3-1 風の報せ

 風が優しくささやいた。

 アスラトルのエルシーア海軍省内にあるアドビス・グラヴェールの執務室。その奥の控えの間で<海原のつかさ>リオーネは、じっと風の報せに耳をすませていた。


 彼女が腰を下ろしている椅子は、黄昏の光が差し込む出窓の前に置かれている。

 リオーネは密やかに届くその声を一言も漏らすまいと、目を閉じて神経を集中させた。だが言葉の乗った風は、彼女の白金プラチナに輝く髪を撫ぜる様に通り過ぎると突然止んでしまった。


「……ああ、どうして……」


 リオーネは唇を震わせながら、胸の前で組んだ指にぐっと力を込めた。


「何かあったのか?」


 リオーネは瞼を開き顔を上げた。アドビスの執務室と控えの間を繋ぐ扉が開き、部屋に入ってきたのは黒い将官服姿のアドビスだった。


 リオーネは静かに立ち上がり、黙ったままアドビスを迎えた。

 四十を半ば過ぎたアドビスは将官の中でも若い部類に入るが、三十年という長きに渡る海軍生活――今も参謀司令官という立場でなければ海賊討伐のため自ら軍艦に乗り込んでいるだろう――そのせいで、実年齢よりも一回り年経た印象と、他者を容易に近寄らせない威厳に満ちた眼光をしている。

 

『エルシーアの金鷹』。

 彼の金色の獅子を思わせる髪と、海賊船を次々と捕らえ拿捕だほ賞金を稼ぐその様を皮肉って呼ばれたアドビスの『二つ名』は、今もエルシーア海にいる海賊達は元より、海軍省の高官達にも恐れられている。

 だがリオーネは知っている。それが本来のアドビス・グラヴェールという人物の姿ではないことを。

 リオーネの佇む出窓までやってきたアドビスは、他者へは滅多に見せない――けれどリオーネを気遣うように眉間をしかめていた。


「悪い知らせだな」


 リオーネは黙ったまま頷いた。

 今しがた風が届けたそれが間違いだったらどれほどよいだろう。


「『ノーブルブルー』に同行している、<海原の司>ハスファルから定時連絡をもらった所です……」


 何とかそこまで声は出せたが、リオーネは高まってきた感情を抑えるため唇を噛みしめた。


 この世には『術者』と呼ばれる不思議な力を使う者がいる。

 リオーネやハスファルは風を自在に操ることができる。『術者』は互いの想いを風に乗せて言葉として伝えることができる。

 重要な任務へ向かう艦隊には必ず『海原の司』が同乗し、アスラトルの海軍本部と密にやり取りをするのだ。


「……ハスファルは何と?」


 ややかすれ気味のアドビスの声に、リオーネは少しだけ落ち着きを取り戻した。

 今はアドビスの側近としての役目を果たさなければならない。

 悲しみに浸るのは後にしなければ。


 ひと呼吸するほどのちょっとした間の後。

 リオーネの薄く紅をひいた唇が、ゆっくりと開いた。


「『ノーブルブルー』の旗艦アストリッド号が――先程、沈められました」


 アドビスの青灰色の瞳が、一瞬フクロウのように大きく見開かれた。


「アストリッドが? あれはふるい艦だが砲100門の一等軍艦だぞ」


 アドビスが驚くのも無理はない。アストリッド号の初代艦長はアドビスが務め、多くの海賊船を海の藻屑にしたのだ。その時リオーネも『海原の司』として同乗していた。もう十年以上も昔のことだが。


「ハスファルの言う事には……指揮をとっていたラフェール提督は、怪我をされたもののご無事だそうです」


 アドビスが安堵の息を漏らした。


「そうか。ラフェールとは長い付き合いだからな。彼が無事なのは良かった」


 アドビスの声を聞きながら、リオーネは目に溢れた涙がすっと頬を伝うのを感じた。


「どうした、リオーネ。大丈夫か?」


 アドビスの大きな手がリオーネの両肩に載せられている。リオーネはほっそりとした自らの手をそれに重ねた。他者へ関心を持たない男と言われて久しいアドビスだが、二人だけの時は昔と同じように接してくれる時がある。


 今はそれがありがたかった。

 そうしなければ悲しみに溺れそうになる。


 ハスファルの最後の言葉は死に際の彼の感情も相まって胸が張り裂ける思いだ。

 だから『念話』は信頼できる相手としかできない。安易に自分の心を他者へ明け渡すことはできない。

 感情に引きずられると『自分』を見失い、最悪、廃人になってしまうという危険があるからだ。


「大丈夫です。ちょっと……動揺しただけです。ハスファルの死に――」


 アドビスは小さく嘆息して額に手を当てた。


「なんてことだ。船は代わりをいくらでも造れるが、優秀な<海原の司>は、そういうわけにはいかん。ハスファルが死んだとは……」


 リオーネに心の揺らぎを悟られるのを恐れるように、アドビスは西日が射す出窓の方を向いた。その横顔は落ちる影の濃さも相まって、厳しいものに変わっている。


「リオーネ、それでアストリッド号を沈めたのは何者か、ハスファルは言っていなかったか?」

 

 両肩に載せられたアドビスの手に自らの手を置いたまま、リオーネは彼の青灰色の瞳をひたと見据える。


「名前を伝えてきました」

「それは」

「アストリッド号を沈めたのは――『月影のスカーヴィズ』です。あなたが二十年前に殺した――女海賊の」


 リオーネを見下ろすアドビスの顔には、明らかに動揺が浮かんでいた。


「馬鹿を言うな。それはありえない!」


 リオーネは静かに首を横に振った。


「ハスファルははっきりとそう言いました。スカーヴィズ、と。そう名乗ったと。彼女が生きていたかどうかなど私にはわかりませんが、アストリッド号が沈み、ハスファルが死んだのは事実なのです!」


 アドビスはリオーネから離れ、出窓の縁へ両手を付き、黙ったまま睨むように港を見つめていた。リオーネもそれ以上口を開こうとしなかった。

 胸の内から溢れる暗い感情に沈まないよう、必死に耐えていたからだ。


 風を操り、風に言葉を乗せて飛ばせる<海原の司>になって二十年。

 ハスファルは彼女にとって一番の弟子であり、弟のような存在だった。

 目を閉じると彼の声と共に、そのくったくない笑顔が見えるような気がした。



「あれは……」


 ぼそっとつぶやいたアドビスの声につられてリオーネは顔を上げた。

 窓の外を見ると、西日に帆を黄金色に染めた一隻の縦帆船スクーナーが、静かに港へ入ってくるところだった。

 碧海色の船体が鮮やかな三本マストの小型船は、リオーネにとって大切な人が乗っている船だった。


「ジェミナ・クラスから帰ってきたようだな」


 厳しい表情のアドビスの目元が、一瞬だけ穏やかになった。

 名は呼ばなかったがアドビスにもあの船が、シャインの乗るロワールハイネス号だというのがわかっている。リオーネはアドビスの隣に並び、ロワールハイネス号に視線を向けた。


「あの子は本当に風を読むのが上手だわ。姉さんの“術者”としての力は受け継がれなかったけれど、才能という形で現れたのね」


「それが残念といえば、残念だな。術者として生まれてくれば、もっと海軍での利用価値があった」


「アドビス樣!」


 リオーネは眉間を寄せ、その美しい顔をかげらせた。


「我々“術者”は、己の信望する『神』と自らに課した誓約を守ることで、それに見合った力を奮えるのです! シャインにその力があったとしても、必ずしもあなたの思い通りに使う事はできません。姉……リュイーシャはそのせいで命を落としました。私は、あの子をそんな目には決して――!」


「すまぬ、リオーネ。忘れていたわけではない」


 アドビスは慌てて弁解するように頭を振った。


「ハスファルを失ったせいで……つい、シャインが術者であれば、と考えてしまったのだ。きっとリュイーシャ以上の<海原の司>として、活躍できるのではないかと……な」


 リオーネは寄せていた眉間を緩め、もとの穏やかな表情に戻った。


「アドビス樣、あなたはこのエルシーア海軍のために、心血を注いで仕事に取り組まれています。大変立派な行為だとは思いますが、その前にあなたも一人の子を持つ親なのです。その子供に敢えて苦痛を与える生き方をさせるなど、私には考えられません。少なくともリュイーシャは、シャインが術者として生まれなかったことを、喜んでいました……」


 アドビスは長い息をついた。とても、疲れたように。


「……そなたの言う事はいつも耳が痛い。だがそなたは力を使うために、生涯独身で通すことを誓った。術者として生きる事は、本当に過酷なのだろうな」


 ふわりと真綿のような白金の髪を揺らしながら、リオーネはごつごつしたアドビスの手を取っていた。

 この手はいつだって彼にとって大切なものを守ろうとしてくれたのだ。

 それをリオーネは知っている。


「構いません。私がそれを望んだのですから。私は姉と約束したのです。その力が続く限り、あなたとシャインを護ることを……」

「リオーネ、そなたにはいつも助けてもらっている。感謝しきれないくらいだ」


 その言葉が偽りでない証拠に、アドビスはうつむき、申し訳なさそうに微笑した。


「いいえ。あなたは失うはずだった私達姉妹の命を助けて下さいました。ですから……おあいこなんです」


 やわらかい笑みをたたえたリオーネは、ロワ-ルハイネス号が帆を縮帆して速度を落とし、入港準備に入るさまを見ていた。


 何時も一緒だった姉を亡くして、はや二十年の歳月がすぎた。

 その悲しみを癒してくれたのは、彼女の忘れ形見であるシャインの存在だった。

 彼の成長を見守る事で、リオーネは心の安らぎを得ていた。


 最近会ったのは半年前。彼がアイル号で何者かの襲撃を受け、療養院で目が覚めるまで付き添った時だ。あの時は生きた心地がなかった。寝台に横たわるシャインを見た時、息が止まりそうになった。


 彼は丁度死んだ姉――シャインにとっては母親であるが、リュイーシャと同じ年齢になった。

 だからなのかもしれない。ふとした仕草に、彼女の面影が脳裏を過る。

 何時もリオーネを見守ってくれていた、穏やかな青緑色をしたその瞳の中に……。



「リオーネ」


 アドビスが彼女の名前を呼んだ。


「はい」

「先程の、アストリッド号の事。それからスカーヴィズと名乗った者の事、他言無用に頼む。私はこれからアリスティド統括将へ報告をしてくる」

「承知いたしました」


 リオーネはいつものように軽く頭を垂れて、その広い背中を見送った。



 ◇◇◇



「アドビス卿」


 執務室に戻ったアドビスは、部屋の戸口に立つ人影へ訝しむように視線を向けた。

 そこには銀に近い金髪の若い男が黒服に身を包み立っていた。

 通常の人間なら彼の気配を感じることはできないだろう。

 アドビスは執務机に向かい、黒服の男を手招きした。リオーネからの報告も大事だが、アドビスとしては彼を無視するわけにはいかない。


「ロイス。戻ったか」

「はい。早く閣下にご連絡するため陸路で帰りました。お蔭で馬を三頭ばかり潰してしまいました」


 ふっとアドビスは笑みを浮かべた。

 ロイスのマントには土埃が付いていた。夜通し馬を駆った話は本当らしい。


「ジェミナ・クラスをお前が出発したのはいつだ?」

「五日前の朝です」


 アドビスが何を言わんとしているのか、目の前の若い男――ロイス・ラングリッターはわかっているように顔をほころばせた。


「ちなみにロワールハイネス号が、ジェミナ・クラスを出港したのも同じ日です」

「――早いな」

「そうですね」


 アドビスは思案するように長い腕を胸の前で組んだ。


「ロワールハイネス号自体、元々足の速い船だがアスラトルへの帰路は風が逆になる。『船の精霊レイディ』が関与しなくても、それぐらいの日数での帰港は可能だ」

「仰る通りです」

「ちなみに行きは何日だ?」

「四日です」


 アドビスは沈黙したまま、冷ややかな笑みを浮かべるロイスの顔を見つめた。

 縁あって彼の事は誰よりも信用ができる。

 ロイスはアドビスの目であり耳であった。


「しかも閣下、驚いたことにロワールハイネス号は操舵索が切断されるトラブルに見舞われ、一時操船不能状態にあったそうです」

「その情報は確かなのか?」


 ロイスが狼を思わせる鋭い瞳を細めて頷いた。


「ロワールハイネス号の船客、ディアナ様ご自身からお話を伺うことができました」

「ほう」


 アドビスは珍しく驚嘆の声を上げてみせた。


「どんな手を使ったのだ?」

「私はロワールハイネス号で到着したディアナ様の警護を、アリスティド公爵から依頼されていましたので、ジェミナ・クラスへ先回りし、港までお迎えに上がったのです」


 アドビスは思い出した。ロイスの本当の職業はアドビスの密偵ではなく要人警護だ。

 それで生計を立てるラングリッター家はグラヴェール家と縁があるのだが、このことは両家の当主同士が知る公然の『秘密』であった。

 

「ディアナ様のお話を伺った限り、やはりシャイン様が『船鐘シップベル』に宿る『船の精霊レイディ』と接触したのは間違いありません」

「……」

「アドビス卿?」


 ロイスの怪訝な声でアドビスは我に返った。


「あ、ああ。そうか。わかった。後は紙面で報告を頼む」


 いつになくアドビスは不安を覚えたが、それをロイスに悟られるのはまずい。

 ロイスは信用できる男だが、少々お節介な面がある。

 アドビスの懸念をシャインへ伝えられると面倒なことになる。


「わかりました。ディアナ様から伺った話は後で資料としてお持ちします」

「頼む。私はアリスティド統括将に面会しなければならない用があるのでな」


 アドビスは参謀司令官として最重視しなければならないことを思い出した。

 海賊拿捕専門艦隊――通称・ノーブルブルーの旗艦、アストリッド号が何者かによって沈められたのだ。

 そんなことができる集団、組織について至急調べなければならない。


「それでは閣下、私はこれで」

「ああ。御苦労だった」


 ロイスが部屋を退出するのを見送って、アドビスは深く息を吐いた。




『アストリッド号を沈めたのは『月影のスカーヴィズ』です。あなたが二十年前に殺した――女海賊の』



 二十年経ってようやく巡り合えるのか。

 それとも――自らのごうが招いた罰を受ける時が来たか。

 アドビスは頭を振ると執務室を後にした。

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