2-29 夜明け
階段を上がり、甲板へ出るため後部ハッチの扉を開ける。
涼しい風が顔に当たるのを感じる。
空は紫と水色のグラデーションを描いて、朝の来訪を告げる最初の光が射そうとしていた。まもなく夜明けだ。
薄闇の中シャインは船首へ向かった。
ジャーヴィスの報告で、ロワールが船を動かしストームの船へ体当たりしたと聞いたからだ。
と、足元に奇妙な感覚を覚えた。
何も固定物がないはずなのに、ブーツの底がつっかかる感じがするのだ。
シャインはその場にかがんで手を伸ばし、指先で甲板に触れてみた。
ざらっとする、板のささくれたような――。
亀裂。
それは、三リールほど真っすぐ、メインマストの方へ走っていた。
シャインの脳裏に、先日の処女航海が思い出された。
メインマストの主帆を張る
甲板には目立ったへこみや傷がなかったので安堵していた。
あの時に生じた傷ならすぐに気がついた。
ということは、この亀裂ができたのは――。
「ロワール……なんて無茶を……」
彼女が自ら船を動かしたことが、大きな負荷を船体に与えたのはいうまでもない。シャインは膝を付いたまま、再び指の腹で甲板に生じた亀裂の深さを確認する。
安堵の息が思わず漏れる。幸い亀裂は表面の板だけのようだ。
これぐらいなら、アスラトルに帰港して板の張り替えだけで済みそうだ。
前髪を揺らしシャインはそっと立ち上がった。
今度はストームの船と接触した船首の状態を見なくてはならない。
顔を上げたシャインは
マストを左右から支える
接触の際にストームの船の上げ綱や滑車がからまり、やむを得ずジャーヴィスが切断を命じたのだろう。
さらにフォアマストの根元へ近付いてみると、十数人の水兵達が仰向けになって眠り込んでいた。
船首部分の上げ綱等、ロ-プ類はきちんと片付けられているし、静索を除けば、他に傷んでいるような箇所もない。夜が明けてストームを軍港へ連れていけるように、みんな夜通し作業してくれたのだ。
シャインは彼らを踏まないように、起こさないように、その伸びた手足の間をすりぬけて舳先まで行った。
こうして浮かんでいるのだから、船体に穴が開いていないのはわかっているが確認しないわけにはいかない。シャインは右舷の舳先から身を乗り出して、船体を見てみた。
「……やってくれたな……」
ため息が出た。
碧海色のペンキが無惨にはげて銅板が露出している。少しへこんでいるようだ。
対して、隣に停泊しているストームの船は、夜みたときよりも船首が若干沈んでいた。ジャーヴィスの報告では、応急処置で穴は塞いだので、ぎりぎり軍港まで曳航できるだろうとのことだった。
シャインは身を起こしその場を離れた。船首部分はロ-プ類や、錨鎖を巻く巻上げ機があるのでとても狭い。そのうえ、水兵達が寝転がっているので、彼らをけっとばしそうになったからだ。
「これは……ひどいな。いや、これくらいで済んで……よかったのかな」
シャインは
睡眠はたっぷりとったので頭の中はクリアだったが、気疲れだけはいくら眠ってもとれないのだろう。
シャインはそのまま座り込んで、明るくなっていく空をただ見つめた。
ふっと、パイプをくわえ紫煙をくゆらせる船匠ホープの顔が脳裏に浮かんだ。
「ホープさんに怒られるな。処女航海でこんなに船を傷めてしまうなんて……最悪だ。修理代もかさみそうだし」
甲板の板の張り替えや船首の銅板の直しにかかる経費を考えて、シャインはふとストームの拿捕賞金のことを意識した。
まあ小物みたいなので額は期待していないが、ついでに残念なジャーヴィスの報告のことも思い出してしまった。
ストーム一味をロワールハイネス号の船倉に閉じ込めてから、ジャーヴィスは彼女の船の中を捜索した。けれど先日襲ったアバディーン商船の金塊は発見されなかったのだ。
どうやら、この辺りを仕切っている“お頭”に、全額上納金として納めたらしい。
この金塊を取り戻せたら一番よかったのだが、無いものは仕方がない。
シャインはため息をついた。
アバディーンには申し訳ないが、せめてストームを捕らえる事ができたことを、報告しに行くべきだろう。
そこまで考えて、シャインはさらに気が滅入るのを感じた。
ストームを捕らえたのは自分ではない。自分は何もできなかったのだ。
ジャーヴィスの勇気と、ロワールの根性……もとい、想いがそうさせたのだ。
「ちょっとー、何、暗ーい顔してるの? せっかくあたしが、体を張って海賊を捕まえてあげたのに」
シャインはげんなりと首を左へ回した。
ロワールが傍らに立っていた。
白い花びらのような、ふわっとした衣服をまとい、腰まである紅い髪の一端を、指にからめてこちらをのぞきこんでいる。
まだ薄暗いせいだろうか。彼女の姿がいつもより淡く見えるのは。
「君に頼んだ覚えはないよ」
ロワールの元気そうな姿には安堵したが、心とは裏腹にシャインの口から出た言葉は冷たいものだった。シャインはロワールを一瞥すると、再び視線を水平線へと向けた。
「怒ってるの……?」
不安げなロワールの声。
シャインは俯いて小さく首を振った。瞳は水平線へ向けたまま。
「俺は言ったはずだ。錨が上がったら、その時は君の好きなようにしてもいいって。それなのに、君は……あんな無茶なことをして……」
パシッ!
ロワールはシャインの正面に回り込むと、その頬を叩いていた。
唇をキッと真一文字に結び、透き通った水色の瞳が、鏡のようにシャインの顔を写している。
「シャイン、私に嘘をつけないって事、忘れてない? 無茶をしたのはどっちよ! 私は……あなたがひとりで行ってしまうって、わかってたんだから」
シャインは叩かれた頬に手を当てていた。痛みは感じない。
けれど、じっとこちらを見据えるロワールの視線を受け止めるのは苦しかった。
彼女には後ろめたさがあるから、心が、痛んだ。
「私は……見ている事しかできないわ。だって、私は“船”だから。たとえ私がどんなに叫んでも、私はあなたを止めることができない。あなたがストームと一緒に行ってしまう時も、私は見ている事しかできないのよ? その時の私の気持ち……わかる?」
ロワールは今にも泣き出しそうに、その顔をゆがめていた。
シャインは手を伸ばして、こぼれおちそうになったその雫をそっと指で払った。
「すまない……ロワール。君がストームを捕まえてくれたから、俺はここにいることができる。君が自らの命を削ってまで……俺を助けてくれた事は感謝している。だけどね、こんなこと普通なら起こりっこない。船が自らの意志で動く事はありえないんだから。だから……今回の事は許して欲しい。君や、皆を助ける為に……俺はああするしかなかったと」
一語一語、噛み締めるようにシャインは言った。これは嘘偽りない本心だった。
勿論、ロワールにはそれが分かったのだろう。だから彼女は、瞳に光を宿したまま優しく微笑んだ。
「……そうね。私もあそこまで自力で船を動かせるか……本当はわからなかったんだけど。おかげで体がぼろぼろよ。でも、私の事も許してくれる? あなたがいなくちゃ、私が存在する意味がないの。私はあなたの想いで生まれ、生かされているのだから……」
「ああ」
シャインはうなずくと、ゆっくりと立ち上がった。
その隣にロワールが並んでシャインを見上げている。
「借りを作ってしまったな。今回壊れた船体の傷は、責任持って完璧に修理させてもらいます」
シャインは頭を下げて、こちらを見つめるロワールへいたずらっぽい笑みを浮かべた。その少しおどけた様子に、ロワールも表情をやわらげ、いつもの高飛車な態度に戻る。彼女は両手を腰に当てて小首を傾けた。
「当然よ。私のメンテナンスはきっちりやってもらうわよ。後で調整してほしい所も言うから、しっかりホープさんに頼んでよね!」
彼女が笑った動きにあわせて、紅い髪がゆるやかに舞った。
天使のような顔をして、悪魔のように言い分だけはちゃっかりしている。
彼女は日々、シャインが気付かないうちに驚く程の成長をとげているのだ。
シャインはそんなロワールを、眩し気に見つめていた。
ずっとこのまま、彼女は何もとらわれることなく、自由であって欲しいと思った。
「……生きてるって、やっぱりいいね」
シャインはぽつりと呟いた。
ロワールがシャインの腕に自らのそれを絡ませ身を寄せた。
海からの風が心地よく通り過ぎていく。
水平線から太陽が姿を現わし、水面が一斉に輝きを増した。
「そうよ。自分から捨ててしまうのはもったいないわ。私がいる限り、あなたをそんな目に合わせないから。絶対にね」
◇◇◇
「ツヴァイス司令。商港より定時連絡です。ロワールハイネス号が海賊ストームを連れて、11時に軍港へ入港するそうです」
「わかった。受け入れの手配をしてやれ」
「はっ」
「ちょっと待て」
ツヴァイスは席を立つと、右手に持った封書を水兵に手渡した。
「ロシュウェル准将へ伝言を頼む。私はこれからウインガード号でアスラトルへ発つとな。それからこの手紙をロワールハイネス号のグラヴェール艦長が出頭したら、彼に渡すように伝えて欲しい」
「了解いたしました」
水色の港湾警備の制服をまとった水兵は、一礼してツヴァイスの執務室から出ていった。扉が閉まる音を背中で聞きながら、ツヴァイスは軽く息を吐いた。
――運のいい奴だな。父親同様、悪運の強い星の下に生まれたと見える。
ツヴァイスは右手にあるお気に入りの窓の外をじっと見つめた。
軍港を一望できるその窓から、ロワ-ルハイネス号が入港すれば見逃すことはない。
ツヴァイスは窓に近付くと開け放たれていたそれを閉め、さっと水色のカーテンを引いた。
「もしかして……あなたが守っているのかね。初めて彼を見た時……あなたが立っているのかと思った」
月影色の淡い金髪。
海神と縁が深いと信じられている青緑の瞳。
それを再び見ることは、決して叶わないと思っていたのに。
『オーリン。来てくれてうれしいわ。ほら、見て』
真新しい産着に包まれて、小さな吾子は彼女の腕に抱かれていた。
『初めは実感がわかなかったけど、この子は私の分身なの。私がこの世に生きたという証――』
『この子は私の命の光、そのもの』
窓は確かに閉めたはずなのに。
頬へ感じた風に、かの人の声が木霊した。
ツヴァイスは部屋の中で、それにただ耳を澄ませ続けていた。
【第2話 かけがえのないもの(完)】
・・・後日談へ続く。
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