【第5話・序章】青の女王(1)




【エルシーア海軍所属・帆船アルスター号にて】




 ◇◇◇



 日没前の天測をしなくてはならない。

 ベリル副長に怒られる前に、六分儀を持ってきて準備しなくては。


 シャインは焦りながら梯子を下り、ランプの暗い灯が照らす第二層甲板を歩いた。士官候補生部屋へ忘れ物を取りに行くためである。


 外からは獣の咆哮を思わせる風の音が聞こえる。それを受けて海を進むこの古い老朽艦アルスターは、いつもひっきりなしに軋み声を上げていた。


 激しい横波を受けていつ船体がバラバラに崩れるか。

 水兵達のみならず、艦長のオーギュストも笑いながら士官達と会話していた。

 無理もない。

 このアルスター号は船齢二十五年を超えているのだ。

 しかも船の構造に関わる重要な竜骨キール部分に不良個所があり、今回の航海が終わった後、廃船処分が決まっている船だった。



「なんだ、さっきの砲撃訓練は! ローレル、お前の段取りの悪さのせいで、艦長は大変御立腹だ。そして私達も連帯責任で、三日間食事の配給酒ワインなしだ。この間抜けが」


 シャインは帆布で仕切られた士官候補生部屋の前で足を止めた。

 見えたのだ。

 揺れる帆布の下から、床にうずくまった小柄な黒髪の少年の背中を軍靴で蹴りつける、先任士官候補生のキーファの姿が。


「マストの登り降りをさせればいつも最後で、当直に立てば甲板で居眠り。我々士官は規律を保つために、必要以上こちらから水兵と関わってはいけない。それなのにお前は時々連中の所へ行ってるようだな」


「仕方ないよ、キーファ。こいつは我々と違ってしがない商家の出。なんで貴族の子弟である僕達と同じ船に乗ってるのかはわからないけど……オーギュスト艦長がそれを知ったら、こんな懲罰じゃすまないぜ?」


 士官候補生のアルスが、床に倒れているローレルの髪を掴んでぶらぶらと頭をゆすった。持ち上げられたローレルの顔は頬や目の上が赤黒く腫れていた。


 シャインは仕切りの帆布を掴んだ。無言でそれをはね上げて部屋の中に入る。

 キーファが日頃自慢にしている(アリスティド公爵直々に贈られたという)金色の短剣を抜いてローレルの頬に当てていた。

 気付いたキーファの目が鋭くシャインを捉えた。


「何を見ている。なんだろう? グラヴェール」

「……キーファ。それぐらいにしたらどうだ」


 キーファは立ち上がり、抜き身の短剣を弄びながらシャインを睨んだ。


「私は先任として落ちこぼれが出ないように、お前達を鍛える立場にある。こいつが一人前の士官候補生になれるよう、指導するのも仕事の一つだ」


 シャインはうずくまったローレルを一瞥した。

 薄暗い部屋の板床に、点々と血の雫が落ちていた。


「あなたの指導とは、無抵抗の人間を一方的に痛めつけることをいうのか」


 短剣を弄るキーファの手が止まる。


「言ってわからない者には、その体に覚えさせるのが一番だ」


 シャインは肩をすくめた。

 この二才年上の先任が、さまざまな名目をつけてローレルを痛ぶるのは何度か目にしてきたが、今回はさすがに酷い。


「キーファ。ローレルは今夜艦長室の食事会に出る日だ。その顔の痣の理由、必ず艦長はお聞きになる。どうするつもりだ」

「……どうするつもりだ? だって?」


 キーファはゆっくりとシャインの方にやってきた。


「私のことを心配してくれるのか。ふうん。グラヴェール、そうやってお前は、上の者達のご機嫌をとっているのだな。参謀司令の息子の特権は素晴らしいな。私はまだこの航海で二度しか艦長の食事会に招待されてないのに、お前はもう五回も呼ばれている」


「俺は、そういうつもりじゃ」

「生憎だが、艦長はこいつの痣を知る事にはならない」

「何?」


 その時、誰かがシャインの背後から殴り掛かってきた。

 もう一人の士官候補生、アルスだ。

 シャインはなぐりかかったアルスの拳を避けたが、目の前にはキーファが立ち塞がり、シャインの喉元に素早く短剣を突きつけた。


「何のつもりだ」


 空いた左手でシャインの肩を掴むキーファの力は強い。

 彼は本気だ。

 品の良いキーファの顔が憎悪で暗く歪むのをシャインは見た。


「――正直言うとお前がうっとおしいよ、グラヴェール。アルス、あれを出してこい」


 にやりとそばかすだらけの顔に笑みを浮かべてアルスが微笑む。


「キーファ。あれはなんだぜ? それをこいつのために?」

「いいから早くしろ」


 シャインはキーファの手から逃れようと身をよじった。だが彼は凄惨な微笑を浮かべたまま、シャインの肩を掴む力を弱めようとしなかった。

 ハンモックの下の衣装箱の影から、アルスが木のジョッキを出して立ち上がった。彼が蓋を開けると強い酒の匂いが立ちのぼってきた。


「先任の私に忠告した礼だ。『生(き)』のクトル酒を特別に配給してやろう。グラヴェール士官候補生」


 シャインはキーファを睨み付けた。

 こっそり船倉からくすねてきたものらしいが、クトル酒は本来水で二倍に薄めないと強すぎる酒なのだ。


「……キーファ、やめろ」

「私はお前の先任だぞ? さっきからさんざんにしてくれるが。口のきき方もこれで教えてやる」


 キーファが短剣をシャインの頭上の板壁に突き刺し、もがくその体を両手で押さえつける。臭いだけで吐き気がするような酒のジョッキを、アルスがシャインの口元に近付けた。

 シャインは顔を背け、酒を飲まないように歯を食いしばる。

 が、アルスがシャインの胃の辺りを殴りつけた。

 その痛みにシャインの体から力が抜ける。

 アルスはシャインの口をこじ開けて生のクトル酒を流し込んだ。


「みんなでゆっくり飲もうと思ってとっておいたんだ。それをお前にくれてやったんだ。ありがたく思え」


 喉を伝う酒は焼けた鉄のようだった。

 アルスが空になったジョッキを放り投げた。

 キーファも掴んでいたシャインの体から手を離した。


 動悸が激しくなって、視界が霞んだ。キーファたちが何か言っているが、それを理解する事ができない。体中を炎に包まれるような熱を感じながら、シャインの意識はそこで途切れた。



  ◇



 二人の年上の士官候補生は薄笑いを浮かべながら、倒れたシャインを見下ろしていた。


「まさかあの参謀司令の子息が酒を隠し持っていて、真っ昼間から泥酔するなんてね。とても信じられないな」

「お前ら……」

「まだ起きてるのか。さっさと、黙れ」


 アルスがげらげら笑って、床に倒れているローレルを再び蹴りつけた。

 ローレルは再び顔を突っ伏せ、動かなくなった。


「酔った挙げ句、仲間に暴行をしでかすとは。ご立派なお父上がさぞ悲しまれるだろうよ」


 キーファは溜息をつきながら髪を手櫛で梳き、身支度を整える。


「……気はすすまないが、グラヴェール士官候補生の起こした事件のことを、ベリル副長に報告してくる」

「なあ、キーファ。報告もいいが、正気に戻ったシャインは、俺達の事を艦長に言うんじゃないか?」


 高揚した気分が冷めてきたのか、アルスが部屋を出て行こうとしたキーファを呼び止めた。


「心配するな。その前にこいつは船首の錨鎖庫に航海中入れられて、そんなこと言う暇なんてないさ」


「で、でも。シャインはあのグラヴェール中将の息子なんだぜ? 航海が終わってアスラトルに帰った時、このことを父親に言うかもしれない。そうしたら、下手すれば軍法会議に俺達、かけられるかもしれない…」


 キーファは腕を組んでしばし熟考した。


「そこまでは思わなかったな。まあ、私の父上には将官の知り合いが何人もいる。軍法会議までいかないとしても、この件で騒がれるのは確かに嫌だ」


 アルスとキーファは顔を見合わせた。


「私にいい考えがある」


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