4-103 帰港

 久しぶりに出た甲板の風は少し冷たかったが、さわやかな朝の空気を胸に吸い込むと、なまった体が覚醒して、いくらか動きやすくなったような気がした。

 先に甲板へ出たジャーヴィスは、舵輪を握る年かさの航海士の隣に立ち、前方をその鋭い眼を細めて眺めている。


 雲一つない澄みきった蒼空に、緑生い茂る丘陵がなだらかに続く陸地が見える。黒と白を基調としたアスラトルの古風な街並と、その源流は王都へと続くエルドロイン河の幅広い河口が目前に広がっている。


 河口の東側は軍港があり、白い石で組まれた突堤がいくつも海に向かって伸びている。ロワールハイネス号は、その一番手前の突堤に着けるため、入港の準備に水兵達が各マストの元に集まっていた。


 ロワ-ルハイネス号に続いて、エアリエル号とウインガード号も入港準備に入るようだ。シャインは後方を振り返り、大型船が東に向きを変えるのをじっと見つめた。この二隻は喫水が深いため、外海に近い専用の突堤でしか着岸できない。ロワールハイネス号は二隻と別れ、港の奥に向かってそのまま直進していった。


「あっ、人がいっぱい集まってるわ」


 ロワールが前方を指差した。

 突堤に近付くにつれて、そこに三十人以上の人間が集まっているのが見えた。

 彼等は皆、入港するロワールハイネス号に向かって手を振っている。


「ジャーヴィス副長。そろそろ下手舵といこうか」


 シャインは後方を振り返り、航海士の前に立つジャーヴィスに命じた。

 ジャーヴィスがゆっくりとうなずく。


「下手舵。急げ!」


 ジャーヴィスの命令で航海士は舵輪をまわし、船の舳先を風下へと落とした。

 各マストについた水兵達がタイミングを見計らって上げ綱をゆるめると、帆がばたつきはじめ、船足がどんどん落ちていく。


 左手に突堤を見ながらロワールハイネス号は、帆から風を抜いてさらにその速度を落とす。

 行き足だけで海面を滑りながら、ロワールハイネス号の船首と船尾で係留索を持つ水兵が、突堤で待機している港湾管轄の水兵にそれを投げる。係留索を受け取った水兵は、突堤に等間隔の幅で設置された、鉄の円柱にそれを素早く巻き付ける。


「投錨!」

「投錨だ。落とせ」


 シャインの命令を聞いて、ジャーヴィスがそれを復唱すると、ロワールハイネス号の船首から、錨が落とされその鎖が伸びきった所で船は前進をやめて、じりじりと後退した。だがそれも間もなく止まり、ロワールハイネス号は久しぶりに母港へと帰港したのだった。


「皆、私達が帰ってくるのを待っててくれたんだ」


 ロワールはシャインの左腕に自らのそれをからめて、うれしそうにつぶやいた。ロワールハイネス号の舷門が開き、タラップがかけられると、突堤に集まっていた人達が一斉に歓声を上げてやってきた。


 シャインとロワールは水兵達が帆をきちんと巻き、片付けを終えて、それを点検するジャーヴィスを見ながら、船の周りに集まってきた人達に視線を移した。見知った顔がいくつもそこにある。


 シャインはロワールを伴い、ミズンマスト最後尾の前に整列した15名の水兵達と、点検を終えたジャーヴィスの前まで歩いた。


「入港完了しました。グラヴェール艦長」


 ジャーヴィスが踵を合わせて直立の姿勢を取る。シャインはほっとした表情の水兵達とジャーヴィスにうなずいてみせた。


「お疲れさま。これにて解散、上陸してくれ。だがエアリエル号からきてくれた者達は、申し訳ないが、今からブランニル艦長の指揮下に戻るように」


 水兵達はめいめい頭を軽く下げて、シャインの指示を了解すると、各々舷門から突堤へと下り立った。


 出迎えに来た人達の歓声が大きくなる。肉親と肩を抱き合って、その無事を喜びあう者や、あるいは恋人の姿を求めて視線を泳がせている、若い婦人達で突堤はごったがえしている。


「ジャーヴィス! グラヴェール艦長!」


 人込みの中でもよく通る女性の声が、まだ舷側にたたずむシャインとジャーヴィスの名前を呼んだ。


 弾かれたようにジャーヴィスが顔を上げる。

 薄紫のドレスとつばのついた同色の帽子を被ったリーザが、手を振りながらタラップの下で待っていた。


「艦長、それでは私もこれにて船を下ります」

「ああ。マリエステル艦長が待ってるよ」


 ジャーヴィスの強ばった顔にさっと朱が差した。


「そうそう、早く行きなさいよ」


 シャインの腕に手をからめているロワールが、にこにこと満面の笑みでジャーヴィスに微笑む。ジャーヴィスはシャインとロワールに軽く一礼して、舷門へ歩いていった。


 タラップを下りるジャーヴィスの足が突堤についたところで、待っていたリーザが駆け寄る。両手を伸ばしてジャーヴィスの首にそれを回し、何も言わず抱きしめた。


「リーザ、おい……」


 ジャーヴィスの声が、心なしか裏返っていたように聞こえたのは気のせいか。

 だがジャーヴィスは、壊れ物を扱うようにゆっくりと、だがしっかりとリーザの小さな背中に両手を回し抱きしめた。


「戻ってきた、君の所へ。リーザ」

「ふ、副長! マリエステル艦長といつからそんな仲にっ!」


 ジャーヴィスとリーザは再会の雰囲気を見事にぶち壊した、その不粋な声で後方を振り返った。ジャーヴィスの口元が小さくひきつり、その青い瞳がみるみる細くなる。


「シルフィード! わ、私は……その……」


 そこには緑のタレ目をうれしそうににやつかせた、ロワールハイネス号の航海長シルフィードが同僚達を引き連れて立っていた。


「はいはい、お二人はどこか他所で楽しんで下さいよ。そこから移動してくれなければ、グラヴェ-ル艦長が降りられないですぜ」

「シルフィード航海長、あなた、後で覚えときなさいよ」


 ほほほと笑みを浮かべつつ、リーザはシルフィードへ茶目っ気たっぷりに睨みつけると、ジャーヴィスの腰に手を回したままタラップから離れた。

 それを見てシャインが舷門へ足を進める。


「それじゃあ、また後で」

「うん」


 ロワールは名残惜しそうに絡めていた腕を離した。

 シャインはロワールを一瞥して、ロワールハイネス号から降りた。




「ねえジャーヴィス。あれが、ロワールハイネス号の“船のレイディ”?」


 鮮やかな紅髪の少女の姿を見たリーザは、ジャーヴィスにそっとたずねた。

 ジャーヴィスはリーザの肩に手を置いてうなずいた。


「ああ。今日は我々に姿を見せてくれるらしいな。いつも見れるわけじゃないんだが」

「そう……。でも彼女、グラヴェール艦長のことがとても好きなのね」


 ジャーヴィスは一瞬眉間をしかめ、入港前の出来事を思い出した。


「私はいつも彼女の恋路を邪魔してるんだ」


 ぷっとリーザが吹き出した。


「なによそれ。どういうこと? 聞かせなさいよ」

「後で……な」


 ジャーヴィスは唇に笑みを浮かべて、水兵達の出迎えを受けているシャインに視線を向けた。




 シャインは突堤に下り立ち、うれしさと申し訳なさで胸が一杯になるのを感じながら口を開いた。


「シルフィード航海長。みんな。わざわざ出迎えに来てくれて、ありがとう」


 シャインは集まってきた、懐かしい水兵達の面々を見回した。


「いや~もう、当然ですぜ」


 へらへらと、だが陽気にその場にいた水兵達が笑みを浮かべた。


「お帰りなさい、艦長!」


 その時、シルフィードの隣に立っていた士官候補生のクラウスが、たまりかねたようにシャインへ駆け寄ってきた。相変わらずくせっ毛の金髪を揺らして、大きな青い瞳をうるませてシャインの手を取る。


「本当にご無事でよかった。僕、僕……心配で心配で……」


 じわりとその目に涙が浮かび、クラウスは声を震わせた。

 シャインは自分が嵐の海で船から落ちたことを思い出し、それ以来乗組員の面々と顔を合わせていない事に気付いた。


「心配かけてすまなかった。でも、こうして帰ってきたよ」


 シャインはクラウスの肩に左手を置いて微笑した。


「俺達も心配したんですぜ。あなたって人は、一人でロワールハイネス号を取り戻しに行ったそうじゃないですか」


 シルフィードが太い腕を組んでシャインに言った。


「ええっ、そうだったんですか? 航海長。それは、無謀ってもんですよ、艦長~」


 見張りのエリックが漂流したせいですっかり黒く日焼けした顔をみせてシャインに抗議する。


「まったくあなたは無茶しすぎなんですよ。海に落ちたとき、俺達は本気で葬式をしようと思ったんですからね!」


 シルフィードと同じ体格の水兵エルマがそう言うと、「そうだそうだ」と声が上がった。


「ただ副長が、すんごい勢いで怒ってましたけど」


 ぽつりとシルフィードが付け加える。


「ええい、余計な事は言うな。シルフィード」


 ジャーヴィスはぎろりと航海長を睨みつけた。

 シャインはそんな二人のやり取りに笑いを堪えながら、ようやく落ち着いたクラウスの肩を叩いて、顔を水兵達の方に向けた。


「みんな。こうして再び会える事ができて本当によかったと思っている。俺が不甲斐ないから、ロワールハイネス号は失うし、君達の命も危険にさらしてしまった。本当に申し訳ない」


「艦長。“終わり良ければすべてよし”と、古くから言うじゃないですか」


 まだ涙が乾ききらない頬を向けて、クラウスが微笑した。


「そうですよ。みんな生きてここにいる。それでよしってことにしましょうや」

「みんな……」


 その後誰かれともなくシャインを囲み、その肩をめいめい叩いて無事を喜びあった。シャインはされるまま、水兵達の手荒い歓迎を受けて一人一人に声をかけてその労をねぎらった。


「ちょ……おい、シルフィード!」


 シルフィードがやおらシャインの両脇に手をかけて、子供のように抱え上げた。


「ああ、こんなに痩せちまって。今度こそ俺の特製料理を食ってもらいますからね」


 シャインの脳裏に、無気味な深海魚の目玉がぷかりと浮いた、航海長特製スープがよぎった。あれは見た目がグロテスクなので、食べろといわれてもどうにかして辞退したい。


「いつか、、ぜひ食べさせてもらうよ」


 シルフィードに抱えられながら、シャインはひきつった笑みを浮かべた。


「いーや。今夜、そうだ、今夜皆でぱぁーっと飲み会をやりましょうぜ!」

「いいぞー! 航海長」


 どっと水兵達が盛り上がった。


「おいお前等、いい加減にしろよ。シルフィード、艦長はまだ体調を崩してるんだ。馬鹿な事はやめてさっさと下に下ろせ!」


「じゃ、副長のおごりで今夜、飲みに行きましょうや。艦長と船が無事に帰ったお祝いで」


「な、なんだと!」

「そうしましょう、ね、グラヴェール艦長」


 シルフィードはジャーヴィスが首を縦に振らなければ、シャインを下に下ろすつもりがないらしい。シャインはあわれっぽくジャーヴィスを見つめた。


「ジャーヴィス副長。俺からも、頼むよ」


 ジャーヴィスは両手に腰を当て、ほとほと困ったようにため息をついた。

 けれどその顔からは険しさが消え、唇にはうっすらと笑みが浮かんでいた。


「よーし! 私もみんなにおごっちゃうわ。今夜は楽しくやりましょう」

「リーザっ!」


 シルフィードはようやくシャインを地面に下ろした。


「さっすがマリエステル艦長。話がわかるぜ」


 リーザはふふんとシルフィードを見つめた。


「ただし、店は私とジャーヴィスが選んで、あなたの料理はなし! また海老のゆで汁でつくったシルヴァン・ティーが出てきたら最悪だもの」


「ええっ! いや、それは……」

「うわっ。それって酷いな」


 思わずシャインが顔をしかめ、クラウスが意味ありげに深くうなずいた。


「とても飲めたものではありませんでした……」

「クラウス、お前まで。うわーっ、なにもここで言う事ないじゃないですか!」

「うるさいわね。本当の事でしょ」


 リーザがジャーヴィスと共に微笑を浮かべる。

 その場にいた全員がどっと笑い声を上げ、弁解するシルフィードの声は、それらにすっかりかき消されてしまった。


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