Expression(仮)

煮物お魚

第1話

 踵からつま先に接地面が変わるたびに指先から液体が飛散する。これ以上溢れないよう前腕を衣服越しに握り締めるものの、掴む腕は赤色に浸食され始める。左腕の鈍痛は地面を踏み切るたびに響く。


 耳には不規則な呼吸が響き、口内の水分を飲み込む動作がさらに呼吸を乱す。脈拍はネズミになったかのように速く感じ、胸部に痛みが走る。


 循環器の限界が訪れた。


 蔦にその表面全てを隠された巨木に背を預け隆起した根と根の間に腰を下ろす。


 降り注ぐ雨水は口を開けば一瞬で喉を潤すことができるような勢い。自然の屋根が無ければ体にかかる身体的負担はもっと大きかった。枝葉の隙間を突き進む無数の雫を眺めながら、幾回か深呼吸をする。


 樹木の隙間に佇む陰雲の下で耳を覆うのは、心地よく響く雨音と小さく空気を揺らす遠雷だけ。音の世界は、樹葉を叩く無数の音色で埋め尽くされていた。心地良いゆらぎは滅入った心身も相まって、全身の緊張が抽出される。全身を覆う森林の澄み渡る空気を鼻から深く吸い込み、生きるためのアイデアを捻出する。


 灰を掘り起こした土の中に埋める。邪魔だと寄せた枯葉や小枝を元の位置に戻す。必死にここに居た手がかりを消す。とにかく必死に、足だけで出来る対策を執る。


 もうできることはない。たったこれだけしか行動していないのに、もうできることがなかった。呼吸も落ち着かず、全身が酷く重く感じられる。もう、あとは運を味方につけるしかない。


 瞳を閉じ膝を地につけ、大樹に願うように額を蔦に置く。真っ暗の視界は安心する。何も無いから。だから、鼓膜を揺らす振動の変化は感じ取りやすくなっていた。


 いつの間に、見つかっていたらしい。怖くて振り返ることができない。


「見つけた」


 雨に濡れた後ろ髪を握られ、染み込んだ水が絞り出された。そして一瞬で枝葉と曇天が支配する世界が映し出された。顎下に突きつけられた金属には艶やかな赤色が付着している。


 覗き込む二つの顔は安堵の表情を浮かべている。


「ご飯」


「ああ、ご飯だ!」


 同類を食べる、どんな風に。きっと年だって、近いのに。


「逃げないように」


 手首を押さえつけて、刃物を私の手に突き刺した。柄が手のひらに触れるまで深く突き立てられたのが分かる。刃が貫通した感覚から少し遅れて激痛が全身を駆け巡る。数分か数十分か、自身の中で時間が飛んでしまった。


 それでも雨は止まず、木々をすり抜ける風は強さが増すばかり。湿った葉が頬にへばり付く。


 ぼやける視界に映るのは年の差を感じない若い男女。透明な容器とこちらの身体を交互に何度も観る。その視線が初めて私と合った。左手からの痛みに耐えつつ、疑問を投げかける。


「どうして、こんなことするの?」


「うるさい」


「ご飯のためさ」


 少女は冷淡に、少年は明快に答える。


「ご飯って?」


「……お母さんが欲しがっているの」


「持っていくと美味しいご飯が食べられるんだ。たまに時間がかかるけど、新しい服や本を買ってきてくれるんだ」


 私を、食べるのかな。


「私たち、きっと年近いよね」


「あたしはもう子供じゃない」


「うん」


「お母さんは大人になってる途中だって言ってた」


「そうなんだ。はやく……大人になりたいね」


 雨は勢いをそのままに、私を水まみれにする。全身しわしわになるかもしれない。傷口の隙間に雨水が入り込んでもあまり痛くない。


「私、食べられちゃうの?」


 雨が霰になった。風は吹雪になった。全身が凍った。痛みが離れ始めていた。それでも言わなければいけなかった。


「…………オレは、嫌になってきた」


「……あなたは異常。こんなことされてるのに」


「…じゃあ、助けてくれる?」


 両者の瞳がわずかに潤んでいる気がする。


 少女は口を開かず刃物を抜き取る。少年は苦悶に震える右手を両手で包み込んでくれる。苦痛が和らぎ身体に入っていた力が抜けると、その手はいつの間に離れていた。


 穴の空いた掌と赤黒く脈動する腕が布で覆われる。普段生活していては見かけないような、幾何学模様と植物の特徴に酷似した流線が編み込まれた、見るからに高価なものだ。少女は淡々と高級品を汚す。洗ってもなかなか取れないはずなのに。


 激痛に耐えた肉体的疲労と、状況をようやく処理し終えた精神的疲労が全身を支配する。異常な出来事だった。今、空気が再び流れ始めたこの時まで、ずっと。


 食用の植物を探し終え、ここの寝床まで帰っている最中から始まった。頭上から突然少女が襲いかかってきた。手に持っていた刃物が振り下ろされ、咄嗟の自己防衛で構えた左腕に重傷を負った。刃が肌を裂き、体の中を擦り付けられる感覚が鮮明に思い出せる。刃物の持ち手で頰も殴られ口の中を切ってしまったが、歯が折れてなかったのは不幸中の幸いだったか。


 あとはずっと、必死に逃げた。なるべく走りやすい道、植物が生えていない土の上を走っていたため、足跡がすぐ見つかるのは当然だった。だから追いつかれた。帰路があやふやだっただけに、戻ってこれたのは奇跡だった。身長と同じくらいの高さから生えていた枝に荷物をぶら下げていたことがこの偶然を呼んだ。


 そして、今に至る。この短時間で空の色は変わらぬままに、雨粒だけが随分小さくなっていた。風は湿りきった頰を過ぎ去るたびに熱を奪っていく。口内に広がる嫌な味を消すために唇を潤し、雨水を何度も喉を通す。


 焦点の合わない世界の中に現れたのは、怪奇、同情、疑念、後悔。全てが混ざった二つの感情が私を見下していた。


 そんな気がした。

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