4-62 永久(とこしえ)に続く絶望
ブルーエイジの邪悪な意識がこちらにも入り込んでくる。
ヴィズルは体を強ばらせて凝視していた。
シャインが短剣を自らの力で外すその間際まで。
シャインの心に映し出されたアドビスの姿を見た時、不覚にも一瞬胸がつまった。二十年ぶりに見たアドビスは、ヴィズルの記憶の中よりも少し老けていたが、あの頃と雰囲気がそれほど変わっていなかったから、余計に胸が苦しくなった。
子供の頃のシャインの額を優しく撫でる、アドビスの物静かな横顔には見覚えがあった。昔アドビスは、子供だったヴィズルのくしゃくしゃの髪を、同じように優しくすいてくれたから。
シャインがこの記憶を大事にする気持ちはなんとなく理解できた。
アドビスはヴィズルから何もかも奪った男だが、優しかったのだ。
何故スカーヴィズを殺したのか。スカーヴィズの手下達を殺したのか。
その理由がさっぱり思い当たらない程、彼は海賊達となじんでいたのに。
ヴィズルはふと湧いてきた感情を一蹴した。
今の自分には必要無いものだ。すべては幼かった自分の幻想にすぎない。
この思いを本当に所有できるのは、シャインだけなのだから。
それなのに。
『思い出させるな。あの人を、一瞬でも父親だと思ったことを』
アドビスを慕っているくせに、シャインはそう呟いた。
心の奥底から血を吐くように呟いた。
それはヴィズルが抱いているアドビスへの拒絶ではなく。
あの島を取り巻く碧海と同じ色をした瞳は、救いを見出せない深い苦悩に満ちていた。
◇
『まだまだ足りない! よこせよこせ! あの者の心には、奥底にもっと果てしなく昏き闇が眠っておる。喰わせろ! その
「うるせえな。
ピシャリ!
ヴィズルはブルーエイジの短剣をぎろりと睨み、腰のベルトに差した鞘にそれを片手で押し込んだ。短剣が物欲しげに
どうして、こんなことに。
ヴィズルは未だ疲れが抜けない自身の体に苛立ちを覚えながら、じんじんと痛みに疼く左手首を軽く振った。一心にこちらを見るシャインの視線を感じながら。
まったく、どうして。
あんな目にあったというのに、まだお前は俺に付きまとう気か?
お前はどうかしてる。
本当にどうかしてる。
その様を見てみろよ。ぼろぼろじゃないか。
シャインは後部ハッチの板壁に背中を預け立っていた。細身の両肩がゆっくりと上下の動きを繰り返す。その隣にはロワールがいて、明らかにヴィズルへの敵意をむき出した水色の瞳を細めている。
シャインは灰色に薄汚れた布を首から下げてティレグに折られた右手を吊り、痛むのか、添えた左手で肘を押さえていた。
柔らかな光沢を帯びた上質の布地で作られ、外洋の青を模した航海服は、普段海軍士官として颯爽とした雰囲気をシャインに与えているが、こちらも裾はほころび、埃と泥にまみれ、濃い染みが広がり、今はその面影すらない。
肩を覆う束ねていない金髪が潮風にあおられ、乱れ髪をその白い顔に幾本も貼り付かせているシャインの形相もそうだ。ヴィズルが知るかつての彼には、上流階級育ち故の甘く気怠い雰囲気が漂っていた。
けれどあの瞳のせいで別人のようだ。
ロワ-ルハイネス号が漂っている碧海と同じ色をしたシャインの双眸は、ブルーエイジの邪悪な意識に触れたのにも関わらず、少しも生気を失ってはいない。むしろ増した気迫と執念に満ちた眼差しに、思わずこちらが気後れしそうになる。
その意志の強さはどこからくるのだろうか。ヴィズルは信じられない面持ちでシャインを眺めた。
こんなはずではなかった。
強情なシャインを従わせる唯一の手段としてブルーエイジを用いたのに。
ヴィズルは銀髪をかき上げ、ため息をつきながら口を開いた。
「褒めてやるよ。ブルーエイジに喰われれば、悪魔でも慈悲を求めて泣き叫ぶ。自分の本質を暴かれ、見せつけられ、それを受け入れられない者は、命を取りとめても気が狂う。いや……」
ヴィズルはふっと口元に笑みを浮かべ、嘲るように呟いた。
「お前は最初から狂ってるからな、シャイン。狂っているからまともでいられたんだろうよ」
「言わせておけば! 狂ってるのはあなたの方よヴィズル!」
シャインの腕にすがりロワールが赤髪を揺らして叫んだ。
ヴィズルが彼女に視線を向けると
「シャインの気持ちも知らないで! シャインだって、好きでこんなことしてるんじゃないんだから。お願い、シャインの話を聞いて。シャインはあなたのために!」
「俺の、ため?」
ヴィズルは上空を仰ぎ、雲一つない晴天に向かい笑い声をたてた。
「ヴィズル!」
ロワールがそんなヴィズルの態度に憤慨して両手の拳を握りしめた時――。
「本当に俺のためか? シャイン」
ヴィズルは左手を伸ばし、シャインがもたれている板壁に手をついた。
そのまま先程から一言も言葉を発しないシャインの顔を覗き込む。
ブルーエイジに無理矢理胸の内を暴かれた衝撃のせいだろうか。
口が利けなくなったか。
けれど見返してきたシャインの瞳は疲れきっていたが、先程見た苦悩の色は消えていた。
いや。ヴィズルは思った。
それを再び隠したのだ。
今まででそうしてきたように。
「……ヴィズル。一つだけ答えてくれないか」
シャインが喋りにくそうに口を開いた。細い首の肌は短剣を押し当てたせいで真一文字に赤く、みみずばれの様になっている。けれど出血はしていない。
ヴィズルは目を細めた。ブルーエイジの貪欲な食欲は、血一滴たりとも無駄にこぼすことを許さないのだろう。
「俺の方が先に尋ねているんだがな。まあいいだろう。言えよ」
「ありがとう」
ヴィズルはシャインを殴りたくなる衝動をやっとの思いで堪えた。
こんなことで礼を言われても腹立たしさしか感じない。話を聞いてやるのは、シャインをなだめ、船の向きを島へ変更させるための手段にすぎないのだから。
しかしヴィズルの思惑を知らないシャインは、少し安堵したように眉間に込めた力を抜いた。それを望んでいたように体の緊張を解く。
航海服のポケットには銃を忍ばせているくせに、手を伸ばそうとすらしない。まるで調理されるウサギのように無防備で、ヴィズルに対する敵意もなければ警戒する素振りもない。
随分と見くびられたものだ。
そう思いつつ、ヴィズルはふと気付いた。
今までシャインから敵意を感じたことは一度もなかったことに。
シャインはヴィズルの行為に怒りを示したことはあっても、ヴィズルが海賊であることを知った後、自分を捕らえるだとか、斬りかかるということをしなかった。
今回の目的だってヴィズルを捕らえることではない。
シャインはただ、奪われた自分の船を取り戻しに来ただけなのだ。
船乗りなら命の次に船が大切だ。
シャインにとっては自分の命より大切なものだから、当然の行動だろう。
ヴィズルは無意識に左脇腹へ伸ばした手をぐっと握った。アドビスへの復讐のため、一度はシャインの命を奪おうと思ったし、そうなっていたはずだった。
けれど正直今は、そんなことどうでもいいと考えるようになった。
自分はアドビスのように、意味もなく人の命を奪いたくない。
二十年という長い年月が経ったせいで、気持ちが揺らいでいるのかもしれないが、自分にとってシャインの存在は煩わしいだけであって、殺意を抱くまでにはならなかった。
敵意を持たないシャインは所詮、ヴィズルの敵でもなんでもないからだ。
弱い犬は吠えることしかできない。追っ払うだけで十分なのだ。
だからこそ、いつも一歩手前で手加減してしまう。
けれど――。
ヴィズルは心の中で、シャインに一抹の憐れみを感じていた。
『あの者の心には、奥底にもっと果てしなく昏き闇が眠っておる』
ヴィズルはシャインの一見澄んだ青緑の瞳の中に、未来永劫晴れない深い闇を見た。ブルーエイジの邪悪な意識を通じてそれを見た。
言いたい言葉がある。
けれどそれを飲み込んだ子供の瞳に映るのは――
海軍一家の跡取りで、アドビスの庇護の下、何不自由なく育てられたはずのシャイン。彼の人生の前途にはエルシーア海軍軍人としての輝かしい道が開けていると想像するのは難くない。
それなのに――。
シャインの瞳に映るのは、明日を夢見る心を封じた子供のそれと同じだった。
『思い出させるな。あの人を、一瞬でも父親だと思ったことを』
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