えると暖かな陽射しと澄んだ空気が私たちを迎えてくれる。
大きく息を吸い込むと、体を一気に巡るようで潮の香りすらもとても良い匂いに感じられる。そうして全員が疲れた足腰を労わるように禿げた地面に腰を下ろす。
「ヴァイス様、これからどうなさる予定でしょう?」
「私はこれからきっと.......いや必ず生死を問う場所にを投じる事となる。その相手は少なくとも私よりもスペック上優秀であり、私よりも早く事を済ませているであろう。
だが今やらねばならぬ事。私が私である所以。何れ見せなければならないのならば今この場で見せることとしようか。」
私は立ち上がる。そして腕輪を外し、緑色の欠片と合わせて左の手のひらに載せる。集まったそれ等の光は混じりあって激しい光となる。それは握っても指の隙間を抜けてギラギラとその存在感を示し続ける。
「ヴ、ヴァイス?」
私はそれを両手で強く握りこんだ。光が体へと飲み込まれていく感覚.......それは段々と体へと染み渡り細胞の一つ一つが自身のものでは無い様に感じる程に堅く強靭なものへと作り変わっていく。
それは懐かしく悲しき記憶。そしてこれこそが私。
体の表面を膜が覆った感覚だったがそれが段々と剥がれ落ちて、銀色の光を放ち始める。頭からは光を巻き込むような渦を作り出しそれが虹色の角となる。
「私はこの大地を統べる白き龍神。その神体である。」
巨大な翼はきっと羽ばたいてしまえばこの人間達は全てこの場から吹き飛ばしてしまう。そう思えてしまい、私は空ではなく足をついて彼らに話しかける。
「ヴァイス.......様。」
「これが本当の姿だというのですか。」
意外なことにシュラスとクルネは絶句してその場から動こうとしない。だが私の目的は彼らを驚かせることでも無ければ、彼らを従順にする事でもない。
「ヴァイス様.......私との約束を覚えていますか?」
ミルラが声を上げる。私の左目はやはり光を失って居るようでその姿を捉えるために私は大きく顔を動かした。
「どうか、私の罪をここで.......。」
ミルラは目を閉じてその場で直立する。私に食われることが彼女の償いの方法.......。
「目を開けろ。」
私はそれがとても不愉快に感じてしまい声を上げる。荒らげたつもりは一切ないが、周囲が鳴動していることを感じてしまう。
「申し訳ありません.......。」
「私はそんな罪の償い方など望んではいない。この姿は私の姿だが所詮は偽りの姿であるのだ.......何故ならこの体には時間の制限があり、それ故にとても不安定なものであるからだ。
故に貴様を取り込みんだ所で戻る保証が無ければ.......正直貴様が傍らから居なくなる不利益の方が大きい。私は貴様には傍で私の欠点を補ってもらいたい、そう考えているのだ。」
「それだけで、宜しいのですか?私のようなただの人間がヴァイス様のお役に立てると.......。」
私の体は音を立てて崩れてゆく。白銀のそれは地面を染めると空気に溶けていく。そうして身体中が崩れ落ち、私は元の姿に戻っていた。握られた欠片たちは揺らめくような淡い光を放っているものの既に温かさは消え失せていた。
「あぁ。それだけで良いのだ。」
私はそう言ってその場に腰を下ろした。
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