【幕間2】 船霊祭 -陸に上がった人魚-

 息苦しい。

 誰かが背中に覆い被さって、ロワールの首を締め付けているような。

 そんな重苦しさに、今にも潰されてしまいそう――。


『私は、あなた達の邪魔をしようとしたんじゃない――私は』


 鐘のように鳴り響く財閥令嬢の声を聞いた時、ロワールはそれに耐えられず、踵を返し、出口めがけて走り出そうとした。


『待ってくれ、ロワール!』


 その肩をつかむように、そして自らの胸に引き寄せるように、追いかけてきたシャインの心の声がロワールを呼び止める。


 同時に背中に重くのしかかっていた――スディアス財閥令嬢の、嫉妬に満ちた暗い想いが煙のようにふっとかき消えた。


 いや、彼女の想いは確かにロワールを押し潰さんばかりに放たれているのだが、シャインの声を聞いた途端、いつもの間にか彼の腕の中で、その暖かさに包まれているような気がしたのだ。


『ここにいてくれ。君の所へすぐに行くから――』


 心に響くその声は力強くて明瞭だった。まるですぐ隣に彼が立っているみたいに。

 これほどまで間近で聞こえるシャインの声に逆らい、大広間を立ち去ることなどどうしてできよう。できるはずがない。


 ロワールは出入口の扉の前で立ち止まり、両手で己の肩を抱くと大きく息をついた。シャインの声で思わず足を止めたが、振り返る勇気はない。


 振り返ればあの財閥令嬢の、心を凍り付かせるような恐ろしい視線が、身を切り裂くような鋭い声が、まだ背後から放たれているような気がしてならない。

 それがとてつもなく恐ろしい。


「黙っていらっしゃいますけど……お認めにならないのですか?」


 スディアス財閥令嬢が、とげとげしい口調でシャインに詰め寄るのがわかる。ロワールは肩を抱く手に力を込めた。様子を目にすることはできないが、気配でわかる。


 シャインのことを意識すればするほど、ロワールは自分の感覚が研ぎすまされ、数リール離れているというのに、彼等の会話が聞き取れるのを感じた。


「いえ、あなたの仰る通りです。俺は彼女に気を取られました」


 答えたシャインの声はとても落ちついている。

 どんな非難も受けようと腹をくくったのだろうか。


「ですが、そこにどんな理由があったとしても、あなたとのダンスを中断した俺の非礼は、許されるものではありません。それは重々承知しています。ですから、俺にはもう――あなたの相手を務める資格がありません」


 はっと財閥令嬢が息を飲む小さな声が聞こえた。

 公衆の面前で、ダンス中に転んでしまった失態を披露したことに、ただならぬ怒りで一杯だった彼女の感情が、燃え尽きるろうそくのように、みるみる消沈していくのがわかる。


「シャイン様。私は、そんなつもりでは……!」


 すがるような財閥令嬢の細い声。


「いいえ」


 シャインの淡々としたそれが、彼女の思いを突き放すように答える。


「俺はそれだけのことをしてしまったのですから。本当に申し訳ありませんでした。それでは、これ以上あなたにご迷惑をかけないよう、今宵はこれにて失礼いたします」


「あっ、あの……!」


 一礼してから、戸惑うスディアス財閥令嬢の声を振り払うように、シャインが出入口の扉へと向かう気配がする。


『ロワール、外に出て。すぐに行くから』


 背中を押すように、同時にシャインが呼びかけてきた。


『う、うん』


 ロワールは一瞬びくりと体を震わせて、そして肩から両手を振りほどくと目の前の出入口から廊下へと出た。あたふたとよろめきながら。

 緊張のせいか上手く両足が動かない。

 ぎしぎしと関節の音がしそうなくらい足の筋肉が引きつって、がくがくと膝が震えている。


「どうして、私がこんな目に……」


 急に腹立たしさを覚えつつ、一息つこうと思って、ロワールは廊下の左端に寄り、壁に支えを求めるように手をのばした。


「きゃあっ!」


 たわむドレスの裾と上手く動かない足のせいで、ロワールは体が前に倒れるのを感じた。前に右足を出したつもりだが、出ていなかったらしい。左足がひきつって、右足と絡まったようだ。


 青い絨毯の床がみるみる眼前まで迫り、ロワールは両手を突き出して、なんとか顔面からぶつかるのだけは避けようと、それだけを思った。


 ただでさえ子供っぽいだのガキだの言われるのだ。床に顔をぶつけてこれ以上ひどい有り様になったら、いくらシャインでも大笑いするに違いない。


「……あれ……?」


 だが何時まで待っても床にぶつかる痛みは感じない。

 ロワールは我に返って両目をさらに見開いた。


「今日は俺に関わると、みんな転んでしまう日なのかな?」


 その代わりため息をつきながら、冗談とも本気とも言えない声がささやいた。

 すぐそばで。


「そうよ、みーんなシャインのせいよ!」


 ロワールは身をよじった。シャインが彼女の腰に腕を回し体を支えてくれている。それに安堵を覚えつつも、ロワールは自分の顔を覗き込んでいるシャインをにらみつけた。


 シャインの首筋に手を伸ばし、細身だがひきしまった体躯を感じられる彼の胸元へ額を寄せる。


「シャイン、私……私……」

「驚いた。やっぱり本当にロワールなんだ」

「――なんですって?」


 シャインの言い方にむっとして、ロワールは顔を上げた。 

 ランプの光でほのかに輝く金色の前髪が揺れて、その間から青緑色をした鋭い双眸と、薄く結ばれた唇が笑みを形作った。


「立って。ここではちゃんと話ができない」

「あっ、シャイン」


 ロワールはシャインに支えられて何とか両足を踏みしめた。すると今度はシャインの左腕が伸びてきた。


「君の腕を俺の腕にかけるんだ。これで君を支えられる」

「う、うん」


 ロワールはシャインに言われた通り、彼の左腕に自分の右腕を回して顔を上げた。シャインはゆっくりとうなずき、


「じゃ、歩くよ。この先に落ち着ける部屋があるんだ。そこで事情をきかせてもらおうじゃないか」


「あ、ちょっと! シャインったら」


 シャインが濃紺の絨毯がひかれた廊下を歩き出す。ロワールはその腕にすがりながら自分の足を動かした。初めはやはりぎすぎすして上手く歩けなかったが、今は自分一人ではなく、隣にシャインがいて支えてくれることを意識した途端、胸の中一杯に安堵感が広がり、気持ちにゆとりを感じることができた。


「上手いぞ。もう一人で歩けるんじゃないか?」


 大広間へと続く廊下を歩き、下のエントランスホールへ降りる階段の近くまで来てシャインがそう言った。


「いや、やめて。手を離さないで。まだダメよ」


 ロワールはひしとシャインの腕にすがった。

 シャインはやれやれと肩をすくめ、ロワールを伴ったまま階段へと近付く。


「船から出てきた君は、陸に上がった人魚みたいだ」


 ため息混じりに出てきたシャインの言葉に、ロワールは眉をしかめた。


「人魚――? 何、それ」


 シャインは戸惑ったように、視線を虚空へさまよわせた。


「上半身は女性の体で、下半身は巨大な魚の尾を持つ種族さ。今もどこかの海にいるらしいけど」


「シャイン。私はお魚じゃないわよ。言っとくけど」


 ロワールは大真面目でシャインの顔を見上げた。だが彼は困ったように、ロワールの視線を受け止めて小さく笑っただけだった。


「それで、どこに行くの?」

「この階段を上がったらすぐさ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る