記憶喪失の男
深月珂冶
拾った男
20××年の夏。私は砂浜で、記憶喪失の男を拾った。
男の名前は、
「本当に記憶がないの?」
「はい、名前だけしか。すいません」
井川は酷く落ち込んでいた。
「警察に付き添いましょうか?」
「それは嫌です。絶対に」
井川は激しく拒否した。
何か前科でもあるのだろうか。私は警戒する。
「何で警察はだめなの?」
「なんとなく、イヤなんですよ」
もしかして、警察官に嫌がらせをされて記憶喪失になったのだろか。
「そうか。じゃあ、どうするの?」
「あの。どうか、住み込みでこの海の家で働かせてください」
井川は必死で頭を下げてきた。私は迷う。
見ず知らずの男を自分のところで、働かす。本当に大丈夫だろうか。
私のやっている海の家は、一人で運営している。だから人手が欲しい部分もあった。部屋もある。
私は井川を住み込みで働かせることにしたのだった。
記憶が戻るまでの契約にした。
井川の外見は、見栄えのいい美形だった。
恐らくどこかの坊ちゃんだろうか。
ますます不思議に思えた。
井川の働きは素晴らしかった。
手際がよく、料理も得意で客受けも良い。
私は次第に井川が気になり始めた。
けれど、その思いを封印した。
私には恋人がいるからだ。
恋人の名前は高井ユーリ。彼はロシア人と日本人のハーフで、幼いころからの縁だ。
高校生のときから恋人関係になった。
ユーリは優しくて、カッコ良かった。
けれど、ユーリは大学を卒業すると、次第に悪い人と関係を持つようになった。
在日ロシア人の仲間や、半グレと組むようになった。私はユーリを説得した。
「お願い。折角、大学も出たし、悪い人たちと縁を切って」
「それはできないよ。ボガチョンコフさんに着いていけば、良い就職先を
「そんなのウソでしょう」
「大丈夫。また連絡する。落ち着いたら結婚しよう」
ユーリはボガチョンコフというロシア人を信頼しきっていた。
それから、ユーリはモスクワへと旅立った。
七年くらい経過した今年、一本の電話があった。
「舞子か。俺だユーリだ。やっぱ舞子の言うとおりだったよ。ボガは俺を利用していただけだった」
「そんな」
「ああ。もう、遅い。ボガはいずれ、指名手配になる。俺は……どうなるか。わからない。また連絡する」
ユーリからの連絡はまた途絶えた。
その電話があったのは、井川と出会う一ヶ月前だ。
不安な気持ちがあった。だから、井川を住み込みで働かせたのもあった。
少しだけ運命のようなものを感じていた。
仕事中の井川を見つめる。井川は視線に気づくと、笑った。
「どうしました?」
「い~や。こんないい男がここに居ても良いものだろうかと思って」
「俺は少しでも長く、舞子さんと一緒にいたい」
私は少し恥ずかしくなった。
「すいませーん」
タイミングよく、お客さんが呼んでくる。
「あ、はいはい」
私は応対した。井川も私のことが好きなのだろうか。
私はその日、一日中嬉しかった。
その夜、海の家の片付けをしているときだった。
井川は言う。
「昼間のことですけど、俺、本気ですよ」
「え?」
私は突然のことで、驚いた。
「駄目ですか?」
井川は私の手を握り、見つめる。
「……あの」
「忘れられない人がいるんですよね?」
私は手を振り払い、背を向けた。
「いるというか。状況が複雑で」
「複雑って?」
「言えない。ごめん」
「いいですよ。俺も強引だし、居候の身ですいません」
井川は心なしか、しょんぼりしているように見えた。罪悪感が湧く。井川は続けて言う。
「俺のこと、信じれるようになったら教えてくださいね」
「はい」
私はその後、鼓動が止まらなかった。井川の顔はやはり、かっこいい。
けれど、井川のことは何も知らない。一月しか経っていないのだから。
私はその夜、眠れなかった。
次の日、井川の様子に変わりは無かった。
私は拍子抜けした。
けれど、普通に振舞えて安心した。
井川と目が合うと、井川は笑う。
胸がいっぱいになった。
このまま、ずっと続けばいいのに。私は思った。
けれど、そんな思いは叶わなかった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それから二週間が経ったある日、井川が大事な話があると言ってきた。
「もうここには居られない。記憶が戻ったんだ」
「戻ったの?」
「ああ」
「そう。良かった」
私は衝撃を受ける。喜ぶべきことだが、あまりにも突然で混乱した。
「じゃあ、いつ帰るの?」
「うーん。本当に突然で、すいません。三日後にも」
「そう。じゃあ、本当の名前、教えてくれない?」
「名前は、井川良だ」
「そう」
私は何時の間にか、涙を流していた。井川は突然、私の手を引き、抱き寄せふる。
「少しだけ」
井川は私を抱きしめた。
しばらくの間、私たちは抱き合った。
私は最後の三日間を心に刻もうと思った。
海の家のお客さんも、井川が居なくなることを残念がっていた。
「うそー井川さんいなくなるの?マジー」
「そうなんですよ。お世話になりました」
井川は女性客に愛想よく応対した。
「ここの料理美味しいから着ていたけど、井川さん目当てにも着てたから凄く残念」
「俺も残念です。ここ、凄く楽しかったから」
「そう!あの、連絡先教えてくれませんか?」
「それはちょっとごめんなさい」
井川は爽やかな笑顔で応対した。私はその様子を微笑ましく見つめた。
女性客は私に気づくと言う。
「あ、店長さん、今度もまたイケメン雇ってくださいね」
「はいはい」
こうして2日が過ぎた。
最終日、私は海の家をお休みにして、井川との別れの会を二人だけでやることにした。
明日から井川は居なくなる。
その事実は悲しいが、受け止めようと心に決めた。
もう会えなくなる。お別れ会は昼間にやることにした。
一緒に料理を作り、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
井川はやはり、料理の才能があった。そして、教わったことを飲み込むのが早い。
頭が良い。戻った記憶はどんなものだったのだろうか。どんな人だったのか。
拾った男 (了)
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