4-90 代償

 ヴィズルの血走った眼がシャインの静けさに満ちた青緑の瞳を射た。

 ヴィズルの剣先が、アドビスを庇って伸ばされたシャインの軍服の袖口を切り裂く。


「何だと!?」


 剣の勢いを無理矢理殺し、ヴィズルは血が流れるほど唇を噛みしめて、怒りに我を忘れそうになりながらも、かろうじて自分を抑えたようだった。


「くそっ、この後に及んで、シャインっ!」


 シャインは首を振った。

 ヴィズルに殺されるかもしれない。

 だが彼にどうしても知ってもらいたかったのだ。

 ティレグがヴィズルを欺いていた事を。そしてを。


「嘘だと思うのなら、自分の目で、心で確認するんだヴィズル。『青き悪魔ブルーエイジ』は、餌食となる人間の心の秘密をすべて暴き、魂が苦痛に悶えるのを最上の糧として貪り喰らう。よく知っているだろう?」


 ヴィズルははっとして、甲板でのたうちまわっているティレグを見た。


「うがああぁ……来るな! 来るなったら! 失せろって言ってるだろ!」


 ティレグは頭をかきむしり、両足をばたつかせ、子供のように泣きわめいている。虚空を仰ぎ、何かを追い払うように時折手を大きく広げて空を薙ぐ。


 ブルーエイジがティレグに何を見せているのか、シャインにはなんとなくだが察しがついた。


 あの短剣は他人に知られたくない心の内を、自分が認めたくない己の心を、無理矢理掘り起こして目の前で見せつけるのだ。


 ヴィズルは踵を返し、ティレグの元へ一直線に歩いて行った。

 握っていた剣をその場に突き立て、しゃがみこんだかと思うと、暴れるティレグの肩を押さえ、胸に刺さったブルーエイジの短剣の柄を左手で握りしめた。


 ブルーエイジが低く、高らかに歌声を上げている。

 その青い刀身がほのかに微光を放ち、まるで生きているようにどくどくと力強く脈打っている。


 短剣の柄を握るヴィズルは、その下で苦悶の表情で泣き叫ぶティレグと同じように、顔から血の気がどんどん引いていった。柄を握る手がぶるぶる震え、唇がわなわなと引きつった。


「俺が、俺が悪かった……悪かった、ぜ。スカー……ヴィズ。があぁっ!」


 ティレグは自分の顔を見るヴィズルに気付いたようだった。


「ヴィズル、た、助け……。あの女が駄目になったのは、アドビスの奴、が」


 だがヴィズルは顔をうつむかせ、ティレグの上に馬乗りになると、やおら両手で短剣の柄を握りしめて、柄も通れとばかりに力を込めて突き立てた。


「お前が……、俺のお袋をーー!」

「ぎゃああああっーー」


 身の毛もよだつような絶叫をティレグが上げた。

 どんよりとした眼が白目をむき、唇から嗚咽混じりの息が漏れた。

 だがティレグの胸からは一滴の血も流れなかった。


「なんだ、今の声は」


 ティレグの声はこの世の者のものとは思えないほどすさまじく、斬り合いに興じていた彼の手下達を震え上がらせ、海軍の水兵や海兵隊達も、戦いを止めて船尾甲板を振り返った。


「グラヴェール艦長!」

「中将閣下っ」


 シャインはのたうちまわるティレグの姿を目に焼きつけようと、じっと見つめるアドビスの体を左手で支えながら、背後から聞こえて来たジャーヴィスの声に振り返った。


 ジャーヴィスの後ろには、軍刀を握りしめたエアリエル号艦長のブランニルもいる。そして甲板にいる者すべてが、船尾で泣き叫んでいるティレグを凝視していた。


 ジャーヴィスがはっと息を飲んで、シャインの傍らへ膝をついた。

 そしてアドビスの負傷に気付き口元を歪めた。


 ヴィズルはまだブルーエイジの短剣を握りしめ、ティレグの胸に突き立てていた。

 短剣が青白く禍々しい光を放って輝いている。背筋がぞっとするほど無気味なティレグの声は、短剣の光が強まるにつれて、どんどんか細く小さくなっていく。


 うっとブランニルが口元を押さえた。

 ティレグの顔や手や体が、まるで空気が抜けた風船のようにしぼんで萎びていくのだ。驚いたことに骨と皮だけになってもティレグは生きていた。


「うああ……おおお……」


 枯れ木のようにやせ細り、どす黒い皮膚を張り付かせたティレグの腕が、ゆっくりと上がりヴィズルの右腕にかかる。まるで慈悲を乞うように。


 ヴィズルは傍らに突き立てていた剣を左手で抜くと、それを両手で握りしめ、あっという間にティレグの首を刎ねた。同時に禍々しいティレグの声も途絶え、首は飛んで左舷側の舷側を超え、船外の海へ落ちる小さな水音がした。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 ヴィズルは長剣を甲板に突き立て、両手でその柄を持つとがっくりと膝をついた。その足元にはしなびたティレグの体が残されていたが、ブルーエイジの短剣がひときわ強く青い光を放ったかと思うと、細かく組織が崩れて灰色の粉に変化し、それらは海風に吹かれて跡形もなく散った。


 カラン。


 ティレグのすべてをその身に取り込んだ短剣だけが、瑞々しく光る刃を見せて甲板の上に転がった。


「くそっ……ティレグ……!」


 ヴィズルが拳を握りしめ、まだ納得がいかないように甲板を殴りつけた。

 何度も。

 何度も。


「ヴィズル」


 アドビスが苦しい息を吐いてヴィズルに呼びかけた。シャインはアドビスを座らせて、自分の胸に寄り掛かれるようにしてやった。甲板の上をアドビスの体から溢れた血が、細い川のように流れていく。


「ジャーヴィス、軍医を呼んできてくれ。いいやそれより、血止めを。俺は、俺は……」


 シャインはアドビスの体を支えているから手が使えない。

 だが夢中で首の襟飾りを解いてジャ-ヴィスに渡した。ジャーヴィスはそれを受け取り、アドビスの傷に押し当てて少しでも血を止めようと圧迫する。


「おいそこの水兵。ここに来てグラヴェール中将を運ぶのを手伝ってくれ!」


 ブランニルが一番近くにいた水兵を呼び寄せるため、一旦その場から離れた。

 エアリエル号の甲板では戦闘が完全に中断した。

 海賊達は今、不安げにティレグの首を刎ねたヴィズルを見つめている。


「……アドビス……」


 ゆらりとヴィズルが顔を上げ、呆然としながらも、その場に座り込んだままアドビスを見つめた。


 やり場のない怒りをぶつけることができず、それが悔しいのだろう。口元を歪め、ヴィズルは憔悴しきった表情でうなだれた。


「あんたは俺を突然置いていった。でもティレグは、ずっと俺のそばにいてくれた。ずっと一緒だった……それなのに。それなのに、ティレグは俺を騙していた。俺はそれに気付かなかった。がスカーヴィズを殺したんだ。俺は、小さな子供の時から、。アドビスっ……!」


 ヴィズルは再び歯を食いしばり、どうしていいかわからず銀髪を振り乱して甲板に両手をついた。鍛えた肩の筋肉が小刻みに震えている。


「ヴィズル。私のせいで、お前はかけがえのないものを失った。それは確かだ。私の命でそれが償えるというのなら。それでお前の受けた苦しみが、ほんの少しでも和らぐというのなら、早く、私の命を取ればいい」


「中将閣下……! ヴィズル」


 シャインはアドビスを支える手に力を込めた。まるでヴィズルにアドビスの身を渡すまいとするように、無意識のうちに肩を抱いた。


 両者の気持ちは理解できる。

 アドビスは妻リュイーシャを失った怒りを海賊達に向けて、彼等を皆殺しにした。海軍の追跡を恐れ、全てを失ったヴィズルが、ティレグと共に異国の地で過ごすことになったのもアドビスのせいだった。


 そしてアドビスは、ヴィズルの人生を狂わせたことを認め、その代償を支払おうとしている。その行為を止めるべきか。


 シャインはアドビスの肩を抱きながら、その答えを見い出す事ができずヴィズルを見つめる事しかできなかった。


 ヴィズルはじっとアドビスを凝視し、そして唇を震わせているシャインに視線を向けた。


 ヴィズルの瞳は腫れぼったくなっていたが、そこに宿る光は落ち着いていて、いつもの自分を取り戻したようにみえた。


「は……はははははっ!」


 ヴィズルはゆっくりと立ち上がると、その場で天に向かい乾いた笑い声を上げた。そして、甲板に転がっていたブルーエイジの短剣を拾い上げると、それを注意して腰のベルトにはさみこんだ。


「はっ……あんたの命なんかもらったって、死んだ人間は生き返らない。あんたを恨み続けた、俺の二十年という時間も戻ってこない! そうだろう?」


「ヴィズル……」


 ヴィズルは天を仰ぎながら夜光石の瞳を細め、いまいましげに――だが、一抹の決意を込めてアドビスに言い放った。


「だからそいつは、あんたを必要とする奴のために取っておきな。今なくす事は許さねえ! それが俺の望む、あんたの『償い』だ」

「……」


 アドビスが小さく喘いで目を伏せた。

 その顔色は真新しい紙のように白くなっている。額に幾つも冷や汗が浮いて、唇が青ざめていた。


「ヴィズル」


 シャインはおずおずと名前を呼んだ。ヴィズルが照れたように眉間をしかめ、くるりとシャインに背を向けた。靡く銀髪の後ろに、捕えられていた時に受けたのだろう。鞭の傷跡が生々しくのぞくのをシャインは見た。


「おい、船だぞ!」

「え……援軍だっ!」


 メインマスト中央部付近にいた水兵や海兵達が色めきだって騒ぎ出した。


「なっ、何っ!」

「どうするんだ。おい」

「どうするって、副船長はヴィズルがりやがったし。くそっ……!」


 海賊達は慌てふためき、何人かがはやエアリエル号の船首に接舷しているグローリアス号へ戻ろうと走り出した。


「ウインガード号だ。


 エアリエル号の右舷側で、海を見つめていたヴィズルがぽつりと口を開いた。

 シャインも水平線の彼方から現れた、外洋の紺色を模した大きなウインガード号がこちらへやってくるのを見た。その距離は五百リールをきったぐらいだろうか。三本のマストに白い帆を展帆し、船腹の二層の甲板にずらりと並んだ砲門がこちらへ向いている。


 ぱっと、ウインガード号の上甲板と第二甲板の砲門から、白い煙が次々と上がった。遠雷のような音が空気を割ったかと思うと、目の前の海に砲弾が落ちて水柱が上がった。


 ばりばりと木が裂ける音がして、シャインはエアリエル号のメインマスト付近に木片が舞うのを見た。右舷の船縁に一発弾が突っ込んで、その場にいた水兵達三、四名を巻き込み彼等を肉の破片と変えた。


「ツヴァイスの奴……そういうことか」


 ぎりとヴィズルが唇を噛みしめた。


「あれはノーブルブルーのツヴァイス司令官の船。なぜを砲撃するんだ!」


 ブランニルが憮然とした表情を浮かべながら、水兵三人を従えて再びアドビスのいる船尾楼甲板へ戻って来た。


「グラヴェール艦長。取りあえずお父上を艦長室に運んで、そこで軍医に怪我の治療をさせます」

「あ、はい……」


 シャインはアドビスの体を水兵達に預けて、ぎこちなくその場を離れた。

 ジャーヴィスがアドビスの傷口を押さえたまま、その体を両側から支える水兵達と共に立ち上がる。


「ジャーヴィス。あの人を頼む……」


 シャインは敢えてアドビスに背を向けジャーヴィスに言った。


「いえ、艦長。側についてさしあげるべきです」


 シャインはこの時自分の両手が、アドビスの血にまみれているのに気付いた。

 航海服の裾にも黒くなった染みが大きく広がっていた。

 まぎれもなくアドビスが、シャインのために流したものだ。その理由はさっぱり思い当たらないが、シャインはその現実を振り払うように頭を振った。


「だめだ。俺は、俺にはまだやることがあるんだ。ジャーヴィス」


 シャインはゆっくりと視線をウインガード号へと向けた。


「ツヴァイス司令を止めなくては。彼は、この船エアリエル号を沈める気だ」

「何ですって……?」

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