3-25 決断

 空気を震わせながら重々しい砲声が聞こえる。

 それは一斉にまとまって放たれているのではなく、単発的に聞こえることから、エルガード号の統率はあまりとれていないのかもしれない。


 シャインは躊躇ちゅうちょしなかった。

 ジャーヴィスが何を言おうとも。


 床に膝を付いてジャーヴィスの上半身を起こし、その右腕をつかむと自分の肩に回す。最悪の場合ファスガ-ド号は沈む。

 ジャーヴィスをここへ残す事などどうしてできよう。


「艦長……あなたは成すべき事が、あります。だから……」


 耳元でやっと聞こえるぐらいの声がする。

 シャインは唇を噛んで目を伏せた。


 身を振りほどこうとするつもりなのか、掴んだジャーヴィスの右手がゆっくりと空をかく。背中の傷のせいで息をするのも苦しいだろうに。


「黙っててくれ、お願いだから!」


 叱咤するように言ったシャインは、ジャーヴィスの肩を担いで、ゆっくりと立ち上がった。だが力の抜けたジャーヴィスの体重が一気にかかってきて、それを支えきれなくなったシャインは、右前方に体勢を崩し倒れかけた。


「――っ!」


 ガラス片を踏み砕きながら部屋の壁に右肩を押し付け、かろうじて寄りかかる。

 倒れずに済んだ事に大きく安堵の息を吐く。

 額に汗が浮いて、濡れた前髪が貼りついている。


 息を整えながらシャインは顔を上げた。

 ジャーヴィスを担いで上甲板まで行くのは重労働になりそうだ。

 けれど。


「……君は、俺に、言ったじゃないか」


 シャインは体勢を立て直し、ジャーヴィスを抱えたまま一歩ずつサロンの出入口へ近付いた。砲撃の衝撃で扉は部屋の外に向かって半開きになっている。


「可能性があるかぎり、誰も、失いたくないと……」


 ぐっと手を握りしめるジャーヴィスを意識しながら、シャインは肩で扉を押し広げ、ようやくサロンから出た。


 とたん硝煙の臭いが鼻に付いて、のどがいがらっぽくなる。息も苦しい。船内の天井につりさげられていたランプの灯りは消えていて辺りは真っ暗だ。


 けれど甲板へ出るための階段は、目の前にあることをシャインは覚えていた。

 薄くたちこめる煙と闇に目は慣れてきたし、見つけるのは容易かった。


 青白い月明かりに照らされたそれは、気力が萎えてしまうほど急勾配で、シャインは流れてきた汗に目をしばたいた。

 だがここを上がらなくては甲板に出る事ができない。


「ジャーヴィス、もう少しだけ辛抱してくれ」


 木が燃えるような臭いと煙に咳き込みつつ、シャインはジャーヴィスの体を自分の背中に回した。


 だらりと垂れてきた冷たい両手をしっかりと握る。

 人一人が通る幅しかない階段を上るには、こうするしかない。



「……あの子を沈めるの? そして私も」


 階段に足をかけようとした時、静かな声が辺りに響いた。

 どちらかといえば、とがめるような感情の、冷たい、女性の声。


 シャインは何も答えず頭を垂れた。

 船の精霊と話ができる自分を、この時ほど恨めしく感じながら。


 話しかけないで欲しかった。

 そうすれば、ただの“物”として扱えたのだ。

 エルガード号とファスガード号を。


「エルガードが、姉であるあなたを砲撃しています。勿論それは、エルガードが海賊に奪われてしまったせいです。しかし……」


 しかし、とシャインは口の中で再度つぶやいた。

 ゆっくりと顔を上げて、階段を睨みつける。

 いくら睨みつけても、頭の中で内なる自分がそっとささやく。


 ――認めたらどうだ。

 悩んでいるふりをしていても、お前は船を沈めるつもりなのだ。

 人は万能ではない。何かを生かすには、別の何かを見捨てなければならない。

 ――でなければ、全てを失ってしまう。


「エルガードに……どれだけ海軍の人間が残っているでしょうか。このファスガード号の人間も、本当に信じられるのか……俺には分からない。だから」


「――行って頂戴。早く」


 再び響いた女性の声に、シャインは思わず息を詰めた。

 できれば船を沈める事を回避したい。そしてエルガード号を取り戻したい。


 しかし悲しいかな、海軍に在籍して七年たつが、こんな海戦を体験するのは初めてだ。しかも相手は1等軍艦アストリッド号を沈めた連中で、どうやらエルガ-ド号にも紛れ込んでいたのだ。


 自分には船を取り戻す手立てなど思い付かないし、そんな余裕もない。

 できることといえば、ファスガード号がやられる前に、海賊もろともエルガード号を沈めることだ。



「あの子、泣いてるの。私達を助けられないなら、早く終わらせて……」

「ファスガード……」


 心境を見抜かれて、シャインは自らの傲慢さを思い知った。

 船の精霊に嘘をつくことはできない。


「すまない。せめてラフェール提督や、ルウム艦長がいたら……君達を失わずにすんだはずだ。俺があの人達の代わりになればよかった」


「そんなこと――言ってはだめ。あなたはあなたのできることをすればいい。私は、できるだけ長く浮いていられるようにがんばるから」


 船の精霊――ファスガードの声はとても穏やかで優しかった。

 シャインは背負っているジャーヴィスの苦し気な息遣いで、はっと現実に返った。


 ファスガードの気配はどこかに消え失せてしまった。

 自分の運命を悟り、納得していったのだ。

 それを思うと胸が痛んだ。

 せめてルウム艦長がいてくれたら――。


 シャインはジャーヴィスの体をそっと揺すって、ずり落ちないよう支えながら階段に足をかけた。曲げた背中が重みにきしんで、歯をくいしばる。


 つかんでいるジャ-ヴィスの右手から、階段を登る振動で、一筋の赤い雫が手に伝ってくる。早く甲板へ出て、軍医に看てもらわなくてはならない。


 その十段を上がることが、どれほど長く感じられただろう。

 最後の一段を登りつめ、シャインは崩れるようにその場へ膝を付いた。

 左手で何とかジャーヴィスを支え、右手で開け放たれた開口部の扉にすがる。


 甲板は船内と同様に火薬と硝煙の臭いがしたが、吹き込んでくる風は新鮮な空気を運んでくれた。


 大きく乱れた息を整えつつ、シャインは背負っていたジャーヴィスを、その場に横向きに寝かせて様子を見た。弱い月の光に照らされたジャーヴィスの顔は依然蒼白で、浅い呼吸を繰り返している。


「ジャーヴィス……」


 大きな破裂音と共に、目の前のミズンマストに張っていた縦帆へ、砲弾が突き抜けて穴を開け、海へ落ちていった。


 右舷の方向を見ると、ファスガード号の姉妹艦であるエルガード号が、左舷船腹をこちらへ向けて漂っているのが見える。


 停泊灯は一切ついておらず、黒い船の影だけしか見えず、甲板の様子がまったくわからない。



「グラヴェール艦長! ここにいたんですか。ラフェール提督は? ルウム艦長は!」


 大きな体を揺らし、息せき切ってシャインの前に駆けてきたのは、ファスガード号副長のイストリアだった。


「だ、大丈夫ですか? その格好……」


 イストリアが絶句したように自分を見るので、シャインはその時初めて、自らが汗と白い埃にまみれた姿に気付いた。


 けれどそれに構う事なくシャインは立ち上がった。

 無意識に、目に入る前髪をかき上げる。

 何故こんなに落ち着いていられるのか、自分でもよくわからなかった。


「二人とも……亡くなられた。サロンが被弾して」

「――そんなっ!」


 イストリアは茶色い目を丸くして、しげしげとシャインの顔を見つめた。

 その瞳の中に隠しきれないほどの不安が見える。

 当然だろう。

 不意打ちの上、上官も死んでしまった。


「軍医はどこです? ジャーヴィスが負傷したんだ。早く手当をしなければならない!」


 シャインはイストリアに詰め寄った。

 だがイストリアは冷たい瞳で首を横に振った。


「二度目の砲撃で三十人ほどやられましてね。下は大忙しだ」

「……」


 まるで他人事のように言うイストリアの態度に、シャインはいら立ちがつのってくる自分をなんとか抑え込んだ。


 ジャーヴィスだけではない。この状況が長引けば負傷者は増える一方だ。

 シャインは左腰に携えたラフェールの細剣の柄を、ぐっと握りしめた。


「ルウム艦長もいないなら、早くここから逃げるしかない。エルガードもアストリッドと同じように乗っ取られたんだ。くそっ、提督の言う通り、アストリッドの生き残りを全部エルガードに乗せて正解だった」


 イストリアは吐き捨てるように言うと、きびすを返し、後ろの船尾楼に上がるため、左側の階段へ向かおうとした。


「イストリア大尉」

「なんです?」


 シャインはラフェールの細剣を抜き放つと、青白い刃をイストリアに向けて突き付けていた。

 振り向いたイストリアは、それに驚きごくりと喉を鳴らした。


「なっ! なんのつもりだ! まさか、あんたも……!」

「違う。だけど、本船は今から俺が、指揮させてもらう」


 感情を凍りつかせた瞳で、シャインはイストリアを見据えた。


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