4-67 どれを選ぶか?(2)

 彼女スカーヴィズの顔を思い出そうとしたことがある。

 ティレグに彼女が自分の母親だと告げられる前は、あの恐ろしい夜の記憶をできるだけ早く忘れようとした。忘れる努力をした。あまりにもあの光景は凄惨すぎていて、夜中何度も目を覚まし、闇に怯え、朝が来るまで一睡もできない日々を多々過ごした。


 その甲斐あってすべてを忘れる事はできないが、二十年たった今、スカーヴィズの顔はどんな風だったのか思い出せなくなっていた。自分と同じような銀髪の持ち主だったこと以外は。


 ヴィズルはふとまどろみそうになり、思わず両手で目蓋をこすった。

 だが違和感を覚え指先を見つめる。

 どうしたのだろう。こすった指が湿っている。


「ふっ……」


 ヴィズルは再び両手を腹の上で組んで、頭を振った。

 証拠がない限り、誰が信じるものか。

 アドビス以外に誰が一体彼女を殺す?

 彼女を捨てたあの男以外に、誰が。


 ヴィズルは唇を噛みしめた。

 残る選択肢は


 島に戻る事を諦めてシャインの言う事を信じ、アドビスと話し合う事にする。

 もしくはシャインを小部屋から引きずり出し、船を動かす為に彼を殺す。


 腹がすき過ぎているせいか、乾燥した部屋の埃で喉がいがらっぽいせいか。

 だがそれらより甘い自分の思いに気付いて、その不快さにヴィズルは唇をきつく噛みしめた。


 俺は奴を殺せない。

 今は……まだ。


 シャインの命を守るように、ツヴァイスと交した約束のせいではない。

 シャインにはツヴァイスが言っていたように、最後の切り札としてまだ利用価値があるのだ。


 ツヴァイスが去り際にシャインの指輪を渡してくれた。それをアドビスに見せれば、彼の船をただ一隻にすることができると言って。

 半信半疑だったが、それはツヴァイスの言う通りになった。


 あの泣き虫のクラウス坊やが無事にアスラトルに着き、あの指輪を見たアドビスが、一隻でこちらに向かっている知らせを二日前に受け取ったのだ。


 ツヴァイスとの連絡に使っている、ヴィズルの愛鳥『ツウェリツーチェ』が、子供ならすっぽりと覆ってしまうほどの翼を広げて飛んできたから。


 かの鳥は人語を解し、簡単な伝言なら数回言い聞かせるだけで内容を覚えた。

 東方連国で手に入れたのだが、おそらくヴィズルより二十才以上、年上の彼女は、すらりとした首と、翼の先にいくにしたがって赤味が増す羽根を持った美しい鳥だ。


 そしてツヴァイスからの知らせの他にも、アドビスがアスラトルを発ったことを、見張りに当たらせている仲間の海賊船から報告を受けていた。だからあの男がただ一隻で、こちらに向かっていることは間違いない。


 ツヴァイスが言っていた事が本当なら――。

 アドビスがシャインの身を案じているのなら。


『あの男がシャインを見殺しになどできるものか。私ですら、消し去りたい罪をシャインの存在で思い出してしまうのに……あの男にとっては、それ以上の思いがあるはずだ。いや、ないなど言わせない』


 まだシャインは手元に置いておかなければならない。

 アドビスに対抗する為の、最後の『切り札』として。


 ヴィズルは眉間を押さえてうつむいた。三番目の選択もこれでなくなった。

 ふっと、安堵にも似た息を吐く。


 シャインを殺さずにすむ言い訳が見つかって、何故かほっとしている自分に、ヴィズルはぎょっとして目を見開いた。


 馬鹿じゃないだろうか。

 不意に笑いがこみ上げてきて、ヴィズルは乾いた笑い声をあげた。


 自分の甘さに反吐が出そうだ。

 でも、どうしてもできないのだから仕方がない。


 シャインは殺したい男の息子なのに、どうしても憎む事ができない。

 外見や雰囲気が、アドビスとまったく似つかないせいだろうか。


 それとも、うっとおしいほどに他人には優しすぎる、その事に気付いてしまったせいだろうか。


『ヴィズル。君は君自身の目で、何が偽りで何が真実なのか……それを確認する義務がある』

 

 他人であるシャインに、どうしてこんなことを言われなければならないのだろうか。まったくもって屈辱だった。


 胸くそは悪かったが、ヴィズルは言い返さなかった。

『お前に何がわかる。何も知らないくせに』――と。


 言えなかった。

 炎上するファスガード号の甲板で対峙した時とは違う。


 ロワ-ルハイネス号で出会ったシャインは銃を手にしていた。

 シャインを牢から出した人間が渡したにしろ、シャインが奪ったにしろ、彼が手下の誰かと接触したのは間違いない。


 そしてのだ。

 自分で動いて自分で情報を集めて。

 それを得るためにきっと代償を支払って。

 二十年前のスカーヴィズ殺しで、ヴィズルが未だ知り得ない何かを。


『真実を』


 自分のためではなく、赤の他人であるヴィズルのに。





『でたらめじゃない! 俺はある人からあの夜の真相を聞いて……』


 悔しかった。

 まるで自分が、真実を知る為の努力を怠ったようではないか。

 完璧な現場を見てしまった故に、自分はそれがすべてだと思っていた。

 どうして疑う事などできるだろうか。


 けれど。

 信じたくない内容だが、笑い飛ばせるものでもないと、今ならそれがよくわかる。

 シャインは本音を隠して建前ばかり言う人間だが、自らの命を奪われるかもしれない時に、冗談を言う愚かさは持ち合わせていない。

 今にも途切れそうな意識を保ちながらこちらを見るシャインの瞳に余裕はなかった。


 嘘ではないと感じた。彼が言う『真犯人がいる』話は。


 悔しかったのだ。すぐに認めたくなかったのだ。

 本当に他に真犯人がいるのなら、自分はただの道化師だ。


 あまりにもそれが悔しいので、素直にシャインの言う事に同意したくなかった。

 だから言ってやった。

 真犯人をでっちあげたのはアドビスだろう――と。


 心ない言葉だ。

 実に心ない言葉だ。

 温和なシャインを怒らせた結果が、このざまだ。


 ぐーきゅるるる……。

 腹の虫が現実を思い出させるかのように鳴いた。


 ヴィズルは黙ったまま応接机の上に伸ばした足を下ろした。

 長椅子の肘当てに手をかけてゆっくりと立ち上がる。

 一瞬目の前がゆらいだ。空腹のせいか視線が定まらない。情けない事に。


「くそっ。こうなりゃ、アドビスに会って白黒つけてやろうじゃねえか!」


 ヴィズルは大きく息を吸って、半ばすがりついた艦長室の扉を開け放った。

 その時、背後から感じた風が、ぱさぱさのヴィズルの長髪を揺らした。


 振り向いたヴィズルは開け放たれた窓の外で、今まで青く晴れ渡っていた空が消え失せているのを見た。上空はどんよりと曇り、厚い灰色の雲が立ち込めている。

 やがて海面が大きくうねりだし、空から落ちてきた雨粒がそれを激しく打ちだすのに時間はかからなかった。


 ヴィズルは喜色を顔面一杯に浮かべた。まさに天の恵みである。

 急いで空になった樽を甲板に並べることを考える。

 上手く行けば一週間分の真水を得られるかもしれない。

 それをすませてから気は進まないが、シャインの所に向かえばいいだろう。

 馬鹿な意地の張り合いを終わらせる為に。


 アドビスに会うまでは。死んでたまるか。


 ヴィズルは船倉に走った。

 まずは貴重な飲み水をためる、空の樽を取ってくる為に。


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