4-65 我慢比べ

 額にじっとりと汗をかいている。

 シャインは体の向きを変えようとして、しかし、何かに肩を押さえられているような、身動きしづらい感覚で目を開けた。


 暗くて狭くて少し蒸す。本当に暗い。まるで真夜中のように暗い部屋だ。

 シャインはもたれかかっていた壁から身を起こして、ぼんやりと辺りを見回した。暗闇に慣れてきた目が、天井まで届く高さの棚を捉える。シャインはその棚と棚の間に座って足を投げ出し、壁に背中を預けていた。


「あらシャイン。起きちゃったの?」


 くすぐるようなロワールの声がしたかと思うと、シャインの前方の扉から、ロワールがぬっと顔をつき出してこちらを見ていた。


 そのまま肩が現れ、腕が伸びて、すらりとした足に細く締った足首がのぞく。ロワールはシャインが自ら鍵をかけた扉を通り抜けて、シャインの目の前に立っていた。


「ごめん、ロワール。俺……少し眠ってたのかな。どうしようもなく……なんだか疲れてしまって……」


 シャインは額に手を当てて、再び背中を壁に預けた。体のあちこちが、ぶつけたみたいにじわりと痛む。きっと同じ姿勢のまま眠りこけていたせいだろう。

 シャインは大きな欠伸を一つして、ぼんやりとロワールの白い顔を眺めた。


「まもなく夜が明ける所よ。あなた、昨日の昼からずっと眠ってたわ。無理もないけどね」

「そうか……」


 シャインはもう一度欠伸をして左腕を前に伸ばした。

 自分がいつ眠ってしまったのか、実はまったく覚えていない。部屋に駆け込むことで精一杯で、ヴィズルがいつ立ち去ったかということも記憶になかった。

 体は確かに疲れていたが、あの時はそれ以上に気力が萎えていた。


『すべてを我に捧げよ。我に身を委ねれば、お前は苦痛ある生から解放される』


 金と銀をすりあわすような美しい声で、あの邪悪な――ブルーエイジはシャインにそう囁いた。


 逃げたい。隠しておきたい。誰にも見せたくない。忘れてしまいたい。

 そんな、心の奥に封じ込めた嫌な記憶を、ブルーエイジがすべて奪ってくれたら。きっと何の苦しみも感じることなく、あの時死ねたかもしれない。


 けれどシャインは抗った。抗いつつ自分の気持ちを認識した。

 これらを捨て去ることは、そう簡単にできないのだと。


『思い出させるな――あの人を、一瞬でも父親だと思ったことを』

 シャインは唇を噛みしめた。

 自分は知っている。

 アドビスに、振り向いて欲しいという気持ちがあることを。

 いつかきっと、こっちを向いてくれる日が来る。それを何よりも願っている自分の心を。


 だから、それを捨て去ることなどできない。

 今の苦しみから逃げてしまえば、生きていなくては、その日は永久にやっては来ないのだから。


『思い出させるな――あの人を、一瞬でも父親だと思ったことを』


 心に封じ込めたアドビスへの気持ち。

 強いて言うなら、それこそがシャインを、この世につなぎ止めている存在理由なのかもしれない。





「ヴィズルはあれからここに来たかい?」


 ふと、この部屋に閉じこもる経緯を思い出して、シャインは口を開いた。

 だがロワールは、ゆっくりと首を振ってそれを否定した。


「さんざん上で暴れてたわよ。あなたの悪口ばっかりわめいて。流石に今は、あなたと同じように、死んだように眠りこけてるけど……ま、音を上げるのも時間の問題だと思うわ。人間は飲み水と食料がないと生きていけないんだから」

「……そうだね」


 シャインは再び棚を見上げた。ここにはのクトル酒とワイン。そして、おっそろしく堅いが、ダフィーがある。


「こうなったら我慢比べだね。一刻も早くヴィズルが考えを改めてくれることを願うよ。ヴィズルにはどうしても同意してもらわなくてはならないんだ。あの人……アドビス・グラヴェールと、紳士的に話をすると――」

「シャイン」


 ロワールが不安げに眉をひそめ、シャインの左側に座ったかと思うとそっと体をすり寄せた。シャインの左腕に自分のそれを絡ませ、シャインの肩に額を埋める。


「ロワール?」


 シャインはいつになくしおらしげな表情のロワールを凝視した。ロワールがうつむいたまま呟く。


「……どうしてヴィズルなんかに構うの? シャイン、あの男に殺されかかったのに、どうしてあの男の事ばかり気にするのよ」


 シャインは目を細め、ゆっくりと息を吐きながら口を開いた。


「まだ君には話していなかったね。ヴィズルとあの人――アドビス・グラヴェールとの間に私怨があることを」

「訳ありだというのは感じてたわ。シャインがそのことで悩んでるの……わかってたから」


 ぱっちりと目を見開いてロワールが言った。シャインはロワールに小さく微笑すると、二十年前にアドビスが殺したと言われている、スカーヴィズ殺しの話をかいつまんで聞かせた。


 シャインが話し終えた頃、外は既に日が高く昇っていたのだが、この薄暗い小部屋には一切外の光が入らない。


 ただ、太陽の熱で気温が上昇していることは分かる。シャインはかさついた唇を湿らせるが、徐々に増す喉の乾きを意識しはじめた。


「……そうだったの。だから、ヴィズルはシャインのお父さんを目の敵にしていたのね。だったら、なおのことおかしいわ」


 ロワールはシャインの腕から身を離して、少し汗ばんだ額に髪を貼り付かせたシャインを見つめた。


「これはあの二人の問題よ。シャインがこれ以上関わる必要なんてない。すぐアスラトルに帰るの、シャイン。いいえ、帰るべきだわ!」

「駄目だよ、ロワール」


 シャインの言葉にロワールは立ち上がった。


「どうして?」

「どうしても、だ。もう……放っておけないからね」

「どうして放っておけないのよ?」


 シャインは左手をそっと右腕の上に置き、しばしうつむいて口を閉ざしていた。再び心の奥底から、とある情景がのぼって来るのを見つめながら。


「ヴィズルはね……あの人を恨むあまり、ノーブルブルーの船を沈めた。そして俺もまた、自分の乗っていたファスガード号を守るために、ヴィズルの手下に乗っ取られたエルガード号の人達を砲撃し、海賊、海軍共に、多くの人達の命を奪ってしまった」

「シャイン……」


 シャインはロワールを見上げ、その顔が同情するように曇るのを見た。


「ヴィズルは今度はあの人と、きっと正面から戦うつもりなんだ。今度こそ殺されたスカーヴィズの恨みを晴らすべくね。でもそうすれば、多くの血がエルシーア海に流れる事になる。ヴィズルの手下も、海軍もどっちもだ。だけど、あの人はスカーヴィズを殺してはいない。真犯人は別にいる。だから、ヴィズルがあの人と戦うことは無意味なんだ。それがわかっているのに俺は、彼等が殺しあうのを、このまま黙って見ている事などできない」


 ロワールはまじまじとシャインを見つめた。その白い顔にはまだ不安の色が残っているが、彼女はシャインが言わんとすることに理解を示した。


「あなたの気持ちはわかったわ。だからあなたは、ヴィズルが事の真相を知って、エルシーア海から離れてくれることを願ってる」


 シャインはゆっくりとうなずいた。


「ああ。その通りだよ」


 ロワールは再びその場に膝を付き、そっと右手を差し出してシャインの額にかかった前髪を払うと頬に両手を添えた。


 シャインは思わず目を閉じた。少し蒸してきたこの部屋のせいで、火照った頬に触れたロワールの手が、ひんやりとして心地よい。


「ヴィズル……どうしてあなたの話をちゃんと聞いてくれないのかしら。あなたを嘘つき呼ばわりするなんて、あんまりだわ」


 ロワールのささやき声を聞きながら、シャインは自分を心配してくれる彼女の心を感じていた。


「無理ないさ。彼はスカーヴィズの殺された現場を自分の目で見ているからね。だから、他の可能性を受け入れることができないんだと思う。けれど、そんな悠長なことは言っていられない。とにかく一度、ヴィズルはあの人と話し合うべきだ。俺はそうすることで、二人が和解してほしいと願ってる」


 甘い考えかもしれないが。

 シャインはそう心の中で付け加えた。


「けど、ヴィズルが話し合いに応じないんじゃ……困ったもんよね」


 シャインの頬から手を離したロワールは再び立ち上がり、両手を組んでため息をついていた。


「何、そのうちに来るさ。きっと」


 シャインの声を聞いて、ロワールは思い当たったように両手を打った。


「そうよね! だって食料はここにしかないし。水は……みんなお酒みたいだけど、これだけあれば、シャインは軽く一ヶ月は大丈夫よね~」


 シャインはゆっくりと首を振った。


「ここの酒は

「えっ?」


 ロワールの笑みが微動だにせず、そのまま顔に貼り付いた。硬直した笑みをたたえたまま、ロワールはぎごちなくシャインに問いかけた。


「ど、どういう意味なの? シャイン?」


 シャインはひび割れてきた唇を湿らせ、肩をすくめて微笑した。


「強すぎるんだ。水で薄めたって、俺には飲めやしないけどね」

「……」


 ロワールの瞳がどんどん大きく見開かれていく。

 彼女は両手を自分の頬に添えて、しばし茫然と立ち尽くした。

 シャインはそんなロワールをちらりと一瞥してから、ぽつりと一言呟いた。


「言っただろう? こうなったら『我慢比べ意地の張り合い』だって」


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