暴走族オンライン ――リアル優等生の僕もゲームの世界じゃ天上天下唯我独尊!――
太陽ひかる
第一話 ファントムダイブ
第一話 ファントムダイブ
西暦二〇XX年七月某日、その日は朝からずっと雨が降っていた。雨は放課後になってもついぞ止む気配がなく、陰鬱な雨音が響く二年の教室では、誰もが自主的に居残ってそれぞれの課題に取り組んでいた。教師もそんな生徒たちに付き合って、放課後になってもまだ勉強をみてやっている。進学校ではよくある光景だ。
そんななか、一人だけ手際よく帰り支度を整えて席を立つ、制服の少年がいた。
「生徒会あるから、お先に」
教室を出る間際、重光は仲の良い友達に
重光は教室を出ると、人がまばらな廊下を生徒会室に向かって歩き出した。生徒会役員は全校集会の司会から学校行事の手配まで毎日のようにやることがあって、特に文化祭など大きな行事のある時期は文字通り忙殺されるが、今日は来週一週間の予定を確認する、毎週金曜日の定例会議があるだけだった。
生徒会室の前までやってきた重光は、扉を控えめにノックした。
「失礼します」
そう云って扉を開けると、書記の席に座っている女生徒と目が合った。
「こんにちは、本田さん」
「ええ、こんにちは。あなたが一番最後よ」
そう冷たい声で返事をよこしたのは
生徒会役員は会長一名、副会長一名、書記と会計が二名ずつである。上半期にあたるこの時期、一年生の役員はまだいない。彼らは『コ』の字型に配置された長机の各席に座っており、重光が着席して六人が揃うと、会長である三年生の男子が溌剌とした声で云った。
「それでは本日の定例会議を始めます! 起立、礼!」
そうして生徒会の定例会議が始まり、いつも通り、一時間ほどで終わった。
そのあと全員で生徒会室を出ると、生徒会長が鍵をかけた。その古典的な鍵を見せびらかしながら会長が笑って云う。
「困ったものだな。ファントムダイブなんてSFじみた技術が実現してしまった時代なのに、伝統ある我が校は校舎が古くて、未だにこんな鍵で各教室を施錠している」
その鍵を、会長は重光に投げて寄越した。反射的に鍵を受け取った重光に会長が云う。
「川崎、たまには職員室に鍵を返しにいく係をやってくれないか」
「いいですよ」
生徒会室の鍵の管理は会長の仕事だが、頼まれればやぶさかではない。重光は快諾すると職員室へ行き、鍵を返してから昇降口へ向かった。
昇降口は薄暗く、電気もついていなかった。会議のあいだに一時間経っている。さすがに居残り組も帰ったころだ。それなのに、下足のところに、靴を履いた観空が青い傘を携えて立っていた。重光は目を丸くした。
「どうかしたんですか、本田さん?」
「あなたを待っていたの。少し話をしようと思って」
重光は少し驚いた。二人は同じ生徒会役員だが、クラスも違うし性別も違う。これといって親しくはなく、生徒会室を出たらもう接点などないはずだった。
雨音を聞きながら固まってしまった重光に、観空はつまらなそうな顔で訊ねてきた。
「あなた、部活はやらないの?」
――なぜそんなことを?
重光は胡乱に思いつつも、表面的にはよどみなくすらすらと答えた。
「やりませんよ。ただでさえ進学校で勉強が大変なのに、学級委員長かつ生徒会役員。そのうえ部活までやったら、さすがにパンクしてしまいます」
「そう。私は生徒会とクラス委員長の仕事に加えてピアノの御稽古もやってるけどね。両親がともに音楽家で、名前もドレミのミソラにかけて名付けられたくらいだから」
「へえ、そうなんですか」
「ちなみに川崎くん、成績は?」
「上位……ですが、一日『四十八時間』勉強漬けのトップ集団には、とても叶いません」
重光は淡々と答えながら外靴に履き替え、それから観空を不思議そうに見た。
「それにしても突然どうしたんです?」
「別に……あなたが職員室に鍵を返しに行ったあと、会長に云われたのよ。私たち、二年生同士なのにあまり打ち解けてないみたいだ、もう少し仲良くしておけ、って」
「なるほど……」
――俺に鍵を返しに行かせたのも、そういうことか。
重光と観空は一年生の下半期から二期連続で生徒会役員に当選している。順調に行けば来々期まで、つまり三年生の九月に引退するまで生徒会役員として働くだろう。
「いずれ私たちが生徒会会長と副会長になるわ。どっちがどっちかはわからないけど……」
「それで会長が気を回したというわけですか。なるほど、理解しました。たしかに今後のためにも、僕らはもう少しお互いのことを知っておいた方がいいのかもしれません。会長のおっしゃる通りだ。これからはもっと話をしましょう、本田さん」
「ええ、そうね、川崎くん。仲良くしましょう」
そうして二人は微笑みながら握手を交わした。冷たい手だと思いつつ、重光は握手を終えようとしたのだが、そのときいきなり観空が重光の手を強く握りしめてきた。
重光が驚いて観空の顔を見ると、そこには氷の微笑があった。
「仲良くしましょう――と、云いたいところだけど、もう駄目。ああ、気持ち悪い。なにこの会話? この握手? ほんと耐えられないわ。あなたもそう思わない?」
突然あらわになった悪意と敵意を目の当たりにして、重光はただただ驚き、呆気に取られた。そんな重光を自分の方へと引っ張り込んで観空は云う。
「もうこの際だから云うわ。私、あなたのこと嫌いなのよね」
それには重光だって傷ついた。眉宇を曇らせる重光に、観空は矢継ぎ早の言葉を放つ。
「だってあなた、いつも本音で話してないじゃない。なに考えてるのかわからないし、優等生を演じてるだけって感じがするわ。そうでしょう?」
その通りだった。返す言葉もない重光を、観空はせせら笑ってなおも云う。
「私、そういうのわかっちゃうのよ。だって私も、同じだから」
「え……?」
――本田さんも?
優等生を演じているだけの娘。
本田観空をそう理解したとき、重光は衝撃に胸を貫かれていた。彼女はいたずらに重光を罵倒していたのではない。自分の素顔、本性を見せてくれていたのだ。そして今、本音をぶちまけた爽快感からか、おかしそうに笑っている。そう悟ると、重光は感動した。体がふるえて、その気持ちに応えたいと思った。
「僕がなにを考えているかわからない? 優等生を演じているだけ? 面白いことを云いますね。その通りです! だからこの際、僕もひとつ本当のことを云いましょう」
そして重光は熱情に浮かされて、冷静だったら絶対に口にしないことを云った。
「僕はこのあとアルバイトです」
観空の目がまんまるに見開かれた。その隙をついて観空の手を振りほどいた重光は、一歩退き、中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「今年になってから、母の友人が小学生の娘に家庭教師をつけたいとおっしゃって、でもいいところの御令嬢なので知らない人間を家に上げるわけにはいかないと。そこで僕に白羽の矢が立ち、週に二日ないし三日という契約でお引き受けしました」
観空はたちまち胡乱げに顔をしかめた。
「……アルバイトは校則で禁じられているはずよ。なにかやむを得ない事情がある場合は別だけど、申請が必要なはず」
「ええ。なので母や先方には、学校には学業振興のためということで認められたと――」
そこで重光は、観空に向かってべーっと舌を出した。
「嘘をつきました」
「な――」
そのときの観空の顔と云ったらない。いつも八面玲瓏を装っていた彼女がそんな間抜け面をさらすのは、実に面白い見世物である。重光は心で笑いながら、表向きは何事もなかったかのように舌を引っ込めると、涼しげに続けた。
「実際には、学校には無断でやっています。どうします? 密告しますか?」
「……まさか。そんなことしないわ。あなたがこの件で処罰されたら、あなたはともかく、あなたが教えてるっていう小学生の女の子が可哀想だもの」
「結構。でも人に勉強を教えるのって、自分にとっても勉強になるんですよ。本田さんも機会があればやってみるといいですよ、家庭教師」
重光はそう云うと傘立てから自分の傘を取り、そぼ降る雨のなかに出ていった。あとに観空がついてくる。雨の校庭を通り抜け、校門を出たところで観空が云った。
「たまに帰る方向が違うと思っていたら、バイト先の家へ向かっていたのね」
「よく見てますね。まあ、そういうことです。それではさよなら、本田さん」
「さようなら、川崎くん。また明日」
こうして二人は校門前で別れた。
◇
重光が住んでいるのは東海地方の小都市だった。都会とも田舎とも呼べぬ、少し寂れたその街を、しとしとと降り続ける雨のなか、傘を差して歩き続けるうちに、重光は閑静な御屋敷街へと足を踏み入れていた。
そんな御屋敷街のなかに、一際立派な三階建ての洋風邸宅がある。正門の向こうは駐車スペースになっており、外車が雨に打たれて水煙を立てていた。門の横にある出入りのための通用口には、『山葉』という表札がかかっている。
重光はその前に立つと、インターホンは押さずに携帯デバイスを取り出し、母の友人に電話をかけた。相手に繋がると、重光は作った声で切り出した。
「こんにちは、川崎です。家庭教師に来ました」
「いらっしゃい、重ちゃん。今開けるわ」
すぐにピーッと通用口が開錠される電子音がした。そこをくぐって扉を後ろ手に閉めると、扉はまた自動的に施錠された。そうして外車を横目に前庭の踏み石を渡り、玄関の前に張り出した屋根の下まで行くと、重光はそこで傘を下ろして扉の脇に立てかけた。傘からしたたる水で玄関のなかを濡らすのが、なんとなく憚られたのだ。
「失礼します」
チョコレート色の扉を開けると、玄関を上がったところに小柄な美少女が佇んでいた。
「ごきげんよう、先生」
「はい、ごきげんよう、愛梨ちゃん」
重光が靴を脱ぐと、愛梨が如才なく靴の向きを揃えてくれる。自分でやろうと思っていたのだが先回りされてしまい、重光が苦笑いしていると、愛梨は重光を見上げてにっこり笑った。そこへ
「雨のなか、御苦労様。濡れなかった? あとでお茶を持っていくから」
「いえ、おかまいなく」
と、重光はいつも云うのだが、重光たちが愛梨の部屋に入ってきっちり十五分後にお茶を運んでくるのが、愛梨の母親の完璧なところだった。
その母親に向かって愛梨が云う。
「では御母様、愛梨は先生と御部屋へ向かいますわ。先生、参りましょう」
重光は愛梨に手を引かれ、とっつきの階段をのぼって二階にある彼女の部屋に入った。女の子らしい部屋で、ぬいぐるみやアップライト・ピアノやソファセットがある。
重光はソファに腰を下ろすと向かいの席を愛梨に示して云った。
「じゃあ前回の宿題を見ましょうか」
勉強を教えると云っても、いきなり愛梨を机に向かわせるわけではない。まずは前回出した宿題の答え合わせをし、少し話をしてモチベーションを確認してからが本番だ。重光も愛梨に勉強を教えるかたわら自分の課題をこなし、途中で夕食をごちそうになり、また愛梨の勉強を見て、午後十時ごろに山葉宅を辞するというのが理想的な流れである。
だが最近はそう上手くいかない。
宿題の答え合わせを終えたところで愛梨の母がお茶を運んできた。彼女は少し世間話をし始めたが、すぐに愛梨が目に角を立てて云う。
「御母様、御勉強の邪魔ですわ。そういうお話は夕食の席にしてくださいませ」
「ああ、そうね。じゃあ愛梨、しっかりやるのよ」
そう云って愛梨の母親が退室していくと、それを完璧なお嬢様の挙措で見送った愛梨は、勢いよく扉に鍵をかけた。これでもう夕食の時間まで邪魔は入らない。ピアノのある部屋だから防音だし、少し騒いだくらいでは聞こえないはずだった。そして愛梨はまっすぐベッドまで行くとそこで身を投げ、小さい子供がやるように手足をばたつかせ始めた。
「ああ! もう、やだやだやだあっ! 愛梨、勉強なんてしたくない! 塾も行きたくない! お稽古事もしたくない! したくないよう!」
はあ、と重光はひそかにため息をついた。
――また始まったか。
愛梨が重光の前でこんな姿を見せるのにはわけがある。
そもそも愛梨は出会ったときから無理をしていた。愛梨の両親はたしかに娘を愛していたが、子供にこうあってほしいという想いが強すぎて、愛梨をお嬢様の型に嵌めようとしているところがあったのだ。それでも勉強や習い事だけなら、気の持ちようで楽しむこともできたろう。しかし愛梨の場合は、それに加えて日頃の振る舞いにも注文をつけられ、家のなかでも完璧なお嬢様を演じねばならなかった。それが相当なストレスになっていることに、あの母親は恐らく気づいていない。いや気づいたとしても、それは弱さだとして叱るのではないか。
そんな愛梨のいびつな状況に、重光は素早く気づいた。自分と同じだったからだ。
――優等生を演じてるだけって感じがするわ。
観空の言葉が耳の奥に蘇り、重光は苦笑しながらベッドまで歩み寄った。すると急に大人しくなった愛梨が、甘えるような目でこちらを見てくる。
最初に出会ったときは、もっと冷ややかな目をしていた。だがある日曜日、一緒に遊びに行ったのをきっかけに仲が深まり、ついには重光の前でだけ年相応、いや年齢以下の幼児じみた振る舞いをするようになった。重光はこれを、普段抑圧されている反動が来ているのだと解釈している。だから優しく、あやすように声をかけた。
「ほら、愛梨ちゃん。ぐずらないで」
すると愛梨は涙目で重光に両手を差し伸べてきた。
「お兄ちゃん先生、抱っこ」
「はいはい」
重光がベッドに腰を下ろして手を広げると、愛梨は強く抱き着いてきた。そして制服の上から、重光の鎖骨のあたりを軽く噛んだ。この噛み癖はごく最近になって現れたものだ。
――まずいな。
愛梨の精神状態は悪化の一途をたどっていた。原因は彼女の両親だが、他人の家庭に口を出すのも憚られる。ではどうするか。重光には一つだけ、思いつくことがあった。
「愛梨ちゃん」
「なあに?」
と、愛梨が噛むのをやめて訊ねてきた。重光は愛梨の背中を優しく叩きながら云った。
「君はいつも頑張っていますが、そろそろ息抜きの仕方も覚えた方がいいですね」
「息抜き……?」
「そうです。精神にメリハリをつける……もっとはっきり云うと、遊ぶんですよ。君のことを知らない人たちがいる場所へ行って、そこで友達を作る。どうです?」
すると愛梨は寂しそうに、重光の鎖骨に額をつけた。
「そんな時間ないよ。それにお出かけするならお母さんに云わないといけないし、今どこにいるかリアルタイムでわかるようになってないと駄目だし……」
「はい。だからファントムを使いましょう」
「ファントムを?」
愛梨が驚いた顔で重光を見てきた。それに相槌を打って、重光はにやりと笑った。
「ここで愛梨ちゃんに問題です。ファントムダイブの概要について、簡潔に説明せよ」
「はい、お兄ちゃん先生」
愛梨は重光から身を離してベッドから下りると学習机のところまで行って、そこに置いてあったノートパソコンに繋がっている白いヘッドギアを手に持って話し始めた。
「ファントムダイブとは、精神のコピー体『ファントム』をアバターとして、ネットワーク上の仮想世界『ファントムワールド』にダイブさせる技術のことです。仮想世界にダイブしたもう一人の
「そうです。昔のSF作品では本人の精神だけがネットワークの世界にダイブし、そのあいだ肉体は寝ていると云うものがよく描かれましたが、僕らの世界では、それとはちょっとズレたものが実現しました。僕ら自身ではなく、僕らの分身が仮想世界にダイブして経験を持ち帰ってくれるわけですね。ではファントムダイブの利点は?」
「えっと、利点は、コピー体であるファントムが仮想世界で活動しているあいだ、本体はリアルワールドで活動できることです。そのため現実の愛梨が国語を勉強しているあいだに、ファントムの愛梨が英語を勉強するということができます」
そこで言葉を切った愛梨は、手にした白いヘッドギアを見つめた。
「これがファントムダイブをするためのヘッドギア……で、愛梨のファントムは朝からファントムワールドに構築された歴史アトラクションで歴史の御勉強をしてるはず」
すると重光はちょっと意地悪に訊ねた。
「遊んでませんか?」
「たぶん、ちゃんとやってるはずだよ。でも呼び戻して確認してみる。ログアウトサインは出てないけど、愛梨がオリジナルなんだからいいよね」
ファントムがオリジナルに融合するには、ファントムが仮想世界内からログアウトサインを出して回収を待つ場合と、オリジナルがファントムを強制回収する場合とがある。今回、愛梨が選んだのは後者だ。愛梨は椅子に座るとノートパソコンに繋がれているファントム・ヘッドギアをかぶり、ファントムを仮想世界から強制的に
それは一瞬だった。一瞬で今朝、愛梨から分かたれたファントムはふたたび愛梨と一つになり、ファントムワールドで得たすべての体験を愛梨のものとして持ち帰ったのだ。
ファントムヘッドギアを外した愛梨が、椅子の向きを変えて重光を見てくる。ベッドに腰かけていた重光は、立ち上がって愛梨の前に立つと訊ねた。
「どうです?」
「えっと、電脳明治村で明治時代の生活を覚えてきました」
「結構。こうして現実で話をしているあいだも、もう一人の自分が仮想世界たるファントムワールドで色々な経験をしてきてくれる。僕らは二つの人生を生きることができるのです。これがファントムダイブの利点。では
「缺点は、これは缺点と云うより限界だと思うんですけど、ファントムダイブを二重に行うことはできません。それをやると最悪、精神崩壊するって……」
「そうです。ファントムとは分身であり、云わば精神クローン。それを三つも四つも作り出して統合すると精神錯乱に陥ったり、分裂症のような症状を呈することが報告されています。そのためネットワークとハード、ソフトの三重でロックがかかっており、一人の人間が二体以上のファントムをダイブさせることはできないようになっています。そこがこの技術……というより人間の脳の限界というわけですね。たいへんよくできました」
「えへへ」
生徒然とした仮面を外した愛梨が、屈託なく笑いながらファントムヘッドギアを机の上に抛り出し、椅子から弾みをつけて立ち上がった。重光はそのヘッドギアのケーブルがノートパソコンに繋がっているのを見て、もう一つ思い出したことがあった。
「付け加えると、ファントムダイブは携帯電話やパソコンに取って代わるような技術ではありませんでした」
「普通に電話したりSNSでやりとりをするだけなら、スマホの方が手軽だもんね」
そう云いながら抱き着いてきた愛梨を軽く抱きしめ返し、重光は相槌を打って続けた。
「ええ。しかし体験型の娯楽や学習をする上で、これ以上のものはありません。だからこれを上手く使って、息抜きをしようということですよ、愛梨ちゃん」
すると愛梨は目を伏せ、眉宇を曇らせて云った。
「でも、ファントムワールドのなかでもちゃんと勉強しなさいって、お母さんが云うの」
「……そうですね。たしかに僕の通っている学校でも、トップ集団はそうです。リアルでも朝から晩まで勉強、ファントムにも勉強させて、一日の勉強時間が四十時間を超えているような凄い人たちがいます。そこまでのことは、僕にはとてもできない」
その告白に、愛梨が弾かれたように目を見開いた。
「お兄ちゃん先生でも?」
その純粋な驚きの表情を見て、重光は苦笑しながら
「僕はリアルではしっかり勉強していますが、バーチャルの方ではかなり遊んでいましたよ。オンラインゲームって聞いたことありますか?」
「うん、知ってる。みんなで仮想世界に集まってゲームをやるんでしょ。パソコンやスマホでやるのもあるけど、ファントムダイブが普及してからはそっちが主流になったって」
「そう。僕らの分身がゲームの中で冒険をしてきて、僕らはその体験を回収する……僕はそういうゲームをやっていました。ファントムワールドで、現実の僕とはまったく違う自分になって、仲間を作って……遊んでいたんです」
そのとき、小学四年生の夏から去年の夏まで、六年間遊んだゲームの思い出が胸に溢れかえり、重光はちょっと声に詰まったが、すぐに笑みを作った。
「僕も昔、勉強漬けで息が詰まりそうになったことがあったんです。でも僕は自分で自分の壁を壊して、ゲームの世界へ風を感じに行った。そんな風に、愛梨ちゃんもなにか、いつもと違う自分になれるゲームで遊んでみたら、いいんじゃないかと思って……」
「いつもと違う、自分……」
愛梨は目をきらきらさせつつも、唇は必死に引き締めて、笑うまいとしているようだった。やはり母親のことが気がかりなのだろう。そこで重光はこう云った。
「もしお母さんにばれたら、僕も一緒に叱られてあげますよ」
「ほんと?」
ぱっと輝いた愛梨に頷きを返し、重光は笑って続けた。
「ええ。なんなら僕のせいにしてもいい。実際、僕がそそのかしたわけですからね」
「うん、じゃあ、やってみようかな」
その言葉を引き出して、重光は心でガッツポーズを作った。それから愛梨の気が変わらぬうちにと、二人肩を並べてソファに座り、自分の携帯デバイスを取り出した。
「じゃあどのゲームにしましょうか。オンラインゲームと一口に云っても色々ありますからね。とりあえず女の子に人気があるゲームのランキングがこれなんですが」
そう云って重光が携帯デバイスを渡すと、愛梨はそれを気のない目で眺めていた。どうやら、どれもピンと来ないらしい。
「気に入りませんか?」
「うん。ていうか――」
そこで愛梨は携帯デバイスから顔を上げ、無垢な目をして訊ねてきた。
「お兄ちゃん先生はどんなゲームしてたの?」
そのとき重光の顔が強張った。声を出さなかったのは、自分で自分を褒めてやりたい。
「いや、僕のやっていたゲームは……」
「愛梨、どうせやるならお兄ちゃん先生と一緒がいいな」
「そ、そうですか。なら僕も愛梨ちゃんが選んだゲームを一緒にプレイしますよ。だから女の子らしい、可愛いゲームを……」
「そうじゃなくて。愛梨はお兄ちゃん先生がやってたのと同じゲームをやりたい!」
重光は思わず天井を仰いだ。
――しまった。この展開は予想外だ。まずいまずい、非常にまずい。
重光は混乱する心をどうにか落ち着けると、愛梨に顔を戻して真面目に云った。
「愛梨ちゃん、実はですね、僕のやっていたゲームはとっても暴力的なんです」
「ぼ、ぼーりょくてき?」
「そう、なんというか、基本はRPGなんですけど、プレイヤー同士のバトルが推奨されているゲームで、ほかのプレイヤーと殴り合ったりするんですよ。年齢制限がないからってそんなゲームを十歳のときからやってた僕が云うのもなんですが、およそ小学生の女の子がやるようなゲームじゃありません」
そこでやっと理解が追い付いたのか、愛梨は口元を引きつらせた。それを見て重光はちょっと安心しながら、表情に暗い影を落とした。
「それに僕は、もう一年ほど、そのゲームにはログインしていません」
「どうして?」
「……一言で云うと、ゲームのなかで友達と喧嘩してしまったんです。それで気まずくなって、インしなくなったんですよ。アカウントは残っていますが、休止状態ですね」
そう話す重光の沈鬱な横顔を見て、愛梨は驚きに包まれたようだった。
「じゃあ仲直りは? してないの?」
「……してません。喧嘩して、別れて、それっきりです」
「そうなんだ。お兄ちゃん先生でも、そういうことあるんだ……よし、決めた!」
愛梨はそのとき、素晴らしい思い付きに駆られたような目をし、弾みをつけてソファから立ち上がると、重光を見下ろしてきた。
「愛梨、その暴力ゲームやる! だからお兄ちゃん先生は愛梨にいっぱい教えて。ついでに、そのゲームのお友達と仲直りしに行こう! 愛梨も一緒に行ってあげる!」
「えっ? いや、仲直りって――」
――あいつとは、もうそういう次元じゃない。今さら和解なんて絶対無理だ。
そんな言葉を、重光はかろうじて呑み込んだ。十一歳の女の子にそれを云うのは、残酷なことに思えたのだ。
そのまま重光が黙り込んでしまうと、愛梨が不思議そうに目をまたたかせた。
「ゲーム、楽しかったんでしょう?」
その一言が、重光の心の澱を一気に吹き飛ばして、澄み切った気持ちにさせた。
「ええ、楽しかった。あのゲームのなかで僕は、現実の自分とは違う自分になって、気の合う仲間と一緒に夜を駆け抜けていました。ゲームはゲームである以上、さまざまなコンテンツが用意され、目的が設定されていますが、本当はそんなことはどうでもよくて、ただ仲間と一緒に馬鹿騒ぎするあの夜が、僕にとってはなにより大切だったんです」
そう熱弁を振るった重光に、愛梨が
「うん。じゃあやっぱり行こうよ、愛梨と一緒に」
「君と?」
「そう。お兄ちゃん先生が素晴らしい思い出を作ったその夜に、愛梨を連れていって」
重光は
――おかしいな。僕が愛梨ちゃんのために扉を開いてあげたはずなのに、なぜだろう。僕の方が、愛梨ちゃんに手を引かれようとしている。
そんな奇妙な逆転現象を目の当たりにしながら、重光は月に引かれる星のように、愛梨の手を取っていた。
「ん、決まり決まり」
愛梨はそう云うと重光をソファから引っ張り起こしてにっこり笑い、繋いだ手を上下に振った。その手を離したとき、二人はもう共犯者になっていた。
「それでお兄ちゃん先生。お兄ちゃん先生がやってたゲームの名前はなんて云うの? RPGって云ってたけど、それってレベルとか装備とかあるやつだよね?」
「ええ、オンラインRPG『ヤンキー・オンライン』です」
重光が問われたことにすらすらと答えると、愛梨は小首を傾げた。
「ん?」
「ですからヤンキー・オンラインです。正式には『ヤンキー・オンライン ――天上天下唯我独尊! 全国制覇目指して走死走愛の魂を燃やして最後まで突っ走っていくんで、みんな夜露死苦!――』です。今からおよそ半世紀以上前、昭和後期に一世を風靡したヤンキー、ツッパリ、レディース、スケバン、番長にタイマンに喧嘩上等、そしてバイクで走る暴走族の文化を再現した、疾走バイオレンスゲームですよ」
「しょ、昭和? バイク? ヤンキー? タイマン? 暴走族って、疾走バイオレンスって……ええ? 愛梨、全然わかんない……」
目が点になっている愛梨を見て、重光は噴き出しそうになるのを
「云ったでしょう? 小学生の女の子がやるようなゲームじゃないって。ヤンキー・オンラインには君がまったく知らない世界が待っています。怖くなりましたか?」
「……ちょっと。でも」
愛梨は据わった目をして重光を見上げ、恐怖を抑え込むようにぐっと両拳を握った。
「愛梨は行くよ。この現実を壊して、ここじゃないどこかへ」
その言葉を聞いて重光は大きく頷き、それが我がことのように熱を込めて云う。
「ええ、壊しましょう。いつもの僕らを壊して、熱い魂だけになってあの夜へ……」
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