3-31 選択(1)


 ◇◇◇


 気付くと俺は、暗い夜の闇に覆われた海で、ひとりボートに乗っている。

 どろりとした――それでいて滑らかな海面には、大小様々な木材の破片がいくつも浮かび、不規則な波にのってボートの船腹を叩いていく。


 俺はこんな所で、何をしているのだろう。


 右手で何故か青白い炎をあげるカンテラを掲げ、黒い闇色の海を――その薄暗い明かりではとても中を見通すことはできないが――それでも俺は、深い深い海の中を、深淵を、狂おしく覗き込んでいる。


「……か、……いな……か……」


 口の中は干涸びて喉の奥がいがらっぽい。それでもやっと絞り出した声は年寄りのようにかさついて、俺のものではないみたいだ。


「誰か、いないか……」


 俺は探している。

 波の音さえも聞こえないこの真っ黒な海で。


 何か、を。

 誰か、を。


「誰、か」


 俺はさらに船縁から身を乗り出し、カンテラを海面へと近付ける。

 滑らかな動きを繰り返す波が、ほんの僅かだけ明るさを増した。


「……」


 望んでいた声が聞こえたような気がする。

 助けを求めている、幾つものそれが。

 この暗い海に沈んだ――いや、俺が沈めるように命じた、エルガード号の生存者たちが、このボートの下の海から俺を呼んでいる。


 俺は海面すれすれまで顔を近付けた。ただの黒い闇がうごめいているような海が、カンテラの朧気な光を受けて濃紺へと変わっていくのが見える。


 青い。

 どこまでも果てしなく落ちていくような――青い深淵。


 その淵を覗き込んだ時、俺は左手を伸ばしていた。

 助けを求めるその白い腕を掴もうとして――。


 ボートへ引き上げようとしたその手は、いつしか俺の航海服の襟を掴み、音も無く一気に海中へと引きずり込んだ。


「やめろ。俺は君を助けたいんだ」


 だが俺の航海服の襟を掴む、目の前の青ざめた顔は、真っ赤な口腔を開けて微笑した。


「だったら何故助けにこなかった。何故、俺達を砲撃したんだ」


 何故?

 なぜ?


 底などあるのだろうか。一辺の光すら射さない闇の中で、俺はただ、落ちていく。身を切るような水の冷たさに手足の感覚はすでに無く、息も続かないというのに、意識だけは異様にはっきりとしている。

 俺の体から手を離さない、青ざめた顔の男が耳元で囁いた。


「お前は選んだのさ」


 ――選ぶ?


「そうだ。お前は、生きる者と死ぬ者を選んだのだ」


 ――それは……。


「お前はファスガード号の者達を生かすために、俺達、エルガード号を見捨てた」

「見捨てたんだ。俺達を」


 別の白い腕が現れた。俺は思わず辺りを見回した。

 顔、顔、顔――。

 闇の中に浮かび上がった幾つものそれが、俺を取り巻きじっと見つめている。


 ――俺が、選んだ。


「そう。俺達をここに沈めたのはお前だ。シャイン」


 背後から誰かが俺の腕を掴む。足を掴む。

 もうあの青色すら見えない闇の底へと引っ張っていく……。



 ◇◇◇



 シャインは息を詰めた。

 肺が押し潰されそうな程の息苦しさを感じ、夢中で空気を求めた。


 けれど、口を開けば大量の海水を飲み込んでしまう――。

 それに気付いた時、シャインはぼんやりとした橙色の光を放つ角灯の明かりを見上げていた。


 船の梁にぶら下がった黒い鉄の角灯は、ぶらぶらと右へ左へ揺れながら、壁際に吊り下げられたひと組のハンモックを弱々しく照らしている。


 ハンモックにはファスガード号で負傷したジャーヴィスが、暖かな毛布に首までくるまり深い眠りに落ちている。


「……」


 シャインは大きく息を吐いた。

 何時から息を止めていた?


 寝汗に濡れる額を拳で拭い、机代わりにしていた小さな木箱から、のろのろと重い上半身を起こす。ジャーヴィスの頭上で瞬く角灯がジッと音を立てた。


 小さな蝋燭が一つだけ灯されているそれが消えていないことから、眠っていたのは三十分にも満たなかったようだ。


 体にまとわりつく泥のような疲労が、少しも消えないのはそのせいだろう。

 シャインは目を伏せ小さく唇を噛んだ。






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