5-3 入港

 黄昏の光が周囲に満ちる少し前、シャインの予想より数時間早くロワールハイネス号は母港アスラトルに着いた。

 シャインは古都アスラトルを東西に分けるエルドロイン河の東岸を無意識のうちに眺めた。こちらはエルシーア王立海軍省の黒くて高い物見の塔を筆頭に、軍港や赤いレンガの壁で囲まれた造船所などがいくつも立ち並んでいる。


「懐かしいのか?」


 シャインの視線に気付いたヴィズルがひっそりと呟いた。

 シャインは風に靡く前髪を掻き上げながら、ロワールハイネス号の係留場所がある<西区>の商港に向けて針路を変えた。東岸の景色はくるりと背後に回って見えなくなった。


「アスラトルで一番高い建物が海軍省の物見の塔だ。それを誰が一番最初に見つけるか。海軍にいた頃は、それが帰港した時の儀式だった」

「ふうん」


 ヴィズルは興味なさそうに返事をして、「係留索と錨の準備をする」とシャインに告げた。


 エルドロイン河西岸は、緩やかな弧を描く砂州がある。風の強い日はここに吹き寄せられて座礁してしまう船が後を絶たない。

 <ひきずり砂州>と船乗りから恐れられる悪名高いそれを迂回して、シャインは黒いごつごつした石で護岸工事されている商港へ近付いた。


「ルミル。君に舵を任せる」


 シャインは船員見習いの少年を船尾に呼び寄せた。

 ルミルは一年前、商船となったロワールハイネス号で、料理番でいいから雇ってくれと自ら求人に応じてくれた15才の少年だった。

 まさか一年後、乗組員が彼しか残らないなんて思ってもみなかったが。


「えっ、いいの?」

「ああ。勿論、十分気をつけて」


 商港が見えてきた。喫水線の深い大型の商船が港内に何隻も錨泊している。シャインはそれらの船から十分離れた所で、ルミルに舵輪を任せた。ルミルはそれを教わった通り両手で握りしめた。


 あらかた帆を下ろしたロワールハイネス号は、やっと舵がきくほどの速力しか出ていない。シャインはルミルの隣に立ち、前方を指差した。その先には突き出た岬があり、緑の葉をこんもりと茂らせた樹が灯台のように一本生えている。


「針路このまま。ロワールハイネス号の舳先の延長線上に、グラヴェール岬が常に重なるように船を進ませてくれ」

「あ……グラヴェール岬って、前方のあの樹の生えた岬のことですか?」


 シャインは密やかに唇に笑みを浮かべた。


「うちの実家の裏が岬になっててね。あれがそうなんだ」


 ルミルは紫かがった青い瞳を見開いて、「うわー、船長の名前が岬になってるなんてすごい」と興奮したように叫んだ。


「ルミル。舵取りに集中しろ。ほら、舳先が左にずれてる。……面舵右へ

「は、はい!」


 シャインは舵輪を回すルミルの濃い金髪頭をくしゃりと手でかき回して、船首甲板へと駆けた。近付いてきた突堤を睨んで距離を計りながら、ヴィズルを手伝って右舷錨を降ろす。そして左舷船首の係留索を、待ち構えていた商港の入港担当者の男に向かって放り投げた。


 海底に沈めた錨がロワールハイネス号の行き足を殺す。ほとんど停止した船を固定するため、シャインは船尾に戻り、もう一本係留索を突堤で待ち構えている男に向かって投げた。

 入港担当の男達は手際良く、ロワールハイネス号の係留索を突堤の鉄で作られた低い柱に巻き付けて固定した。


「これにて任務完了、やれやれだぜ」


 ヴィズルが肩の荷が降りたようにほっとした笑みを浮かべて呟いた。



 ◇◇◇



 もろもろの片づけを終えたシャインは、エリックとルミルにこの航海分の賃金を手渡し、一週間の休暇を告げた。二人はシャインとヴィズルに手を振って船を降りていった。それを見送った後、荷物をまとめたヴィズルが鞄を背負いながら言った。


「三日後にお前の実家――グラヴェール屋敷に行くからな。家に帰るんだろ? 俺は三日以上陸に留まる事が許されない。じゃ、給金はその時に頼むぜ」


 ヴィズルが三日以上陸に留まれないのは、彼が『術者』として船の精霊を操る事ができる力を使い続けるためである。海賊だった頃はもとより、今もなお、上陸の制限という犠牲を払ってまで、その力を使いたいと望むヴィズルの気持ちがシャインには理解できなかった。


 三日以上陸に留まれないということは、ヴィズルは力を使い続けるためにずっと海上を彷徨うことになる。けれど彼は自分のそんな運命をすでに受け入れているみたいだった。

 海賊船で生まれた彼には、最初から故郷と呼べる国がなかったのだから。

 それに比べて帰る場所がある自分は、本当に幸せなのだろう。

 

「ええっ? 私まで『上陸』するの?」


 そんなこと思っても見なかった。

 ロワールの水色の瞳は驚きに大きく見開かれている。

 船長室に戻ったシャインは手早く身支度を整えていた。伸びた金髪を昔のようにざっくりと三つ編みにして、裾長い黒の上着を羽織り、白の襟飾りを巻き付ける。一般的なアスラトルの住人の格好をすると、外見が優男のシャインは傍目船乗りには見えない。


「そう。これから積荷を依頼主の工房へ持って行くんだけど、そこに『船鐘シップベル』の鑑定を依頼したんだ」


 シャインは必要なものをあらかじめ詰め込んだ鞄を引き寄せた。


「『船鐘』の……?」


 シャインはゆっくりと頷いた。ロワールはまだ状況がよくわからないのか、戸惑った表情でシャインを見返している。


「俺の願いはただ一つ。君をこの『船鐘』から解放する事。そのためには、『船鐘』のことをもっと良く知らなくてはならない」

「……」


 シャインはロワールの顔が浮かない事に気付いていた。

 まるでそんなことは不可能だ、そういわんばかりに彼女の口元は小さく噛みしめられている。シャインは小さく息を吐いた。側に膝をついてロワールの顔を覗き込む。


「シャイン。あなたの気持ちは嬉しいわ……でも、ダメよ……」


 シャインの視線に気付いたロワールがそっと顔を背ける。


「私がいないとダメなの。『ブルーエイジ』を眠らせない限り、彼等は『船鐘』に手を触れた者の意識を操り、多くの『魂』を得るため、罪もない人々の命を奪ってしまう」


 シャインはロワールの頬に右手を伸ばしてそれに触れた。


「君は十分役目を果たしたよ。それに、そんな恐ろしいことができる『船鐘』は、この世に存在してはならないものだ。破壊できるならそれに越したことはない。君だってそう思うだろう?」


「……うん……」


「じゃあ、悪いが付き合ってくれ。これから工房へ品物を納品しに行くから、『船鐘』も一緒に持って行く」


「わかったわ。私はあなたを信じてる」


 小さく頷いたロワールの頭をそっと撫でてシャインは立ち上がった。

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