4-97 戦いのあと

「ヴィズル、助けに来てくれてありがとう。グローリアス号の青い帆が見えた時、すごくうれしかった」


 シャインはヴィズルがウインガード号に乗り込んできた事を思い出し、やっと礼を述べた。微笑みたかったが、今は顔の筋肉が麻痺したように引きつって、笑う事ができなかった。

 ヴィズルはシャインに向かって肩をすくめ、長い銀髪を海風になびかせながら口を開いた。


「ま、これでお互い貸し借り無しってことにしようか。だが、お前には世話になったな、シャイン」

「ヴィズル……」


 ヴィズルはシャインの方へ向き直り、頭のてっぺんから足の先まで見回すと、ふっと息を吐いて頭を振った。


「俺は間違いを犯す所だった。無実の罪でアドビスを殺す所だった。俺がアドビスを斬っていたら、月影のスカーヴィズは……俺のお袋は、あの世で烈火のごとく怒りまくっていただろう」


 ヴィズルは目を細めて小さく笑みを浮かべた。


「確かにアドビスはエルシーア海賊を皆殺しにした。その事に関しては、すぐにアドビスを許す気持ちにはなれない。だが、スカーヴィズをティレグに殺されて――それが海賊を恨むきっかけになったのだとしたら、俺は奴を責めるつもりはない。気持ちはわかるからな。だから、その命を狙うということは、もう二度としない」


「ヴィズル」


 ヴィズルはふっきれたように晴れやかな笑みを浮かべた。

 やおらシャインの肩に手を置いて、軽く叩く。


「じゃ、俺は海軍の連中が忙しくしている間に、消える事にするぜ。いつ考えが変わって約束が反古になるか、わかったもんじゃないからな」


「消えるって……東方連国に帰るのかい?」


 胸の中に乾いた風が吹き抜けていくような侘びしさを覚えながら、シャインは背を向けたヴィズルに問いかけた。


「これからちょっとめんどうなごたごたを片付けなくてはならないんだがな。多分そうなるだろう」


 ヴィズルはちらりとメインマストの方に精悍な横顔を向けた。

 シャインもそれにならう。

 恰幅のよい体を海軍の青い艦長服に包んだブランニルが、こちらへ向かって歩いてくるのが見える。


「それじゃあな、シャイン」


 ヴィズルは長い銀髪を翻し、ウインガード号の右舷側で彼を待っているグローリアス号の方へ駆け出した。


「ヴィズル! 気を付けて」


 シャインはその背に向かって呼びかけた。すると、ヴィズルは船縁の前で急に立ち止まり、おもむろに振り返った。


「そうそう、一言いうのを忘れてたぜ」

「えっ?」


「ロワールに伝えといてくれ。俺の船には大事な『グローリア』がいるから、あんたを俺の所につけるのはできないって」


 シャインはさっと頬が上気するのを覚え、ヴィズルに向かって叫んだ。


「ロワールを君に渡すつもりはないぞ!」


 ヴィズルは可笑しそうに笑って、軽やかにウインガード号の船縁へ立ち上がると、そのまま接舷していたグローリアス号の船首甲板へ飛び移った。


 ヴィズルが乗った途端、グローリアス号は一瞬金色の光を放って、すっとウインガード号から離れていく。


 シャインは見た。

 グロ-リアス号の舳先で、船の精霊・グローリアが、長い三つ編みをなびかせながら、シャインの方を向いて手を振ったのを。


 グローリアはヴィズルの手によって、彼の船に縛り付けられたのかもしれないが、ヴィズルを嫌っていた訳ではなかったようだ。


 シャインは自然と頬に微笑が浮かぶのを覚え、グローリアに向かって手を振り返した。グローリアス号は風向きとは関係なく、東へ向かい碧海を航行していった。




「くそっ」


 ブランニルがシャインの所へ駆けてきた。


「どうしてあんなに早く走れるのか不思議な船だ。見事に逃げられた」


 ブランニルは肩で息をして、けれど顔を苦笑で歪ませながらつぶやいた。


「でも仕方ありませんな。あの海賊とあなたのお陰で、我々は助かったのですから」


 シャインはグローリアス号が風の力も使うため、帆を展帆しだしたのを見つめながら、見逃してくれたブランニルに礼を述べた。


「ブランニル艦長。いろいろご迷惑をお掛けしました。それから、ヴィズルを逃がしたこと……航海日誌ログに記入をお願いします。俺があなたに頼んだことですから」


「その件ですが」


 ブランニルは東の水平線の空に、はや溶け込むように小さくなったグローリアス号をながめてつぶやいた。


「海賊スカーヴィズは海戦の最中命を落とした。違いますか? グラヴェール艦長?」

「……ブランニル艦長」


 シャインは思わず唾を飲み込み、その優しく光る水色の瞳を見つめた。

 そっとブランニルがシャインの左肩を叩く。


「ありがとうございます。ヴィズルは多分、海賊としてこのエルシーアの海には、二度とと思います。理由はないんですけど、そう思うのです」


 ブランニルは何度もうなずいて、シャインを伴いウインガード号の甲板の真ん中あたりまで歩いた。


「雑用艇を待機させているから、あなたはエアリエル号へ戻り、中将閣下の側にすぐ行かれるがいい」


 ブランニルのいう通り、左舷側の舷門げんもんは扉が開いており、縄梯子が下ろされ、シャインを乗せて帰るために、櫂を手にした水兵達が待機している。


「ブランニル艦長。しかし……」


 シャインはふと我に返った。

 アドビスの長い腕に包まれた時の感覚が蘇る。

 自分をティレグの銃弾から庇ったあの男の温もりが――。


「あなたは自分の務めをしっかり果たした。後は私の仕事です。さ、行かれよ」


 ブランニルにきつく言われて、シャインは仕方なく、エアリエル号へ戻る雑用艇へ乗り込んだ。



  ◇◇◇




 エアリエル号に着いた途端、シャインはやきもきして待っていたのだろう、怖い顔をしたジャーヴィスに左腕をつかまれ、そのまま第二甲板へ降りる階段へと引っ張っていかれた。


「ご無事で何よりでした。グラヴェール艦長」


 シャインを気遣う言葉を口にしながら、ジャーヴィスの顔は青褪め凄みを帯びている。こんな恐ろしげなジャーヴィスの顔は見たことがない。


 いや、その理由までシャインには考える余裕が実はなかった。

 戦闘が終わってエアリエル号に戻ったせいだろうか。


 ずっと気にしないように努めてきたが、体の熱っぽさが流石に無視できなくなっていた。腕を掴むジャーヴィスの声が遠くて、自分にではなく、他の誰かに話しかけているように聞こえる。


「……ということで、戦闘が終了したので信号旗を使い、ロワールハイネス号を呼び寄せています」

「……」

「中将閣下の怪我のことは、私からリオーネ様にお伝えしておきますので、ご安心下さい」

「……」


 返事をするのも、口を開くのも、正直億劫だった。


「グラヴェール艦長?」


 呼びかけられてシャインは我に返った。


「あ、ああ。わかったよ。それよりもジャーヴィス、腕を放してくれ。君の手が痛い……」

「いいえ」


 何故か無情とも言える冷たさでジャーヴィスが拒否する。

 歩調はシャインに合わせてくれてはいるが、左腕を掴む力が一層増した。

 彼は一体自分をどこへ連れて行くのか。

 砲門が開いているので第二甲板は外の光が入って明るいが、疲れ切った体のせいで頭もよく動かない。


中将閣下お父上の弾の摘出手術は無事に終わりました。今、サロンの方でお休みになられています。あなたの寝台もそこに作りました」


 シャインは息を飲んだ。

 ジャーヴィスが腕をつかんで離さない理由がわかったからである。

 シャインは両足に力を込めてその場で立ち止まった。


「俺はハンモックでいい。しかもあの人とだなんて……冗談、だろ」


 シャインは左腕をよじり、ジャーヴィスの手を振り払おうとした。


 アドビスのことは確かに気になる。

 気になるが、生まれてこのかた、アドビスとは立話をする時間より長く一緒にいたことがないのだ。

 アドビスと二人っきりにされて、その長い沈黙に耐えられるだろうか。

 それを思うと息が詰まりそうになる。


「――艦長!」


 ジャーヴィスの声でシャインはいつの間にか閉じていた瞼を開いた。

 こめかみに冷たい汗がいくつも浮いていて呼吸が早い。

 シャインはジャーヴィスの肩に寄り掛かっていた。いや、よろめいた体をジャーヴィスが支えてくれたのだろう。それに気づいた時、ひやりとした手がそっとシャインの額に触れた。確かめるように。


「解熱剤の効力はとっくに切れています。これ以上熱が上がる前に、今は大人しく休んで下さい」

「いや……俺は……」

「グラヴェール艦長」


 ジャーヴィスが呆れて嘆息するのが聞こえる。


「他人の私が言うのもなんですが、お二人の間の溝はすぐに埋まるものではないと察します。けれど心を開かなければ、すべての言動が悪意として受け取られます。それでは相手のことを理解する事も、受け入れる事もできないと思うのです。違いますか?」

「……」


 ジャーヴィスは正しい。いつも正しい事しか言わない。

 時にはその行為が非情と思えるほど、現実を認識させてくれる。


 シャインはジャーヴィスに寄り掛かっていた体を離した。ジャーヴィスが案じる様にシャインの顔を覗き込む。シャインは力なく頷き、気弱な笑みを浮かべた。


「……わかった。、君の言う通りにする」


「ありがとうございます。、そうして下されば、私の仕事がはかどるのですが」


 ジャーヴィスはやっと渋面をゆるめたが、左腕は放してくれなかった。

 シャインはため息をつきながら、サロンの木製の扉の前まで来て立ち止まった。ジャーヴィスが頭を垂れて入るよう促す。


 シャインは観念して扉を開け、サロンへ入った。

 あまり心配する必要はないかもしれない。そう思いながら。


 アドビスは手術を終えた後だから、昏睡状態から目覚めるのにしばらく時間を要するだろう。


 だから今日は大人しくジャーヴィスの言う事を聞いてサロンで休めば、明日はロワールハイネス号に戻れるはずだと思う。


 ゆっくりときしみながら背後で扉が閉まり、シャインは疲れた体を引きずって部屋の中を見回した。

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