5-26 お使い



  ◇◇◇



「なんだあれは。儂らを馬鹿にしとるのか!」


 卓上に拳を打ちつけ、頬を怒りの色で染めながらオーラメンガーが叫ぶ。


「あの女狐ロヤントは、都合のいい駒を手に入れた事を、我々に披露したかったのだろう」


 トリニティが溜息をつきながら目を伏せた。


「けれど気になるな。今更アノリアの防衛について、ロヤントが言い出した事」


 今まであまり口を開かなかった主計部の長コルムが呟いた。

 それを聞いてオーラメンガーは手にしたワインを一気に飲み干した。


「アノリアは確かにリュニス人が増えているみたいだが、軍艦を派遣するほどまでの大きな小競り合いはないと聞いている。ダールベルク家とリュニスの関係も良好で、ダールベルク家は港の使用料で結構潤っているとの報告もある。それにリュニスとは不可侵条約だって結んでおるのだ」


「条約なんてその気になればいつでも破れる。それが慢心だとあの女は言いたいのだろう」

「何が気になる? トリニティ?」


 トリニティは自慢の口ひげを右手でつまみながら、思案に暮れるように虚空を見上げた。


「いや……最近アリスティド閣下の進退を危うくさせるような、そんな不穏な空気を感じて仕方がないのだ。一年前に起きた『あの事件』……」

「トリニティ」


 その先は言うな。

 咎めるようにエスクィアが鋭く一喝する。

 自分を睨み付けるエスクィアの険しい表情を見つめながら、トリニティは口の端を吊り上げて苦笑した。


「ここにはしかいない。何を怯えている? エスクィア? 尤も、儂にはお前の『怯える理由』がわからんでもないがな」


「どういうことだ? トリニティ?」


「さっきから貴様は私に訊ねてばかりだな、オーラメンガー。それでよく諜報部の長が務まるものだ」


「お前の皮肉など今はどうでもいい」


 トリニティは肩をすくめ、やれやれと首を振った。


「『ノーブルブルーの悲劇』――あの事件は海軍省最大の汚点だ。海賊と結託してノーブルブルーの最高責任者ツヴァイスが、その艦隊の壊滅を狙ったのだからな。決してこの事実は外部に漏らしてはならない」


 オーラメンガーが低い声で一人笑い出した。


「それは無理だな。現にあの事件のことで、再調査とアリスティド統括将の責任問題を訴えた者がいたじゃないか」


「だからエスクィアが怯えているのさ。我々『六卿』しか知り得ないあの事件の真相を、誰かがあのルウムの小せがれにということになる」


 トリニティはエスクィアに視線を向けた。


「お前が気にしているのはその事だろう?」


 エスクィアは特徴的なわし鼻を手で神経質そうにさすりつつ黙ったまま頷いた。真ん中で分けられた銀髪の間から見える額には汗の粒が浮かんでいる。


箝口かんこう令とは名ばかりになっておる。もしもミリアス・ルウムのおこした裁判が始まっていたら、世間は再びあの事件に大きな関心を持つだろう。しかし……」


 エスクィアは意味ありげにトリニティの顔を見た。


「『金鷹アドビス』には悪いが、彼の息子が真相を海に沈めてくれた」


 ふん、とトリニティが鼻で笑う。


「貴様の雇った殺し屋が仕事を失敗させたと聞いた時には、がたがたと震えておった癖に。グラヴェール補佐官の息子が、父親譲りの気性でなかったことを感謝するんだな。いや……あの『金鷹アドビス』のことだ。お前が彼の息子の口封じのために殺し屋を雇った事を知れば、反対に彼奴に殺されるかもな」


 エスクィアがそっと椅子から立ち上がった。


「トリニティ。貴様、そうやっていつまでも笑っていられると思うなよ? 肝心なのは我々の内の誰かが、アリスディド閣下の失脚を狙っているという事だ。私は閣下の御為を思えばこそ……。悪いが、私はこれにて失礼させてもらう」


 いかにも気分を害したエスクィアは、ぎらついた視線で椅子に腰掛ける他の三人を一瞥すると、足早に部屋から出ていった。


「そうだな。物事はまだ終わってはいない」


 物静かなコルムも一言吐き捨て部屋を出ていった。

 残ったトリニティとオーラメンガーは黙ったまま、グラスに残ったワインを一気にあおった。


「あの事件の真相を知る者は、我々だけではない……」

「そうだな」


 オーラメンガーの言葉にトリニティは言葉少なく同意した。


「とにかく南方の情勢も穏やかではない昨今、アリスティド閣下の身に何か起きれば、海軍省も混乱する。オーラメンガー、お前の情報網で裏切者は誰か密かに探ってはくれないか」

「……」


 しばしの沈黙の後、オーラメンガーは大柄な体を椅子から起こして立ち上がった。


「いいだろう。私もお前の懸念がよくわかる。調べてみよう」


 トリニティもまた立ち上がり、オーラメンガーの両手を握りしめた。


「すべてはアリスティド閣下をお護りするためだ」




 ◇◇◇




 アスラトルに帰港してから三日後。ジャーヴィスの船アマランス号は、予定通りエルシーア大陸の最南端の街アノリアに向かって出港した。


「……」

「……艦長」

「ジャーヴィス艦長!」


 慌ただしい出帆作業が一段落して、ジャーヴィスはひとり、物憂げに風上舷かざかみげんの船縁に腕を預けて海を眺めていた。

 どこか遠くから自分の名前を呼ばれた気がする。視線を遥か水平線から船の甲板に転じると、そこには怪訝な顔をして様子を伺う副長のミリアスが立っている。


ですか?」


 ジャーヴィスは何度か瞬きを繰り返し、ミリアスを意識すると大きく頷いた。


「ああすまない。何か、用か?」


 物思いに耽っていたことは認めるが、別に体調は至って悪くない。そうミリアスに告げると彼は安堵したように胸をなで下ろした。


「いえ。どこか塞ぎ込んでおられたような気がしたので、それで声をかけただけです。針路はこのまま南東でよろしいですか?」

「ああ」


 ジャーヴィスの返事にミリアスは、背後で舵輪を握る航海士に「南東を維持」と短く伝えた。


 ジャーヴィスはミリアスに向かって呼びかけた。


「今、私の部屋に来れるか?」


 ジャーヴィスは小声で付け加えた。封緘ふうかん命令書を開封する。


「わかりました。参ります」


 ジャーヴィスとミリアスはミズンマスト最後尾前の開口部ハッチから、螺旋状になった小さな階段を降りて艦長室へと向かった。


 ジャーヴィスのアマランス号は六等級の船で、大砲は両舷合わせて十八門しか積んでいない小さな船だ。けれど今回は水色の制服を纏った海兵隊二十名が戦闘用員として乗り込んでいる。


 艦長室に入ってジャーヴィスは窓を背面にした執務席に腰を下ろし、軍服の内ポケットから時計の鎖に繋いだ小さな鍵を手にした。執務机の一番下の引き出しの錠をそれで外し、ダールベルク中将から受け取った青色の命令書を取り出す。


「開封するぞ」

「はい」


 ミリアス立ち合いのもとで、命令書の封蝋が破られていない事を確認して、ジャーヴィスはそれを開けた。

 中に入っているのは一枚の白い紙。

 ジャーヴィスは紙面に目を素早く通した。


「……」


 ミリアスも黙ったままジャーヴィスが言葉を発するまで待っている。

 一通り命令書に目を通したジャーヴィスは、緊張してこわばっていた頬の筋肉を緩めた。


「何、大したことじゃないようだ」


 ジャーヴィスはミリアスに向かって目元を細め笑ってみせた。


「アノリアに着いたらダールベルク家に向かい、荷物を受け取って欲しいとある。受け取ったら速やかにアスラトルまで戻ってこいということだ」


 どんな命令がアマランス号に下ったのか。期待して待っていたミリアスの顔には、驚きとも落胆ともいえる複雑な表情が浮かんでいる。


「そ、それって……僕達、ダールベルク中将の『お使い』に出された、ってことですよね?」


 ジャーヴィスは溜息を漏らしながら、机の上に置いてあるランプを手元に引き寄せた。引き出しの中を探りマッチを擦ってランプに灯をともす。

 そしてうすっぺらい命令書を半分に折って右手に持つと、ランプの傘を外してそれに火を着けた。

 命令書は瞬く間に燃え上がり、ジャーヴィスはひっくり返したランプの傘の上にそれを放り投げて、黒い柔らかな燃えかすになっていく様を凝視した。


「仕方あるまい。我々の本来の仕事とは違うかもしれないが、ダールベルク中将にとっては大切な品なのだろう」


 ミリアスはげっそりしたように、すっかり燃え尽きた命令書の黒い灰が載ったランプの傘を手に取った。風向きに注意して開けた船尾の窓からそれを捨てる。


「ダールベルク中将と会見したとき、確かアノリアには、我々の他にも何隻か船を向かわせると言っていたんだがな」


 ジャーヴィスは物憂げに頬杖をついた。


「でも、今日出港したのは、我々だけのようです」

「ああ。そうだな」


 わざわざ自分を執務室に呼び出して、命令書を渡してくれたノイエの顔を思い出しながら、ジャーヴィスは正直拍子抜けした感が否めなかった。それはミリアスも同じだろう。


「何はともあれ、命令は命令だ。寧ろこんな簡単な任務を失敗するわけにもいかないからな。気を抜かずに業務に励んでくれ」

「はい」


 ミリアスは切りそろえた金髪の髪を揺らし、力強く頷いた。


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