4-56 船霊(ふなだま)

 白々としてきた東の空と同じように、ロワールの頬が赤味を増した。


「い、今更……なによ……シャインったら」


 シャインはしどろもどろになって両手を頬に当て、うつむいたロワールを見ながら、ゆっくりと立ち上がった。ふらふらと右に左に動く舵輪の握りを左手でつかみ、前方の空が藍色から薄紫色に色を変え、星々の弱い光が消えゆく様を目に止め、徐々に青味を増してくる水平線の彼方を眺める。


 再びロワールハイネス号に戻れたことを今になって意識して、風は生暖かいにも関わらず、シャインはぶるっと体を震わせた。


 それぐらい思いつめていた。

 あの時は。


 ヴィズルがロワールを船鐘に封じ込め、ロワールハイネス号から持ち出そうとしていたあの場面が、脳裏にまざまざと蘇る。


 彼女を失ったら、自分はどうしていただろう。

 彼女が彼女でなくなっていたら、どうなっていただろう。


 シャインは目を伏せた。もうそんな事を考えるのはよそう。

 ロワールは無事だったし、今彼女は自分の手の中に戻ったのだ。

 シャインは確かめるように左手で舵輪の柄を握り直すと、傍らに寄り添って立っているロワ-ルに向かって言った。


「ロワール。日が昇る前に島から遠ざかるよ。俺は帆を上げてくるから、少しの間このまま東に向かって進んでくれないか」

「わかったわ。それで、帆を張ったらどの方角に向かえば良い?」


 シャインは目を細めて微笑した。


「北に向かう。島の様子を確かめてアスラトルへ帰るんだ」

「うん!」


 波のようにうねるロワールの髪が、うなずく動作と共にゆるやかに動く。


「ああ……やっとアスラトルに帰れるんだぁ。クラウスちゃんやシルフィード航海長……それから」


 ロワールはちょっと小首をかしげ、そして再びうなずいた。


「ジャーヴィス副長の眉間のとか、見なくなって久しいのよね。早く皆の顔が見たいなぁ……」


 ――ジャーヴィス副長の、シワ。


 ロワールの記憶の中の彼はそれだけの存在だったのか。

 シャインは口元に小さく忍び笑いを浮かべて舵輪の柄を離した。


「俺は……ジャーヴィス副長に会うのが少しこわいな」

「どうして?」


 微塵も迷いのない口調でロワールが言う。舵輪はロワールの意志の下に入り、小気味良い音を立てて回っている。シャインはそれをちらりと見て頭を振った。


「言おうと思っていたんだけどやっぱりできなくて、彼に黙ったままここに来ちゃったんだよ。ジャーヴィス副長は、話を通しておかないとひどく怒るから」


「何よー。シャインの気も知らないで、いきなり怒り出したら私が庇ってあげる」


 鼻息荒く両手の拳を握りしめたロワールを見て、シャインはくっくっと笑った。言っていることは無茶苦茶だが、実にロワールらしい単純さだ。


「ロワール、じゃ、頼んだよ」

「あっ、シャイン!」


 まだ話は終わっていないとばかりにロワールが叫んだが、シャインは舵輪の側を離れて、左舷側の階段の側へ行った。そこにはヴィズルがシャインに背を向ける形で横向きに体を横たえ、小さな寝息を立てて眠っている。


 どうやら当分起きることはなさそうだ。

 風も温かいし、このまま甲板に放置しても大丈夫だろう。

 むしろ今目を覚ませば、何かと厄介なことになる。


 シャインは舵輪の前を横切って、敢えて反対側の右舷側の階段から甲板に下りていった。甲板の床を歩くとブーツの底が、ざりざりと音を立てる。


 甲板磨きを一ヶ月以上していないうえ、風に乗って舞い降りて来た砂が、容赦なく降り積もっているのだ。それは甲板だけでなく、帆桁ヤードに巻き付けている帆の上、滑車、船縁、至る所一面にだ。


「一仕事終わったら掃除しなくてはね……」


 シャインはむっとした表情を浮かべつつ、ため息をひとつついて、舳先に張る三角帆ジブを一番手前のみ、縛っていた紐を解いて帆を広げた。何しろ左手しか使えないので、一人ですべての帆をあげるのは無理なのだ。


 シャインは西風をはらみ、激しくばたつく帆に悪戦苦闘しながら、フォアマスト一番前の前にある、上げ綱を巻き付けるレールの前まで後ずさった。風を受けたことにより、ロワールハイネス号が東に向けて少し速度を上げていく。


 木製のレールの上には上げ綱を固定できるように、木の棒ビレイピンが数本垂直に立っている。シャインは上げ綱をその木の棒にぐるぐると手早く巻き付けて固定すると、今度はフォアマストの帆を上げる事にした。


本当はロワールハイネス号の中で一番大きい帆を持つ、真ん中のメインマストの主帆メインスルも上げたかったが、やはりシャイン一人で広げるのは重すぎて無理がある。


 西風が思ったより強くなくロワールの助けもあって、シャインはなんとかフォアマストの帆を一枚上げる事ができた。


「シャイン、北に向かうわよ」


 後部甲板の舵輪の前に戻った所で、ロワールが軽やかに言った。


「ああ。島からちょっと距離をとりながら進もう」


 シャインはロワールと場所を替わり、再び舵輪の柄を握りしめた。目の前にある木製の羅針儀箱コンパス)をのぞきこみ、針が北を指すよう舵を取る。


「シャイン、船だわ」


 ロワールの声にシャインは左舷前方を見た。宵闇にいまだ黒い影でしかないヴィズルのアジトの島が見える。ごつごつとした崖と磯の先に、細長い岬が現れ、枝のない背の高い木々が生えている合間に、確かに船影がある。


「五隻……いや、十隻はいるのか?」


 ロワールハイネス号は島を左手に見ながら北上していく。細長い岬をすぎたあたりに、大型船ほどではないが、何隻も船が停泊している。それらの船とロワールハイネス号の距離は数百リール以上離れているが、島で唯一の穏やかな湾に集められた船を見て、シャインは一瞬ごくりと唾を飲み込んだ。

 生暖かい風に混じって、声が聞こえたような気がしたのだ。


 おぉぉぉおーーん……。


 か細く、時にはため息をつくような。

 長く細く尾を引く、うなり声のように。


 おぉぉぉおーーん……。


 海の上で浮かぶ船達は寄り添うように整然と並んでいる。船と船を係留索か鎖で固定しているのか、それはまるで連なった一つの生き物のようにも見えた。


「今のは……」


 シャインが思わず言葉を漏らすと、隣に立っていたロワールがシャインに身を寄せて来た。


「あの船達……私に敵意を持っているわ。やだ……こっち見ないで!」


 ロワールはシャインの腰に手を回して顔を埋める。シャインもなんとなく薄気味悪さだけは感じていた。


 ロワールハイネス号より少し小さめの、平均二本のマストを持つその船達の上に、人影はまったく見当たらない。薄暗い闇と波に揺れる船が浮かんでいる光景が、とても静寂でそしてとても異質な冷たさを伴っている。


 おぉぉぉおーーん……。

 再び物悲しい声が響いてくる。

 狂おしげなそれに、シャインは無視する事ができず耳をすませた。

 何かを呪うような恨めしげな声だけではない。

 様々な感情が混じったいくつもの、沢山の声が。

 満ちていた。

 辺り一面。

 ロワ-ルハイネス号の周囲を取り巻いていた。


 助けて……ここは暗くて冷たい……。

 苦しいの。この束縛を解いて頂戴……。

 あなたが。

 あなたならできるわ。

 あなたなら……このいましめを解いてくれる。


『そんなこと、俺にはできないよ』


 シャインは声に答えた。声の主の正体に見当はついた。ついたからこそ、達の思いにひきずられそうになる。


『その娘を解き放ったくせに、私達は見捨てると言うの?』

『見捨てるの?』

『それは……』


 シャインの意志とは関係なく、ロワールハイネス号の舳先が、湾の中で浮かぶ船達の方へ向きをじわりと変えていく。シャインは自分では舵輪を回す手を止められない事に気付いた。


『やめろ。俺は術者じゃない。だから、どうすることもできないんだ』


『あなたができないのなら、その銀髪の男を私達に引き渡しなさい!』

『そうよ! あの男のせいで私達は』

『彼奴の体を引き裂いたら、私達は解放される。きっと!』


 シャインの目の前の船達から淀んだ気が放出されたかと思うと、ロワールハイネス号に向かって、それは覆いかぶさる雲のように迫ってくる。


『よこせ! その男ヴィズルを!!』


 憎悪の塊となったそれは、まるで手のように形を作りはじめロワールハイネス号の船尾をかすめる。


「ああもう! あんたたちに構っているヒマはないの!!」


 ロワールが大音声で叫んだかと思うと、シャインは突如襲った痛みに身をすくめた。


「痛たたたっ! ロワール!! 何を」


 背伸びをしたロワールが、シャインの頬を思いきりつねっていたのだ。


「しっかりしてよ、シャイン。あそこに入ったら二度と出て来れなくなるわ! あの人達、もう……船の精霊じゃない。悲しみのあまり、何か別の物になっちゃったの」

「そんな……」


 シャインは左手に力を込めて舵輪を回した。やりきれない思いを込めて、船達に背を向けて遠ざかる。


『渡せ! 渡せ!』

『ああ……行かないで』

『行かないでったら……』


 おぉぉぉおーーん……。


 ロワールハイネス号はそれらから逃げるように北上を続けた。風の声が、船達のうなり声を巻き込み、かき消していく。


 額と背中が冷たい汗でじっとりとしている。しかし右手から昇る太陽の光と、徐々に小さくなっていく島の光景に、シャインはようやく安堵感を覚えた。


「何だったんだろう、あの船達は」


 日の出と共に強まってきた西風に、髪をゆらしながらロワールがつぶやいた。


「……わからない。でも、だった。それだけは確か……」


 不意に言葉をとぎらせ、ロワールは依然甲板で眠っているヴィズルに視線を向ける。大きな水色の瞳がすっと細められ、きゅっと口元がひきしめられた。


「私、この男が彼女達にした仕打ちを、絶対許せない」


 握りしめられた両手の小さな拳が震えている。シャインは先程の出来事に対する、ロワールの不安や怒りをそこに見た。


 ロワールの言う通り、あの船達には船の精霊が宿っていた。きっとグローリアス号にいた、精霊グローリアのように、無理矢理ヴィズルが縛り付けたのだろう。だが、何のために?


 シャインはヴィズルの意図を考えようとしたが、他にやるべきことは沢山あるので、やむを得ずそれを後回しにする事にした。


「ロワール。君、しばらく休んだらどうだい。風は安定しているし、当分はこのまま楽に舵をとれるから」

「ううん、大丈夫よ。久しぶりに海に出たから、この光景をしばらく見つめていたいの」


 ロワールはシャインの方に向いて小さく微笑した。


「それより、シャインも疲れたでしょ? 一晩中動きっぱなしだったんだから。船とあの男のことは私が見張ってるから、少し部屋で休めばいいわ。ねっ」

「……ありがとう」


 シャインはロワールの申し出を聞いて、皮肉にもヴィズルの言葉を思い出し顔をしかめた。


『彼女がいれば、船を動かすための人間はいらない。俺の命じるままに、彼女が自在に船を動かしてくれるのさ』


 自分は決してロワールを利用しようなんて思っていない。

 彼女はこのロワールハイネス号にいて、好きなようにふるまってくれればそれでいいのだ。


 だが現実問題人手が足りない。シャインも二十四時間つきっきりで舵を握ることなどできない。ロワールの存在は本当にありがたかった。


「ロワール。じゃ、しばらく船を頼むよ。船倉に下りて水と食料がどれほど残っているのか、確認したいんだ」

「わかったわ」


 十代の少女の姿をとっているロワールの体は、太陽の光が通り抜けていく程まだ薄いが、口調は別々に離れてしまう前と同じぐらい強くなっている。

 シャインは舵輪から手を離すと、柔らかな笑みを浮かべて自分を見送るロワールの姿を一瞥してから、後部甲板の階段を下りた。


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