3-8 夜道と酒ビン

 東の中空には真円に近い形の双月が昇っていた。

 銀色の月<ソリン>と、それよりひと回り小さい、金色の月<ドゥリン>。

 かの月から注がれる光は、地上の闇の深さを思い知らされる程、鋭く澄んだものであった。


「……だからおかにいると、ロクな目に遭わないんだ……」


 酒場の前を通った事に悔やみつつ、シャインは人通りの絶えた路地を歩いていた。

 この辺りは商船の倉庫が一様に建ち並んでいる。

 古都アスラトルらしく、外観は民家のように美しいレンガ造りだ。


 夜になれば当然人の出入りがないので街灯もない。

 今夜のように兄弟の月が出ていなければ、自分の両手を見る事もできない程の暗い道だ。


 ただ、間借している部屋への帰路には一番近い路地だった。そこをまっすぐ行けばいいのだ。そうすれば大通りへ出られる。


 闇のトンネルの出口を示すように、道の前方には、大通りの街灯のぼんやりとした光が瞬いていた。

 シャインの足は自然と早まった。

 大通りの光はほっとする暖かさがあった。


 コツコツコツ……。

 暗闇に目が慣れてきたせいで、シャインは前方からこちらへ来る人影に気がついた。大通りから来てここを通るということは、例の酒場(青の女王)亭にでも寄るのだろう。他にめぼしい盛り場はない。


 そう思った時、シャインは背後から迫る足音を聞いた。

 どんなに忍ばせても柔らかい皮靴でもない限り、靴音を消す事は不可能だ。


 振り返りざまに、シャインは体を倉庫の壁際へ引いていた。

 闇を切り裂くように、月光を受けた白い閃光が尾を描いて顔の横をすりぬけていく。


 ばさっと重たいマントの翻る音がして、背後から襲ってきた人間は、何者だと問う暇もなく、再び手にしたナイフで斬り付けてきた。


 壁を背にしていたシャインは、すかさず身を沈ませてそれをかわした。

 頭の上で火花が散り、ナイフが壁を抉る不愉快な音が辺りに響く。

 シャインは片手を地面について体を一回転させ、相手との距離を広げた。



 背の高い……知らない男だ。

 フードのついた黒いマント姿で、暗いせいで顔も見えやしないが、背格好から男だというのはわかる。


 シャインは内心嘆息した。

 自分としては平穏に生きてきたつもりなのだが、今回は襲われる理由が何となくついている。

 

 次の攻撃に備えようとシャインが立ち上がった時、先程大通りから来た人間が、平然とこちらに歩いてくるのが見えた。


 気付いてないのか?

 近付けば巻き添えにしてしまうかもしれない。


「止まれ! こっちへ来るな!」


 シャインが近付く通行人へ叫んだ時、襲ってきたマントの男が、ナイフを再び振りかざした。


「……くっ!」


 閃光のような銀の光がシャインの目に飛び込んだ。

 月の光がナイフに反射したのを直視してしまったのだ。

 男が近付いたらそれを蹴り落とそうと間合いを計っていたせいだ。


 シャインは目を開いたが、すっかりくらんでしまって、周りが何も見えない事に焦った。咄嗟に踵を返し、前方へ向かって駆け出す。


 狙われているのは自分だ。

 だから自分さえこの場から離れれば、通行人を巻き添えにすることはない。

 それにまだ多くの人がいる大通りへ出れば、なんとかなる。


「……うわっ!」


 足に何かが当たって、シャインは容赦なく前方へ倒れた。

 反射的に受け身を取ろうとしたが失敗に終わった。

 固い路面へ肩から落ちて、鈍い痛みが全身を走る。


 カツカツカツ……!!


 男のブーツが、迫り来る死の足音のように、背後から響いてくる。倉庫のレンガに反響させながら。


 真の闇の中でシャインは倒れたまま身を縮め、じっと耳をすませていた。

 その瞬間を。

 マントが風をはらんで、バサバサという音を聞き、握られたナイフが風を切る音を――。


 ただでやられるつもりはない。

 体に突き立てられる前に、腕のひとつを犠牲にして、必ず反撃してやる。

 シャインは右手をぐっと握りしめた。


 来るであろう一撃に――その瞬間を見極めるために全身を耳にして。

 男の口からもれる息が聞こえた。

 そして。


 ガシャ―――ン!!


「……がぁっ!」


 驚きの混じったうめき声がしたかと思うと、何かがシャインのすぐそばをかすめて倒れてきた。




 何だ? 何が起こっている?

 シャインは目を開いても依然周りが見えない事に歯ぎしりしつつ、そっと右手を伸ばして倒れてきたものの正体を突き止めようとした。


 柔らかな布の感触がする。……おそらく、襲ってきた男のマントだ。

 やがてそれは何か固いものに触れた。

 多分、男の肩。強靱そうに見えたが、意外に鍛えた体つきではない。

 男の首筋に手を伸ばした時、シャインは意図していたものを見つけた。



「おい、大丈夫か?」


 声がした。上の方から。

 流暢だが、不思議なイントネーションのエルシーア語だ。

 エルシーアの東方に位置する大陸、<東方連国>系の人達が話すそれに似ている。

 声の張りからして、おそらく若い男だ。

 力強い手が肩にかけられたかと思うと、声をかけてきた人物は、シャインが身を起こすのを手伝ってくれた。


「ありがとうございます」


 シャインは礼をのべつつ、まぶたをさすった。

 ……やはり、まだ見えない。


「どなたか存じませんが……もう大丈夫です」

「そうかい? ヤバそうだと思って来てみたんだが、その通りだったな」


 先程前方から来た、通行人が助けてくれたのだ。

 皮肉な事に。


 シャインは倉庫の壁に手をついて、それを頼りに大通りへ出ようと思った。

 だが伸ばした左手は空をかいた。


「あんた……目が?」


 男の声は心配げだった。


「月光を反射した光を見てしまったので、目がくらんだだけなんです。しばらくしたら回復するでしょう。借りている部屋もすぐ近くですし、お気遣いなく」


 これ以上どこの誰かともわからない人間に、迷惑をかけたくない。

 記憶では、あともう少し左へ寄れば倉庫の壁があるはずなのだ。

 シャインが再び左手を伸ばそうとしたとき、男がすっと手首をつかんだ。


「連れていってやるよ」

「……えっ?」


 男はシャインの手を自分の右肩へのせた。

 ひやりとする冷たい皮のジャケットの感触がする。

 そしてかすかな――なじみのある潮の香りが。


「家、近くなんだろ? あんた殺されかけたんだぜ? さっきの奴は持ってた酒ビンでぶん殴ってやったが、いつまた襲われるかわからない。ついでだから、戸口まで連れていってやるぜ」


 不安だったのはいうまでもない。

 時がたてばいずれ視力は回復する。けれど、夜の闇ではない真の暗さの中に一人取り残されるのは正直……怖かった。


「ありがとうございます。それじゃあ、お願いします」


 シャインは男の好意に不本意ながら、甘える事にした。


「それより、こいつどうする? 憲兵に引き渡すか?」


 男は持っている紙袋らしきものを、がさがさといわせながらシャインに聞いた。

 よくわからないが、足元に倒れた例の男を、つま先でつっ突いているようだ。


「放っておいていいでしょう」

「放っておくって――いいのか?」


 信じられないという声色で、男がため息をつきつつ言った。


「見当はついているんでね……さ、行きましょう」


 シャインは男に歩くよううながした。





 数分後、二人は街灯の立ち並ぶ大通りへ出ていた。

 シャインはおぼろげに、その暖かな光を感じていた。

 暗い霞の中から、うっすらと建物の輪郭が見える。


「ここを……右に入って下さい。街灯の下に、花の植え込みを両脇にはさんで階段があります。その建物の所まで……」


 男はシャインに合わせてゆっくりと歩いてくれた。

 何度かまばたきを繰り返し、シャインはようやく視力が戻ってきた事を実感した。

 街灯の黄色い光に照らされて、色とりどりの花が植えられたプランターが見えたからだ。情けないがほっとした。


「すみません。やっと目が見えるようになりました。結局、戸口まで連れて来てもらいましたが……」

「そいつはよかった。俺はぜんぜん構わないがな」


 シャインは首を左に向けて、今まで自分を導いてくれた男の顔を見た。

 まるで月の光を集めたような長い銀髪をなびかせた、精悍な顔立ちの青年だった。

 褐色の肌が夜の海のような双眸をくっきりと際ただせ、その光はとても思慮深かった。

 口調が幾分軽かったせいか、遊び人風を想像していたシャインは、意外にもたくましい風貌の男に、少し驚きを隠せずにいた。


「じゃ、夜道を歩く時は気をつけろよ、軍人さん」


 大きめの口をにやりとさせ、流れるような銀髪をひるがえした男は立ち去ろうとした。


「あの、すみません」


 シャインは男を呼び止めていた。

 銀髪の男はけげんな顔をして振り返った。


「―――酒ビンで殴った、って言ってましたよね。台無しにしてしまって、申し訳ありません」

「あ? ああ……こんなもので人の命が助かるなら、惜しくも何ともないぜ」


 つり目気味の男の目が細くなって、そこには人なつっこい微笑が浮かんでいた。


「あの、弁償します。高いものだったんでしょう?」


 シャインは懐から金の入った小袋を取り出した。

 とたん、男はさも可笑しそうに大口を開けて笑い出した。


「ははは……そんなもんいらねえよ。俺は見た通りのしがない一般人だ。あんたの飲むものよりずーっと安いものだから、気にしないでくれ」

「ですが……」


 と、その時、銀髪の男の腹がぐうと鳴った。


「…………がぁっ! 腹の虫が催促してるぜ。悪いな、早く今日の宿を見つけてメシを食いたいんだ。じゃ、俺はこれで」

「あの、よかったら一晩泊まっていかれませんか?」


 シャインは自分でも何を言い出すのか、驚いていた。

 まだ知り合ったばかりだし、相手の名前も知らない。

 けれど。


「命を助けていただいたのに、何もお礼ができないのが心苦しくて……」


 シャインは眉をしかめてうつむいた。

 そんな風に感じるのは、普段、人から何かをしてもらうことに慣れていないからだろう。きっと。


「――いいのかい?」


 男は心からうれしくてたまらないようだった。

 シャインより五つは年上だろうに、その顔は無邪気な少年のようだ。


「正直いうと何か食わないことにはもう動きたくない心境でね。ほんとにいいんなら、すごくうれしいぜ」


 男は物欲しそうに、右腕に抱えた紙袋の中をのぞいた。


「ええ、どうぞ。夕食なら俺もまだなので、間借している家主に食事を頼んでいるんです。温かいものをご馳走できると思います」

「そいつはいいな」


 ……ぐう。


 男の腹がまた鳴った。

 彼は気恥ずかしさもあってか、シャインから視線を下に落とした。


「すまん、節操のない腹で」

「いえ……早く満足させないと可哀想ですね」


 男はやれやれと首を振り、すっと紙袋を持っていない左手を差し出した。


「俺はヴィズルだ。一晩やっかいになる。よろしくな」


 シャインは差し出された手を握った。


「……シャインです。大したもてなしはできませんが、どうぞ」


 握手を交わし、シャインはヴィズルを玄関へ招き入れた。


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