4-77 決別

「お前がどうしても話さないと言うのなら、ジャーヴィス中尉に錨鎖庫へ入ってもらうことも考えよう」


 誰がジャーヴィスをそんな目にあわせるものか。

 そう思い、足に力を入れてなんとか立ち上がるも息があがる。


 たかが一週間。しかしいろんな事があった一週間。シャインは自分が思っていた以上に、体に疲労が溜まっているのを感じた。ざんばらで背中に流した髪までもが、地に引っ張られるような感じで重い。

 しかしこれ以上、ジャ-ヴィスを巻き込むわけにはいかなかった。


「あなたが、俺の提示する条件を飲んでくれたら……すべてを話します」


 アドビスがせせら笑った。


「ほう? 一体それは何だ。言ってみろ」


 シャインは呼吸を整え、床に打ちつけた右手を庇いながら顔を上げた。


「ある人と会って欲しいのです。そしてその人物に、あなたが二十年前に殺したというスカーヴィス殺しの真相を、包み隠さず話して欲しいのです」

「何だと?」


 アドビスが眉をひそめた。


「ただしその人物があなたと話を終え、ここから立ち去るまでの間、命と身の安全の保証をすることも条件の一つです。それを誓約書にしたため、何があっても守ると確約して下さい。それが俺の条件です」

「そんな無意味な条件は飲めん」


 シャインは息を詰め、呆然とアドビスを見つめた。


「私がそんなことをして一体何になるというのだ? それに今私はある海賊を追っていて、奴をどうしても逃がしたくない。二十年前のそんな古い昔話を、どこの誰ともわからぬ人間に、語る時間などないのだよ、シャイン」

「――!」


 アドビスは焦れたのかやおら長い腕をシャインの右手に伸ばした。

 鈎爪のような指がシャインの腕に食い込む。

 シャインは込み上げてきた悲鳴を、歯を食いしばる事でなんとかこらえた。


「お前は何故かをさっきから使わないな。腕をどうかしたのか?」


 痛めた手首を支える添え木の存在に気付いたのか、小さく含み笑いを漏らし、アドビスはシャインを自分の方へと引っ張る。


「ぐっ!」

「中将閣下、やめて……下さい!」


 喉元を押さえジャーヴィスが膝をついたまま叫んだ。意を決してか、アドビスに飛びかかろうと身構える。


「私の邪魔をすれば、お前を撃つ」

「閣下――!」


 ジャーヴィスの唸り声がした。

 アドビスは黒い軍服のポケットに忍ばせていたのだろう、小型の単発銃を取り出して、それをジャーヴィスに向けていた。


 左手で握った銃の狙いをジャーヴィスに定めながら、アドビスは右手でシャインの手首をつかみ、それを上へと持ち上げる。疼く腕の痛みに、シャインは頭を垂れたまま、きつく目を閉じて左手を握りしめた。

 アドビスがシャインの顔を覗き込んでいるのか、怒気を含んだ荒い息が頬にかかる。


「言え。ヴィズルは今どこにいる。お前に何をさせようとしているのだ!」


 シャインは閉じていた瞳を見開いた。目の前にある顔はシャインの見知った男のものであるはずなのに、そうではない。


 そこにいるのは、金色の髪を振り乱し、自らの目的を果たさんとするため、深淵の中にらんらんとした二つの光を灯した髑髏どくろ――。ただ一つの思いに駆られ、狂気という感情に支配された男の姿だった。


 シャインはアドビスを凍るような視線で睨み付けた。たとえ殺されてもこの男に屈したくないという強い気持ちが沸き起こる。


「あなたがっ……条件を飲むまで、言えません!」

「シャイン――」


 アドビスの眼がみるみる血色に染まった気がした。掴まれた右手がみしりと嫌な音を立てて、軋むのがはっきりと聞こえた途端。右腕全体が背中側へとねじり上げられた。火が着いたように、熱い痛みの奔流がシャインの脳天まで突き抜ける。


「ぐっ……あああぁっ!」


 シャインは頭をのけぞらせて絶叫した。視界が血色に霞み、一瞬意識が飛んだ。身を引き裂くような激痛が押し寄せては返す波のようにシャインを襲う。

 腕を砕かれた痛みなら多分耐えられる。

 けれど――。


 シャインは霞む視界の中でアドビスの顔をひたと見据えた。

 こんなアドビスは知らない。

 目の前でせせら笑う、こんな冷酷な男の顔は知らない――。


 アドビスが感情を爆発させ、激しく怒る場面は今まで何度か見た事がある。

 だがいつもその表情はどこか一歩距離を置いたように、冷めていた部分があった。


 しかし今は違う。今は何かに憑かれたように、シャインの口から知りたい話を是が非でも聞き出そうとする、激しい気迫に満ち満ちているのだ。


 鼓動を刻むように、痛みの奔流がシャインの体を苛む。確かに心臓から血は流れ続けていた。アドビスと自分をかろうじてつなぎ止めていた何かが、ぷっつりと断ち切られたのだ。


 それが――痛い。

 胸の中で広がる喪失感がたまらなく痛い。


「うっ……」


 萎えた足が体を支えきれず、シャインはその場に膝をついた。アドビスが未だ掴む手首の痛みはよくわからなかった。再び飛びそうな意識の欠片をかき集め、シャインは黙って自分を見下ろす男を睨み付ける。

 まだだ。まだ楽になるわけにはいかない。


「あなたは卑怯だ……そうやって、自分の過去から逃げるのですか?」


 苦しい息を吐きながらシャインは目を細めた。

 アドビスが黙ったまま再び腕を引っ張ろうとする。

 ――もう、無駄だというのに。

 腕はしびれてすっかり麻痺してしまっている。


「あなたは、あなたがやった行為について――少なくともヴィズルだけには、真実を……話す、責任がある」

「……黙れ……」

「いいえ」


 シャインは気力を振り絞りアドビスの顔を眺めた。これほど近くでアドビスの顔を見たのは、以前屋敷の先にある岬で首を絞められた時以来だ。


「あなたは……考えたことがあるのか? ヴィズルがこの二十年、どんな思いで生きてきたか……」


 シャインは無意識の内に左手を上げ、そっとアドビスの頬に触れていた。

 手の下でアドビスが頬を硬直させたが、シャインは構わず言葉を続ける。


「愛する人間を――仲間を殺され、ヴィズルはあなたへの恨みを抱き続けたまま、生きなければならなかったんだ。――!!」


 アドビスの薄い唇がわずかに震えている。

 シャインは再び沸き起こってきた怒りで体が熱くなるのを感じた。


「彼をそんな風にしたのは、あなたのせいだ。あなたがヴィズルのすべてを、人生までも奪ったんだ! それなのにあなたは、ヴィズルに謝罪するどころか、海賊として命まで奪おうとしている!」


 アドビスの唇の震えは差し伸べた左手の指にはっきりと伝わってきた。だがシャインは口の中に広がって濃さを増してゆく鉄の味に、気が遠くなるのを感じた。痛みをこらえるために食いしばった歯が唇を噛み切っていたのだ。


 ぼんやりとした薄暗い視界の中で、今は死人のように沈黙したアドビスの顔が見える。そこに先程までその顔を歪めさせる原因であった、憑かれた狂気は薄らいだように感じられた。


 そう、願ったのかもしれない。

 もう一息だけ息を吸い、ガラス玉のように急激に光を失ったアドビスの瞳を見据えながら、シャインは口を開いた。


「あなたに、ヴィズルは、殺させない」


 心臓の鼓動が一つ打つごとに、そこから確かに血は流れていく。

 自分の中で信じたかった唯一のものは、アドビスによって砕かれた。

 アドビスは利己的で今までそうしてきたように、これからもシャインを都合のいい道具として扱うのだ。


 自分の目的を果たすためなら、何だってやるその姿を目の当たりにした。

 その男に、父親としてのぬくもりを求めていた――幼いままの自分の心。


 今ならそれを永遠に封じ込められる気がした。

 

 今なら決別できる。こんな自分と。

 シャインは伸ばしていた左手をアドビスから離した。


「シャイン」


 アドビスが掴もうとしたそれを叩き付けるように振り払い、自分の顔を覗きこんだアドビスを瞼を閉じる事で拒絶する。


「あなたが……死んでしまえばいい……」


 吐息と共に繋ぎ止めていた意識の糸がぷつりと絶えて、シャインは暗い闇の中へその身を任せた。

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