3-34 残されし者達(2)


 アストリッド号とウインガード号が同じ設計図から生まれた『姉妹艦』であるように、ファスガード号とエルガード号もそうだった。


 姉の船に砲弾を撃ち込まれるエルガードの嘆き。

 軍船として妹船を沈めなければならない、自らの運命を受け入れたファスガードの悲愴な決意。



 長い、長い嗚咽と悲鳴に、気が遠くなりそうだった。

 それは炎で赤く彩られた空と闇の海で、いつまでもいつまでも響いていた。


 いっそ、あそこですべてが途切れてしまえばよかったのだ。

 人ひとり殺すだけなら、一発の銃弾で十分だ。

 船と共に海底に沈めばなおさらだ。

 けれど生き残ってしまった。


 シャインは自分を見下ろす女に向かって問いかけた。


『俺は“生かされた”のか? ウインガード? あの夜、死ぬ者と生きる者を選択した俺は何故ここにいる? 教えてくれ……』

『……』


 夜の青い闇と一体になったような美しい女――ウインガード号の船の精霊レイディは、シャインを一瞬憐憫が込められた目で見下ろした。


『その問いに私は答えられない。でも……』


 ウインガードは小さく首を振った。


『生き残ったというのなら、それは私も同じ。私もまた、ノーブルブルー最後の船になってしまったのだから』

『ウインガード……』


 ウインガードは静かに目を閉じた。

 シャインの左胸に置かれたままの手が、一瞬ぴくりと引きつる。


『あなたを通して感じるわ――初めは可哀想なアストリッドお姉様。散々屠ってきた海賊に、まさか、自分が沈められるなんて思ってもみなかったでしょうね。ファスガードはどこまでも妹思いのお人好し。ルウム艦長の死ですっかり弱気になってたみたい。エルガードは……』


 ウインガードは形の良い小さな唇を噛みしめた。


『……』

『ウインガード』


 黙ったままの船の精霊にシャインは呼びかけた。

 彼女が何を見ているのか、容易に想像できる。


『俺は……忘れない。俺が、エルガードにしたことを』


 ふわりとウインガ-ドの漆黒の髪が夜の闇を覆うように広がった。

 切れ長の銀の瞳が三日月のように細められ、ウインガードは胸の中の汚いものを吐き捨てるように呟いた。


『エルガードは……自分の末路に怯え、泣き叫ぶことしかできなかった馬鹿な子よ。でも、あなたはもっと馬鹿な人間』


 ウインガードは怖気が立つ程の冷徹な眼差しでシャインを見下ろした。


『さっきも言ったけど、誰もあなたの苦しみを助ける事はできない。けれど……』


 冷たい怒りに満ちたウインガードの表情が、ふっと穏やかな凪の海のように和らいだ。


『苦しいって、素直に言わないから苦しいのよ? たとえ神様があなたの罪を赦しても、あなた自身がそれを赦さない。良心の呵責に耐えきれなくて海に飛び込んでも、あなたの魂は絶対に救われない。死は眠りと同じ。辛い現実から目を背け、一時的に逃避するだけ』


 シャインは息を吐いた。

 唐突に何もかもが億劫になった。

 自分の置かれた状況も。

 考える事も。

 口を開く事も。

 息をするのも。


『疲れたよ。ウインガード……』

『そう。なら、休みなさい』


 だがシャインは、塞がりかけた目蓋を意志の力で見開いた。


『眠りは現実からの逃避だ』


『いいえ。あなたは逃げてなどいないわ。疲れたから休む。それはあなたの心を癒すためにも必要な事』


『いいや、きっと俺は夢を見る。闇の海を覗きこみ、この手で切り捨てた人々に沈められる夢を』


 ウインガードはそれを咎めるように首を振った。

 ゆっくりと身をかがめ、シャインの耳に唇を寄せる。


『あなたはもう選択したじゃない。その現実を抱えて生きていく事を。忘れないで。あなたを赦すことができるのは、あなたが殺した人々やエルガード達じゃない。あなた自身なのよ』

『ウインガード』


 屈めていた体を起こした船の精霊は、その姿を徐々に夜の闇の中へと溶け込ませていた。シャインはそれを目で追った。


『ウインガード、ありがとう』

『あら。何のお礼かしら?』


 甲板に届く程長い髪を右手で絡め、ウインガードが小首を傾げる。


『君が声をかけてくれなかったら、俺は多分、海に落ちていた』


 ウインガードはふっと唇を歪めて笑んだ。


『20年も私は軍艦をやってるのよ? 自殺はもとより、あなたよりずっと多くの死を見てきたわ』


 シャインは思わず息を詰めた。

 ウインガードの言葉が急にずっしりと胸の上にのしかかるのを感じた。


『すまない。そんなつもりじゃ……なかったんだが』


『いいのよ。本当の事だから。まあ、今夜はそれを見なくて済んで、ほっとしてるけど』


『そうか。じゃ、君に乗っている間は、そういうことをしないように気を付ける』


 ウインガードはシャインに向かって『馬鹿』とつぶやき、甲板に落ちるミズンマストの太い影の中へと消えていった。

 シャインはそれを見送った後、甲板に寝転がったまま、じっと夜空を眺めていた。



「俺を赦すことができるのは、俺自身……か」


 そんなことを思える日がいつか来るのだろうか。


 シャインは身を起こした。

 甲板で寝そべっている所を当直中の士官に見つかったらめんどうなことになる。

 ウインガードの言う通り、疲れたら休むのは必要なことだ。

 再び船内へ入り、士官部屋へ戻りながら考える。


 自分が今生きているのは――生かされたと思うのなら。

 成すべきことがあるからだ。

 今は生きて、成さねばならないことがあるからだ。


 脳裏にファスガード号の炎に赤く照らされたヴィズルの顔が過った。

 今、俺がしなくてはならないことは――。

 


 シャインは士官部屋の扉の取っ手に手を伸ばした。


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