4-54 脱出

 沈み込ませた意識が浮上するのを感じて、シャインはゆっくりと瞼を開いた。心の奥底で密かに恐れていた不安感は、自分を包み込む、ほのかな温かい気配が共にあることで、引いていく波のように消えていく。


 目の前にある船鐘が、何事もなかったように月の光を受けて鈍く輝いているのを見て、シャインは口元に安堵の笑みを浮かべた。

 正確には船鐘の隣でたたずみ、こちらをそっと見返すロワールの姿を。


 シャインが立ち上がった途端、今までこらえてきたものが一気に押し寄せてきたのか、ロワールはゆるやかにうねる紅髪を震わせ、両手を伸ばし、シャインの懐に飛び込んできた。


 シャインはただ、寂しい思いをさせたロワールを安心させたくて、その小さな肩に腕を回す。だがそれに触れているという感覚は全くない。


 夕焼けより鮮やかな彼女の髪が、ふわりと宙を舞い、一房、また一房とシャインの腕に落ちていく様は、鮮明に見えているのに――。


 シャインはそれに一瞬だけ虚しさを覚えたものの、ロワールの肩を抱いた手にさらに力を込めた。彼女は確かにそこにいるから。ほっとする暖かさが自分を包み、彼女の心が意識が胸の奥へ伝わってくるから。


 きっと来てくれると思っていた。

 私には、それしかできないから。

 あなたが来てくれると思い続ける事がすべてだったの。

 あなたが私の事を思ってくれていることを感じていたから、

 あなたがそうして私に生きる力を与えてくれたから、私は今ここにいる。


「シャイン、ありがとう」


 ロワールの声に顔を上げたシャインは、ゆっくりと頭を振って応えた。


「俺のせいで辛い思いをさせてしまった。すまない」


 ロワールはつと体をシャインから離した。シャインもまた、青白い月光が通り抜けるロワールの肩から手を離す。


 ロワールは自分の両手を見つめ、ちらりと体のあちこちを眺め、シャインの冴えない顔を最後に見上げた。


「心配しないで。ここぞという時のために力を制限していたの。私の姿が薄いのは一時的なものだから、それに」


 ロワールは水色の瞳を細めて微笑した。


「あなたが来てくれたから、もう大丈夫よ」


 シャインはロワールの微笑につられてそれを返したが、心から笑えない大きな懸念を抱えていた。この崖で囲まれた入り江から、果たして船を出す事ができるのだろうか。それにはロワールの力が必要だ。ロワールに大きな負担をかけることになる。


「シャイン、行くんでしょ?」


 鐘に封じこまれていた時の弱々しさを全く感じさせない明るい口調。シャインがロワールの心を感じたように、彼女もまたシャインの『想い』を感じている。


 どんな心境でシャインがここまでたどりついたか、口で言わなくてもロワールはすでに察している。だからこそ自分から言い出したのだ。


「ああ。そろそろ追っ手がかかる頃だ」

「なら急がないと」


「待ってくれ、ロワール。ここは風がない。入り江から海に出るためには、君自身の力のみで船を動かさなくてはならないんだ。そんなこと、今の君に俺は」

「私の事は大丈夫。いいものがあるから」


 ロワールは再びシャインに向かって手を伸ばすと、腰のベルトにはさんでいたヴィズルの短剣を取り上げた。ロワールの手に触れるとそれは、握りの部分から刃先まで青白い光が満ちていき、呼応するようにゆっくりと明滅しながら、宙に浮かび上がった。




「ふーん。ヴィズルも『ブルーエイジ』の所持者だったのね」


 それは確かにロワールハイネス号の『船鐘』が発する青い微光と似ていた。


「嫌な人。船鐘にヴィズルが触れた時、『ブルーエイジ』に魂を取り込まれればいいのにって思ったわ」

「ヴィズルがそうならなかったのは、彼が『術者』だったからか?」


 ロワールは小首を傾げ、考える様に目線を遠くへ向けた。


「扱いに……と言った方が正しいかしら。彼らから身を守る術を知っていたというか」


 そこでロワールはシャインを見つめた。

 とても真剣なまなざしで。


「シャインの馬鹿。無謀なのはあなたの方よ! 『あの人』がいなかったら、あなたは今頃『船鐘』に魂を捕らえられていたわ。わかってる?」

「……『あの人』? それは……」


 シャインはふと思い出した。

 『船鐘』に宿る数多の『魂』とも呼べる意識に襲われた時、金色の風が吹いてきて彼らを退けてくれた。


「俺は……それが誰か、知っているような気がする……」


 無意識の内に唇が震えた。


『想いとはあなたの心から溢れるもの』

 そう叱咤し、励ましてくれた声が誰なのか。

 顔は勿論、ましてそれが誰かもわからない。

 けれど心が思うのだ。

 その声の主を自分は知っていると。そう、感じるのだ。



「私、ちょっとだけ思い出したかも。何故私が『船鐘』に縛られているのか」

「ロワール……」

「私ね、。そして――『あの人』も同じことを望んだの」

「それは一体――」

「ごめんね、シャイン。それだけしか今はわからない。でもあなたが『船鐘』に潜むブルーエイジの意思を退け、私の眠りを覚まさせたのは、多分、私があなたのことを『知っていた』からだと思うの」


 ロワールの微笑が翳って見えた。決して周囲の暗さのせいではない。

 ロワールは再びシャインに詫びた。


「本当にごめんね。どうしてあなたのことを『知っていた』のか。それはまだ思い出せない……」


 シャインは首を横に振った。


「焦らなくていい。また、いつか思い出すさ。まずはここから脱出することが先決だ」


 シャインは崖の合間に煌めく炎の明かりが近づくのを目に止めた。

 追っ手だ。


「シャイン。私、船を動かすけど『船鐘』の力は使えないの」


 青白い光を放つヴィズルの短剣を持ち、ロワールが呟いた。


「今は『船鐘』の中にあるブルーエイジの意思を抑えることで精一杯。だから、ヴィズルの短剣を使うわ」

「大丈夫なのか?」


 ロワールはこくりと頷いた。


「なんたって封じられている『魂』の数が圧倒的に違うから。短剣ぐらいの量なら、今の私でも力を引き出して制御できる」


 ロワールは短剣を両手で持ち、胸の前にかざした。


「……私の中に力が満ちていくわ。なんとかなりそう」


 ブルーエイジの短剣の光が、恍惚とした表情を浮かべたロワ-ルを青白く彩る。


「わかった。じゃあ、準備をしよう」

「シャイン。私、錨は下ろしてないの。船首の左舷側と船尾の右舷側にロープで岩場に係留されているだけなの」

「じゃ、外してくるからちょっと待っててくれ」


 シャインは1リールと離れていない足元の床で、ヴィズルが小さく寝息を立てている様に苦笑し、彼の体をまたいで、まずは船首の係留索を解こうと左舷側の階段を下りようとした。


 突如、静寂を乱す破裂音が頭上で鳴り響いた。

 シャインは咄嗟に階段に身を伏せて、背後の崖の上に目をこらした。

 崖の上に生えている、暗い木々の影に隠れて何かが動いている。

 きっとティレグの追っ手だろう。そう思っている間にも、銃の発砲音と共に銃弾がロワールハイネス号のメインマストをかすめていく。


「シャイン! もう追っ手がきちゃったの!?」


 船鐘の側で立ち尽くしながらロワールが叫んだ。

 シャインはストームからもらった銃を航海服のポケットから取り出して、後部甲板の階段をほんの二歩で飛び下りると船首に向かって走り出した。


 メインマストがある中間部にきて船縁に寄ると、立て掛けられている梯子を蹴り落とし、そしてシャインの腕の太さぐらいある係留索に銃口を向ける。


 係留索はシャインの足元から5リールほど離れた前方の岩に巻き付けられて、船が海に出ないように引き止めている。


 シャインは撃鉄を起こし引き金を引いた。

 破裂音と硝煙の臭いが辺りに広がり、撃ち抜かれたロープが生き物のように一度大きく跳ねた後、どさりと舷側から滑り落ちて海中に沈んでいく。


「ロワール! 船を動かすぞ! 俺が合図したら前に進んでくれ」


 船尾で青白く光る短剣を両手の間に漂わせたロワールがうなずいた。その背後の灰色の崖には、数人の海賊達が木々の間から長銃を構え、ロワールの放つ光を狙って発砲する様子が見える。


 ロワールは人間ではない。銃弾はその身を突き抜けていくだけだ。

 今はそのことに有り難みを感じつつも、後部甲板にはヴィズルがまだ昏倒したままだし、それに、船尾の右舷側の係留索も解かなければ船を動かす事ができない。


「シャイン! 私、船首に移動するわ。準備ができたら舵輪を握って!」


 風のようにロワールがメインマストの前にいるシャインの所へやってきた。

 飛んできたと言う方が正しい。


 海賊の一人が崖に垂らしたロープを伝って、下に下りてくるのを睨みながら、シャインは「わかった」と短く答えて、今度は右舷側から船尾へと向かう。


 崖の落とす影と夜の闇のせいで海賊達の視界はきかないだろうが、崖の上にいる彼等に一度姿を見せると格好の餌食となる。それを意識して腰をかがめ、シャインは後部甲板の右舷側の階段を慎重に上がる。


「撃て撃て撃てー! 逃がすんじゃねえぞ!」


 海賊のだみ声が上から降ってくる。流れ弾がミズンマストに当たって、振動が空気を震わせる。


 ロワールハイネス号に傷をつけるなんて耐えられない。

 シャインは崖の上から発砲する十数名の海賊に向けて撃ち返した。自分の場所が特定される恐れがあるが、係留索を切ってしまえば海へ逃げる事ができる。


 応戦によって上からの発砲が一瞬途切れた隙に、シャインは足元の係留索を最後の一発で撃ち抜いた。ピンと張り詰めていたそれが、ばしゃんと大きな音を立てて、水の中に消えた時、ロワールハイネス号がふらふらと船体を揺らし出した。

 急がなければ。急いで船を水路の中心に持っていかないと、船体を岩でこすってしまう。


「シャイン!」


 ロワールが船首の舳先の前に立ち、振り返りながら叫んでいる。

 シャインはすぐさま舵輪の前に立つと、弾の入っていない銃をその場に投げ捨て、左手で舵の柄を握りしめた。うねる海面に持ち上げられる船体が、左右2リールしか余裕がない入り江の中で不安定に動く。


「行こう、ロワール」


 シャインは前方の月明かりに輝く海を見つめた。


「それじゃあ、いくわよ!」


 ロワールの体から青白い光が、かがり火のように立ち上った。


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