第16話 手紙
ギルド長が立ち去ってから数十分後、アキは病院の外へと出ていた。
今すぐに逃げろという言葉は本当に言葉通りの意味だったらしく、ギルド長の手配するまま、通常ならありえない早さで退院の手続きがなされたのだ。
起きた時の痛みや昨晩の痛めつけられ方からしてしばらく動けないのではないかと思っていたが、今は痛みがほとんど引き、 包帯も外れていた。
病院側に関いてみると、ギルド長が目玉の飛び出るような額を支払い、貴重な霊薬や魔術による治療を受けさせたのだと言う。内臓にも傷が入っていたため、本来なら数ヶ月単位の治療が必要だったのだと説明を受けた。
すっかり痛みの消えた胸を撫でつつ、そんなことは一言も言わなかったギルド長の姿を思い浮かべる。しかし、すぐに頭を振って歩き始めた。
そのすぐ後ろを、商業ギルドの制服に身を包んだ大男二人がついて来る。恐らくギルド長の言っていた護衛だろう。至れり尽くせりな状況だと、自嘲を込めて引きつった笑みを浮かべる。
結局、自分は何だったのだろうか。ギルド長の思惑のままこの街を訪れ、流されるままにアークと行動し、真実を知って勝手に憤り、最後は何も守れず逃げ出そうとしている。
これでは本当に道化そのものではないか。自分の意思など何もなくただ楽な方へと流れた結果がこれとは、よっぽど出来のいい喜劇だ。アキが観客なら唾を吐きかけていることだろう。
少年は己の無力さを悟り、哀れ街を去りましたとさ……反吐が出る。反吐が出るが、それが現実だ。もう自分にできることなど、何もないのだから。
そんな風に自分を納得させようとしても、頭に浮かぶのはあの少女のことばかりだった。考えないようにすればするほど、より鮮明にその姿を思い出してしまう。
その笑顔も、声も、信頼も。その裏で彼女を蝕んでいた呪縛を覆い隠す仮面であり、その作り物の顔だって、結局のところ自分に向けられたものではなかったのだ。
纏わりつく思考を払うように、足を速めて人混みの隙間を縫い歩く。努めて無心を装い周囲の歓声を無視しながら進むと、すぐにアキが宿泊していた宿にたどり着いた。
僅かに軋む扉を開けると、ちょうど玄関の掃き掃除をしていたらしい女将さんと目が合った。彼女はアキの姿を認めるなり、使っていた箒を置いて少し慌てた様子で近付いてくる。
「昨日は帰って来なかったみたいだけど、どうかしたのかい? アークちゃんも今日は迎えに来なかったしさ、心配してたのよ」
純粋に二人の身を案じていたのだろうその言葉に胸が痛くなる。
彼女にとって、アークは日常の中にいつもいる存在だったのだろう。
彼女だけではない、ギルドの受付嬢や露店の男など、彼女と親しげに話していた人は何人もいた。彼らに顔向けできない後ろめたさから、自然とアキの声は小さくなる。
「……すいません。色々事情がありまして、今からこの街を出ることになりました」
「あら、そうなのかい? 今って随分と急だねえ。しかも今日はお祭りだよ? アークちゃんと一緒に見て行った方が楽しいと思うけどねえ」
「いえ、都合があるので……」
「そうかい? じゃあ仕方がないねえ」
少し待っておくれ、と引き払いの準備をする女将さんに領くと、彼女は帳簿につらつらと文字を記し始める。
これでいよいよこの街ともおさらばだ。
口の中に広がる錆の匂い……知らず知らずのうちに噛み切った唇から溢れる、鉄臭い血の味にすら気付かずアキは顔を歪める。
本当にこれでいいのかと心は問う。
どうしようもないことだと理性は返す。
そうして、そのまま少年は街を離れる……はずだった。
その目の前に、一枚の封筒が差し出される。
突然差し出された真っ白な色彩に反応して顔を上げると、女将さんがそれを差し出している。
何だろうかと思っていると、彼女の口から答えが語られた。
「これ、アークちゃんからの手紙だよ」
ドクン、と。
さっきまでは止まっているのではないかというほど冷たかった血が、心臓の音と共に熱を持って廻りだした。
呆然と、差し出された手紙を手に取る。つるりとした高価そうな封筒には、少し歪んだ字で『親愛なる人へ』、『アークより』と書いてあった。
「昨日の夕方頃、アークちゃんが来てね。あんたが街を出る時になったらこいつを渡してほしいって言うんだよ。何でも、自分じゃ渡せないかもしれないからってさ。そうそう、それと、他の街に着いてから読んでほしいとさ」
お別れの言葉ってやつだろうし、照れ臭いのかねえ、という女将さんの言葉は、既に耳を素通りしていた。今は手元の小さな紙に全ての神経が集まってしまったかのように、他のものが目に入らない。
そうしていつの間にか、自分が泊まっていた部屋にいた。荷物を整理します、と。そんなことを言った気はするが、本当にいつの間にかそこに立っていたとしか言いようがない。
それでも握った紙から伝わる熱は鮮烈で、握り潰していないことが不思議なほど手には力がこもっている。
他の街に着いてから、と言われたことはかろうじて覚えていた。だが、この手紙はここで読まなければいけない、そんな感覚がしてならない。
今ここで読むことで、自分が欲してやまないものの正体がわかる、そんな漠然とした感覚。
震える手でもう一度封筒を見る。少し文字が歪んでいるのは、アークの触覚と視覚が弱っていた証拠か。
ぼやける視界で手紙にかじりつき、震える手を使い文字を書く、そんな姿を想像してしまった。
昨日の夕方持って来たということは、もしかしたら少年が少女の家を出た、その後に書かれたものなのかもしれない。
もしそうだとしたら、この手紙にはつい昨日、いなくなる直前のアークの想いが綴られているということになる。
恐らくはアークから祖父に当てた、彼女の本心がこもった手紙。
僅かな罪悪感を感じながらも、中身を切らないよう慎重に封を切る。
中に入っていたのは、量自体は大したことがない、数枚の紙に書かれたメッセージ。封筒の宛名と同じく、少し歪んでいるその文字を追っていく。
手紙を読みきった。
だが、少年は動かなかった。動けなかった。
読むこと自体はすぐに終わったのだ。だが、もう一度、もう一度と、同じ手紙をひたすら読み直す。
そうして何度も繰り返し、僅かな汚れすら見落としのないようにして全てを読み終え、アキは部屋の中央で立ち尽くしていたのだ。
しばらくの間身動きを取らなかった少年だが、
ガッ!! と。
あまりにも唐突な挙動で、部屋の片隅に置いていた鞄を鷲掴んだ。
それから部屋の扉を蹴破らんばかりの勢いで外に飛び出し、勢いそのままにロビーに駆け込む。女将さんがぎょっとした表情でアキを見ている。
それに構わず、宿の入り口から外へ出る。壁際で待機していた二人の護衛が突然の行動に出遅れ慌てて追ってくるが、それすら置き去りにして解き放たれた矢のように駆け出す。
宿の前から既に人が密集している通りを、人波の隙間をすり抜けるように突き進む。後ろからアキを見失ったらしい護衛の声がする。だが止まることはしなかった。
駆ける。駆ける。
動かす足に合わせて心臓が早鐘を鳴らす。握りしめたままの手紙はとっくにくしゃくしゃになっていたが、そこから伝わる熱は変わらない。
ただその熱に従って、衝動のままに街を駆け抜ける。
やがて、目の前に建物……商業ギルドが見えてくる。体当たりするように扉を開けると、肩で息をしながら人を探す。
ギルドの受付付近、普段なら多くの商人が並んでいる場所に、探し人は立っていた。
ギルド長は今まで何かの指示を出していたのだろう、職員達に囲まれ、大きな屋敷の資料を指さしたままアキの方を見て目を丸くしている。
当然だ。逃げろと言った人間が、なぜかこんなところに戻って来たのだから。
そんなギルド長の顔を拝んだアキは……ニヤリと、挑戦的な笑みを浮かべた。
「よお、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます