或ル醜人ノ話

たつみち

序章 醜人の章・零

 昔々、未だ人と神の距離が近く、共に世界を築いていたころのこと。


 どのくらいの星が流れて消えたかもわからない。


 だが人の言葉を解するころには、醜人は怪物と呼ばれていた。


 かつて魔女が住んでいたという伝承の残る小さな洞窟。


 発光苔にぼんやりと照らされながら磔にされた醜人の、飢餓に苛まれた身体は弱り果て、夜の寒さに晒された肌は温もりを失いかけていた。


 繋がれた鎖は畏怖の証。


 杭に穿たれた掌は痛みの象徴。


 そして彼の燃えるような紅玉の瞳は怨嗟の狼煙。


『ンアアアアアアアアアアアッ・・・・・・』


 彼が雄たけびを上げるたびに神聖なる山は怯み、精霊の森に静寂をもたらした。


 唇に縫い付けられた糸がつっぱり、葡萄酒のような赤が零れる。


 醜人は世界を憎んでいた。いつか暴虐の限りを尽くした者どもを屠ってやりたいとさえ考えていた。


 もはや彼の肉体は限界であったが、最後まで抗うと心に決めていた。どんなに世界を呪っても、差し伸べてくれる手はあるはずだと信じたかった。


 醜人は願った。そして不均衡な命が尽きようとするその瞬間、それはたった一人の少女によって叶えられることになる。


「やっと会えた。初めまして、ボクの供物さん」


 黎明。醜人はその深紅眼に、柔らかな光を映した。


 その光を彼は大きなものであると勘違いしたが、実際にはほんの百六十センチに満たない虹色の少女の姿であった。

醜人の体躯は、その二倍以上はあるはずだった。


「ずっと・・・・・・ずっと会いたかった。だけど時間がかかってしまった。ごめんなさい」


 魔女の棲む洞窟であると、話していたことを醜人は思い返した。だが醜人にはそれが本当に邪悪な存在であるかまで理解することはできない。


 横たわる醜人の、岩壁のような頬に、淡く白い指が這いまわる。


 醜人は何故か、全身をその透き通った少女に包まれているような気がした。


「ボクと取引をして欲しい。君はボクの言葉がわかるんだよね」


 醜人に声は紡げない。その口は縫い付けられているから。


 醜人は合図を出すことが出来ない。その肢体を鎖で縛り付けられているから。


 最後に残った瞳だけが、色波の移ろう少女をじっと見つめていた。


 それだけで十分だった。生え変わったばかりのような白い歯を薄く見せて、少女は笑った。


「この世界を壊す英雄になって欲しい。対価は、ボクのすべて」


 陽光のような、それでいて凍てつく銀河のような、不思議な色合いのワンピースに身を包んだ少女は、その身をずいと男へ寄せる。


「ボクを殺してもいい、私を玩具にしてもいい。だから救って欲しいの、人間を」


『ガ、アアアアァァァァァァァァッ!』


 人間。その言葉は醜人にとっては動脈に刺す針のようにおぞましいものであった。


 自分に悪逆の限りを尽くした存在。


 動けないはずの身体が震え、出るはずのない雄叫びを絞る。


 衝動に身を焦がす醜人に対して、少女はどこまでも冷静だった。


「確かに君を貶めたのは人間だよ。そして生贄を求めたのはボクだ。恨まれて当然だし、そのための罰を受ける覚悟も出来てる」


 少女が鈍い色の鎖に手を触れると、それらは燐光を帯びて弾ける。


「人間は醜い。放っておけばすぐに戦を起こすし、同種の中で差別をする。それにいつだってバラバラだ。人間は括れない存在なんだよ」


 長い月日を奪った枷は僅かな時間で解かれた。


 同時に、僅かではあるが手足に活力が湧き出ているような気さえする。


 醜人は既に、目の前の少女が理の外にいる存在であることを理解していた。


 集団という輪から外された自分に重ねてしまったと、いうべきかもしれない。


 少女はどこまでも穏やかに、まるで喚く赤ん坊をあやすかのような様子で、醜人を解放していった。


「でもね、草原の中に一輪の花が咲くように、美徳に生きる人間もまた存在する。彼らは君のように悪意無き悪意で簡単に踏みつぶされてしまうんだ」


 少女の語りは囀りのようで、耳に心地よく響いてくる。


 醜人は葛藤を覚えていた。


「人間を誑かす存在がいる。天から下り俗世で腐った、かつて神と呼ばれたものだ」


 少女の眉間にしわが寄った。それはこれまでのやり取りで初めて彼女が見せた激情であった。


「それを殺す。一人残らず、塵一つ残さないくらいに。そのためなら、ボクは全ての代償を払おう」


 醜人は虹色としか形容できない少女の色に戸惑っていたが、それは間違いだった。


 少女の心は、まぎれもなく彼と同じ色だ。


 揺らぐことのない赤色だ。


「もう一度問わせてほしい。この世界を壊す英雄になって欲しい。対価はボクのすべてだ」


 醜人は上体を起こし、少女と対峙していた。


 体力こそ極まっているが、彼女の頭を握って砕くことは容易であろう。


 あくまでも選択権は醜人の中にあった。


「もし受け入れてくれるなら、君の顔、もっとよく見せて欲しいな」


 最後の言葉はとても優しくて。


 迷いは、もう既に浄化されていた。


 醜人は少女の、真実だけを信じようと決めた。


「契約完了だね」


 紡ぐが早いか、少女は醜人の厚く充血した唇に口づけを交わす。


 その時唇に縫い付けられた糸はどこからとなくほつれて銀粉となって大地に降り、同時に暗く淀んだ周囲の景色が鮮やかになっていくのを感じた。


 体の奥が滾り、失われた感覚が徐々に蘇ってくる。 


「ふふ、こんな温もり、初めて」


 不定色な少女の髪が徐々に色彩を失い、黒く艶のあるものに変化する。


 瞳はヘーゼル、ワンピースは純白の穢れなきものへ。


 決して華美なわけではない。村を巡れば一人くらいはいるであろう、そんな平凡な少女へと、彼女は変貌した。


「君のアニマは、いつかどこかで見た幻影だったのかな」


 くるりと回ってみせると、先ほどまでの妖しげな雰囲気はすっかり消えてしまっていた。


「これからはずっと一緒だからね」


 少女が胸元に飛び込んでくるのを受けても、醜人はずっと惚けていた。


 今この時、彼は初めて人の温もりというものを知ったのだった。


 斯くてこれより語られる英雄譚は、全てこの出会いに帰結する。


 二人の出会いは、星座の流転と同じように必然であったのだから。

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