小恐怖 美人の町
@nakamichiko
第1話前編
その町の普段と変わらない朝の光景だった。大きな通りから二つほど道を挟んだところにある、中くらいの公園だった。季節は冬、一月はいぬ、とすぐに過ぎ去り、逃げるという二月の初旬。比較的暖かな日が続いていたころだった。
「コーン」という鈍く硬そうな音が、その公園のあちらこちらから聞こえてきた。近所の小学生は、その公園から五百メートルほど離れた学校に一時間以上前に行ってしまい、中学校の方は大きな通りに面していた。保育所も小学校の近くなので、時々子供の声が聞こえることはあるが、この町のこの時間では、グラウンドゴルフのボールを打つ音、ホールインワンになった時の歓声が、最も大きな音であった。
古くからある住宅地と、残っていた小さな丘を削ってできた新しい団地は、都市部のどこでも見られる風景で、昼間、町を歩くのは年配の住人と、小さな子供を連れたお母さん、何かの営業の人間と、これもどことも同じで変わったところはなかった。
「早く打たないと! 」
と年配の女性は、ぼーっと公園の横の道を見ている男性に言った。彼女は道から大分離れた所にいたので、その男性の首がスーッと滑らかに横に動いているのを見ることができた。
「何を見ているんだか」とその公園にいる十人ほどの仲間たちも道に目をやると、
その道には見知らぬ若い女性が歩いていた。
背がすらりと高く、少し長めのストレートヘアーで、東洋人、日本人か中国人か韓国人かまではわからなかった。が今見えている横顔は、化粧をするのに鼻筋をすっと明るい色にすることなど、まったくもって必要などない、というくっきりとした、高く美しい鼻だった。その下のきれいな形の唇には、薄めの赤い口紅がさされ、そして何よりも印象的だったのは目だった。
キラキラと光るような潤いのあるその瞳は、たとえ正面を向かなくても、この女性を最も強く印象づけるものであった。あまりのその輝きが、上品な薄化粧と不釣り合いなほどに見え、むしろ厚化粧の方がバランスが取れるのではとさえ思えた。しかし、薄化粧だからこそ、もともとの色の白さと肌のキメの細かさが、彼女の持つ自然な美しさをより一層なものにしていた。そこにいた女性の数より少ない男性は、カメオのようなその横顔ばかりを見ていたが、しかし、女性たちは彼女の本当にすべてを見ていた。
皮のブーツにしてはそう大きな音を立てずに歩き、歩き方も自然で穏やかだった。顔の大きさ、胸の大きさ、足の長さ、それがすべて女性として最高のバランスを持ち、そして何よりも引き付けたのは手だった。暖冬とはいえ冬の朝なのにその手には手袋はなく、体全体のバランスそのままに、彼女の手は長い指と、その先には美しく整えられた爪があった。流行のネールは付けておらず、しかしそれがなくても、爪の半月の先にあるきれいなピンクの肌色は、まるでそこに花でも咲いているように見えた。
「この手を見せるために手袋をしなかったのかもしれない」
そう考えるのは意地が悪いかもと女性たちは自分に思った。その手が物語っているのは彼女が顔を洗ったり、風呂に入ったりというとき以外は水を扱かっていないだろうということだった。指に何の傷も、かさついたところもない。水仕事など、していない手だ。
そして彼女の全体を覆っているもの、それは自分の娘たちが結婚の適齢期を迎えた時に放った、後光に近いような、淡い輝きとは違う別のものだった。美しいという自信、それを守ってきたことなのか、それともその覆っているもので、多くの異性からの面倒な誘いをシャットダウンするためのものなのか、簡単に声をかけることを拒む、自分を守るためのもののようにも思えた。
道を見た全員が、同じように首を動かし、そして止まった。それ以上動かしても家が邪魔で、彼女が見えなくなったからだ。みんなが何の動きも見せずにいると、一番最初に道を見ていた例の男性が
「ああ、いいもん見た、きれいな人やな、あんなきれいな人久しぶり、いや、もしかしたらこの目で見た中で、いちばん綺麗かもしれん。あんな人が通ったら、集中して打てんよ。ああ、気分がいいなあ、もしかしたら今日お迎えが来るんかもしれんな」
その言葉にみんな小さく笑ったが、そのあとは逆に手が付けられないほどの興奮が、公園中を満たした。
「誰? このあたりの人じゃないね」
「きれいやったね・・・ほんとにため息が出るくらい」
「私若い頃、松坂慶子の実物を見たことがあるけど・・・同じくらいきれい」
「ちょっと似とったね、細面で目がきれいで」
「松坂慶子と比べたら冷たい感じやったが、それがまた良かったな」
「まあ、好みのタイプなの、奥さんに言うわよ」
「いやいや、自分でいうから大丈夫」と遊びはそっちのけで、その日はお喋りに夢中になった。
この噂はすぐに一部に広がったが、一過性のものであり、また、見た人間がその情報を広く拡散しようとはしなかったので、ただの食事時や茶飲み話の種にしかならなかった。
だがその次の日の午後、公園の近くの道で八十過ぎの女性が、椅子になる彼女のカートに座ってのんびりと過ごしていたときのことだった。彼女の座っている場所は今は車が止まっていない他人の家の、一台分の駐車場だった。
「今年は暖かいねえ」
と誰に言うわけでもなく、家の中よりもここの方が日差しも当たって心地よかったので、しばらくじっとしていた。するとその前を、見慣れない若い女が通った。
比較的ゆっくりとした歩調だった。背はそれほど高くなく、日本人の典型的な大きさである。天然のものなのか、髪はショートで自然にカールしていた。すぐさま目に入った肌は白いが、もち肌というのか柔らかさの方が一見してわかり、その質の良さが見て取れた。目は大きく、キラキラした感じは、まるで少女の様、その少女がそのまま大人になったような清純さと、かわいらしいあどけなさとを持った女性だった。ほとんどの人が彼女ほどの美しさがなくても、自然と失ってしまうその二つを常に持ち続けている、これからもそうしていく、それが彼女の美しさの芯であるように思えた。極端に若いわけではなかったが、表面上で判断できる年齢よりも、きっと本当はずっと年が上なのかもと予想は出来た。
「ああ」
座った女性はため息のような大きな声を漏らした。
「ああ、きれいやねえ、うらやましい・・・なんてきれいな人、吉永小百合みたいやね。白内障の手術をしといてよかったよ、ここでこんなにきれいな人を見られるんかね」
その、簡単ではあるが最高級の賛辞に、歩いている女性は意外なほどに表情も歩調も変えることなかったが、ただ黙っているだけなのに、少し微笑んでいるような雰囲気さえあった。彼女はある程度までまっすぐな、その坂道を歩き続けた。後ろからその姿を見ながら、
「歩く姿はユリの花、というのはああゆう人のことをいうのやろうね」
と今起こったことに何一つ文句も言わずに、そのまま座り続けた。そして駐車場に車が帰って来ると、いつもは会釈するだけで行ってしまうのに、先ほど見た
「夢のように美しい人」のことをいつものお礼のように話して聞かせた。
二日連続でそのようなことが起き「あれは誰だ」という話にはなった。松阪慶子似の彼女は、次の日は近所の別の所で発見されたが、彼女たちは何か悪いことをしているわけでもなし、長い時間うろうろしているわけでもないので、会った人間はただ良い思いをするだけのことだった。
だがその次の日の、もう昼になろうとする頃だった。グラウンドゴルフの人間は、彼女たちに会えなかったとその場を去り、公園の近所の二階家に住む若い母親が、冬の晴れ間で布団を干そうとベランダに立った時だった。
「あれ? あれがそうなのかな? 」
小さな靴音が聞こえ、上から、子供特有の天使の輪と言われる髪の毛の光沢が、大人の女性の頭に見ることができた。
遠ざかるにつれほんの少し見えた顔は、確かに女優の様であり、それがすぐさま見えなくなって後ろ姿だけを見ていたが、あることに気が付いた。
「何も、持っていない」
小さなバックも、買い物したものも、何一つ下げていない。健康のためのウォーキングにしては、おかしな感じだった、出掛けるための服装、コートを着てズボンとブーツだ。
「モデルさんが歩く練習でもしているのかな、としても・・・」とその姿を見た近所の人達は、集まって首をかしげながら話をしていた。そのある種の不安を表すように、天気は急変し、ぽつぽつと雨が降り始めた。布団をすぐにしまうことになった母親は、今日の出来事を近所の小さな子供を持つ母親にも電話で話していた。
昼を過ぎて、その話を聞いた母親は娘と一緒に買い物に出かけていた。公園から道を挟んでしばらく行くと、他の町との境になる、小さな川が流れていた。
川の片側は白いガードレールで、反対側はコンクリートで作られた茶色の木の柵を模したものが、ずっと先まで続いていた。この柵の横が車道より一段上がった遊歩道であるが、車側に植えられたソメイヨシノの根のためにその道は凸凹して、決して通りやすいものではなかった。だが、信号の少ないこの道は交通量が意外に多く、カーブもあるため、ここを人も、自転車も、犬の散歩も通らざるを得なかった。
「新しい長靴はどう? 」と母親は娘に聞いた。
「いがいと、いいよ」と五つの子にしては生意気なこと、と思った。しかし、考えれば、その言葉は夫や自分が口癖のように言う言葉であり、それをまねしているだけなのだと気が付いた。小雨の中歩いている人はほとんどおらず、娘のゆっくりとした歩調に、自転車も気にせずその道を二人で歩くことができた。
すると前から傘を差した若い女性が来るのが見えた。二十歳そこそこだろうか、透明なビニール傘をさしていた。先に歩いていた娘が足を止めて、固まったように、じっとその彼女の顔を見上げているのが分かった。子供のやっていることとはいえ、そんなに人を見るのはと、自分も気になってその傘の中の顔を見た。
「リカちゃん? 」
前から来ているその女性に、自分の声が聞こえているのかもしれなかった。
しかし、そうであっても関係はなかった。自分に近づいてくる女性は、完全な左右対称の顔を持ち、細い顎、可愛い唇、確かにリカちゃん人形ほど目は大きくはなかったが、大きくさえすれば、まさにそうだった。
「堀北真希、新垣結衣のちょうど中間のよう」
彼女はもう娘の横を通り過ぎ、振り返り驚いている子供の顔が目に入った。そして自分の真横に、今まさに、リアルなリカちゃんがすれ違っている。顔を動かさず、横目でちらりと見た。その肌、目の輝き、顔を向けても良かったのだが、逆に、その美しさに金縛りにでもあったような感じがした。自分をすっと避けるように歩き、しばらくして、母親はやっとその呪縛と緊張から解かれたような気がした。そうして振り返った時には、川の蛇行に合わせた道で、彼女の姿は消えかかっていた。完全に消えた頃
「ママ」
と娘が近寄ってきた。
「ああ、きれいな人だったね、リカちゃんみたい、いや、ガッキーか堀北真希にも似てたね」と母親は興奮して
「ちょっと待ってね・・・えーっとこの人に似てたでしょう? 」と二人の写真を楽し気にスマホに映して見せた。
「うん・・・」と小さく娘は答え、母親は今見たことを友達に電話するかどうしようかと思った時に、娘が雨の中、しゃがみこんで何かを取っているような姿が見えた。冬の日に、まだ虫も、小さな花も咲いていない、そこに興味のあるものは何一つないはずなのだ。
「すねているの、何故? 」
しばらくその姿を見ながら考えていると、
「あ」と誰にも、娘にすら聞こえないような声を出した。娘がそうしている理由が分かった気がしたからだ。
数日前、近所に自分たちと全く同年代で、同じような年ごろの子供を持つ一家が引っ越してきた。その姉妹はとても愛らしく、特に娘と全く同級生になる下の子は
「カワイイ、カワイイ」と近所でも評判になった。お姉ちゃんの同級生たち、さらに上級生の女の子たちに囲まれて、
「いいなあ、こんなにかわいくて」と色々な子供たちから言われていた。
「あたしはかわいい? ママ? 」その子がやってきて何度か聞いた言葉だった。
「もちろん! 」と自分は答えたが、最近はそんなことを全く言わなくなった。
「この年で、もう美醜の中に入らざるを得ないのか、いや、もう気付いたんだ」
親の、祖父母の、近所の人のかわいいと、小学生の子供たちのカワイイでは違うことを、一方は愛情の表現であり、ある種の社交辞令で、もう一つの方は、厳しい基準があり、そのいくつものものを超えた所にある、ほんの一部の人間しか言われないことであることを。
考えれば、自分もこの年にはもしかしたら気が付いていたのかもしれなかった。
この子が大きくなり、小学校に入り、男子生徒と何等かでもめた場合、まるで伝家の宝刀、最終兵器のように彼らは「ブス」というだろう。そう言われた場合の反撃を、口が達者な女の子たちですら、未だに誰も見つけてはいないのだろうと思う。
いかな男性のお笑い芸人のコンビが、相方を「ブス」と言い続ける努力をしたとしても、この言葉が男の子までを指すことに将来なるとは考えられない。可能性はかなり低いのだ。
この言葉を一生、言われないで済む女性は本当に少ないだろう。さっき見たあの女性はその少ない人の一人であり、もし万が一小学生の時に男の子が彼女に言おうものなら、女子たちからの猛反発を受け、最終的にはその言葉が反発をした子に飛び火したであろうことは目に見えている。そして中学生になれば、そんなことを言う者等、一切いなくなったに違いない。
娘はまだ、悲し気に地面をいじっていた。彼女にとっては今母親の取った行動が、自分を否定まではしていないものの、自分の同級生を可愛いと言った小学生の仲間に、自分の母親まで入ってしまったと感じたのだろうと思った。
母親は、軽はずみな行動を反省し、現時点でどうすべきかを考えた。子育て論、本やテレビで見たものの中から、必死に考えた。ふと頭に浮かんだのは
「話題を変える」という方法だった。でも急いでいたのか、女性としての反動だったのかこう言ってしまった。
「女のきれいな人ばかりじゃなくて、男の人も見たいよね、イケメンとか」
娘はピクリと動いて、すぐさま
「タッキーとか? ママの好きな? 」そう言ったので母親はびっくりした。
「優しいね、ありがとう。タッキーを見つけたら、ママに教えてね」
「うん! 」もとに戻った、彼女も女の子なのだろう。
「さあ、お菓子を買いに行こうね」
「うん、今日はお菓子を買っていい日だよね」
二人はスーパーに向かっていき、帰りはその道を通らなかった。
彼女はこの一連の出来事を、包み隠さず他の母親に話した。
次の日は祭日だった。その町には公園がまだいくつかあって、川のすぐ横、リカちゃんそっくりな美人が発見されたところから、目と鼻の先にもあった。そこは大きく、子供の遊具も、屋根付きのベンチもあって、人が絶えることは少なかった。しかし、冬の祭日の朝はそうではない。
「面白いなあ、会社が休みの日には年配の散歩の人も少なくなる」
とその公園で一人ストレッチをしている男性はつぶやいた。
「孫の面倒を見なきゃいけないとかもあるだろうけど、会社員の習慣かもしれない」と面白く彼は考えていた。自分はまだ現役で、あと十年は働かなければならない、そのための体力作りというか、なんというのか、年を取って花開いたことがうれしくて、休みの日には体をさらに動かすことにしていた。
彼はマスターズ陸上の全国大会でメダルを取っていた。競歩だ。体を動かすのは好きで、高校時代は決して大きくも、太ってもいないのに相撲部に所属し、とにかく技を磨いた。だがメダルなどは夢のまた夢、一度も届きそうになったことすらなかった。しかし今は違う。年を取って本格的に体を動かす人は少ないとはいえ、目標を持ち、それに向かう楽しさは、若い頃と同じものだった。
「まあ、でもストレッチはしない方がという考えもあるが」と最新のスポーツ科学の知識もないではないが、自分のスタイルはある程度守っていこうという考えもあった。そうして一人、散歩の人がほとんどいない川の方を見ながら、体を動かしていた。するとちょっと視界に男性が入ってきた。
「あれ? 」と見たことのないその姿に驚いた。
「いい体だな・・・引き締まっている」
決して大きな体ではなかった。自分は標準だがそれぐらいか、少し低いぐらいだった。しかし、格闘技を経験している彼だからこそ、目を引いた首の太さ、ダウンジャケットが膨らんで見えるような体つき、そしてとても穏やかなようには見えるが、それはリラックスであり、何かあったら今すぐにでも豹変できるような、ちょっと偽りじみた雰囲気だった。
「格闘技の世界チャンピオンなんかに多いタイプだが・・・」
年は三十台ぐらいか、近くに来るとさらに驚いた。
「鼻が高い、色も白い、ハンサムだな」彼が真近に来ると今度は顔ばかりを見た。西洋人のような高い鼻の上、ほっそりとした顔は、東洋人であることは間違いないが、現代風のものではなかった。
「美丈夫ってこういう人間をいうんだろうな」
歴史小説に出てくるその言葉が頭に浮かんだ。強く、美しい男性をさすこの言葉が、何よりもこの目の前の男にはぴったりだった。
やがて彼は川の橋を渡り始めた。見えるのは背中だけになると、一層ダウンジャケットの下の鍛えたゆえの丸みを帯びた体が目立って見えた。
「ああ、美人がこの町を歩き回っていると言っていたな、これは男バージョンか、ああ、それにしてもいい体つき、後ろ姿だけでも撮っておこうか」とスマホを取り出してまだいるはずの被写体を探した。
「あら、何処に行った? 」彼が橋を渡って、昨日リカちゃんのような彼女が目撃された、遊歩道を歩いているはずだと思ったのだ。しかし遊歩道には遠くで犬の散歩をしている人間しか見当たらない。キョロキョロと見回してみて、企業の研究員である彼らしい、合理的な結論を得た。
「ああ、横道にそれたか、そこのスーパーは開店前で、トラックが何台も止まっている。そのせいで見えなくなったんだろう。美人はかき消えるというけど違うな、ここは道が入り組んでいるから見失っただけだ、みんなそうなんだろう」ともう一度体を動かし始めた。
「誰だっけ・・・誰かに似てる、そうだ! 寺尾、昔の錣山親方にそっくりだ! 体は小さいけれど。現役時代かっこよかったな、細身で、突っ張りで。いま弟子が寺尾を名乗っているらしいな、ああ、恰好よかったな、うらやましい」
走るのより早いぐらいの競歩の速さで、公園から出て行った。
この男性の美しい人の出現は、あっという間に町に広まった。しかしその日は美人たちが目撃されることもなく、噂だけが興奮気味に飛び回り、町のほとんどの人が知ることとなった。
そして次の日は、まるでそうなってほしいと願ったように町のあちこちで美人が美男が目撃され、ある家の七十年配の男性は家に帰って来るなり妻に
「健さんがおった! 高倉健そっくりの、 あの、若い頃のやくざ映画の頃の健さんがおった! 」と彼女が久々に見るようなテンションで言った。その同じ男性を他の人は
「色が少し黒かった・・・プロレスラーのオカダカズチカみたいな」
と言った人もいた。人によって年代によって、当てはめる相手はさまざまだったが、共通して言えることは
「本人ではない」ということだけだった。
「人間の顔も奥深いなあ、ほんのちょっと目の形やら唇の形で別人とわかるんだから」感心する一方で、
「今から桜が咲く、その下をあんな美人たちが歩いたら、どんなにいいものか」と楽しく話していた。
この町に住む小さな子供を持つ親たちは、口裏を合わせるようにこのことをあまり大っぴらにはせず、年配のものも口伝ぐらいしかしなかったので、このことはそう広くは伝わらなかった。だが、彼らの毎日の行動から見て取れるものはあった。
まずは、人の多い時間帯には歩かないこと。朝の通勤通学、帰りの時間等には全く現れなかった。そして、写真を撮ろうとするとすっといなくなってしまうということ。もし若い人間であれば、スマホを一秒もかからずに撮影することができるだろうが、そういう人間の前には、ほとんど、というか、まったく現れなかった。そして何よりも、この町内から外へはほとんど行かないということだ。川のさらに向こうの大通りで目撃されたことなどは一度もない。本当にこの限られた地区だけに現れるのだ。そして平日の昼間、祭日の朝早く、多くの人がいない時だけを見計らって歩いているのではと思われた。結果としてこの地区に住んでいても一度も彼女、彼らを見たことがないという人も多く、それは必然的に若い年代となっていた。
平日の昼間だった。自転車に乗った高校生はウキウキとした気分だった。学校の都合による急な放校に、クラス中は喜んだ。
「珍しい、何処に遊びに行こうか」「天気もいいし最高! 」その時の明るさそのままに、彼は一人いつもの、桜の根の凸凹で走り辛い道をのろのろと行っていた。スマホを片手に、でも歩いている人間、ほとんどが年寄りばかりだが、それには自分なりに注意を払っているつもりだった。何秒かおきに前をちらとみて、またスマホ、それが身に付けた技のように、彼は自転車に乗っていた。するとちらりと見て、あと何十メートルか先に老夫婦が自分と同じ進行方向に歩いているのが分かったので、少ししたら追い抜くなと、彼らのいない側へと前もって避けた。するとあっという間に老夫婦を追い抜いてしまった。彼らはそこで止まったまま、何かをじっと見ていた。
彼らの目の先には、若い女性がいた。こちらへ向かって歩いてきてる。
まず見えたのは二つの大きな目だった。人形のように澄んだ、大きな、まったく左右が対象の目、その真ん中に通った鼻筋は額から目の所で一度ぐっと下がり、そこから、自然なカーブを描くように高くなっていた。口紅は薄いピンクだったが、それを塗る必要があるのかと思うほどの美しい形だった。気が付いたら自分は自転車を止めて、じっとその老夫婦と同じように彼女を見ていた。そして彼女は真横をさっと通り抜けると、車を避けながら、車道を横切り、住宅地の中へ姿を消した。
「今のは・・・芸能人かね、若い人のことは知らんが」とその妻が高校生に聞いた。
「いえ・・・見たことはありません、橋本環奈に似ているとは思いますが・・・」
「この辺りは美人が多いのよね、今の人は初めて見た」
彼はこのあたりに住んでいるわけではないので、その話を詳しく老夫婦から聞いた。
「本当だって! 本当に目が覚めるような美人だったんだから。それにあれは・・・もしかしたら」と次の日彼はクラスの中心になって話していた。
その周りには多くの男子生徒とほんの数人の女子もいた。
「橋本環奈以上だって! 」と彼は少し区切って、顔を上にあげ目をどちらともなくわざとらしく向けていた。その効果なのだろう。クラスの多くの人間が予想した通りの事が起こった。一人の大人しそうな男子生徒が、その輪の中に珍しく割って入るようにやってきた。
「それは聞き捨てならないね、本物を見たことがないからそう言うんだ、知らないだろう? どんなにきれいなのか、信じられないぐらいなんだから」
「ははは」とみんな軽く笑った。やってきた彼は言わずもがな、橋本環奈の熱烈なフアンだった。
「それは否定するつもりは全然ないよ、でも昨日話を聞いたんだ。あの辺りは美男美女の出没地域なんだって」
「そうなのよ、私近所なんだけど、私の家の方には来ないの、あのあたりだけらしいのよね」と情報が集まってきた。
「とにかく、僕は真実を突き止めたいね。橋本環奈に似たメークをして無理やり顔を作ったってわかるよ」
「ほー、じゃあ、一緒に行って確かめてみようか」
「いいよ、行こうよ」と今日の帰りに行こうということになった。
「今日も早く帰れるとは思わなかったな」
「でも良かったじゃないか、人のいないときにしか現れないんだったら、昼時が一番ということだろう? ラッキーじゃないか」
「俺の話を信じる気になった? 」
「とにかく見て見たいね」と二人だけで昨日の場所にやってきていた。他の人間も来たいと言ったが、待ち伏せするようなところには表れないと聞いたので、二人で自転車を広い公園に止め、そのあたりを歩き回ることにした。
「いないなあ」
「手に何も持っていないから、遠くからでもすぐわかるとは聞いたけど」と二人で話しながら歩いていた。一時間以上歩き回って、後しばらくしたら小学校が終わる時間となりそうなので
「子供が帰る時間とかはいないらしいから、今日はあきらめようか」と一人が言ったが、橋本環奈へのこだわりなのか、すぐには返事が聞けなかった。だが、二人の足はとめていた自転車の方へ自然と向かっていた。そこに行くための小さな横断歩道のボタンを、諦めが付かないのかわざわざ押して時間稼ぎのようなことをしているときだった。ふっと自分たちの横に一人の女性が立った。
初めて彼女を見た彼は、西洋のアンティークドールのようだと思った。人形のような大きなその左右の目が、ほんの少しでも、鼻を中心に対象でなかったら、きっと台無しになるのではという想像がついた。しかし、彼女の両目は、ヨーロッパの石造りの建物のように、完璧なまでのシンメトリーがゆるぎなくあった。そして可愛いい口元、高すぎない鼻、アンティークドールの少々しもぶくれしたような頬と顎を、ナイフか何かでさっと削ったような顔の形。彼は驚いて表情すら固まったままで、もう一人はにこやかに彼女を見た。しかしその二人のことなど、何もなかったかのように、彼女は信号が変わるとさっと動き出した。後追いするように一人は渡ったが、もう一人は、まだそこにとどまったままだった。
「おい! 」その声でやっと我に返った一人は、慌てて信号を渡ろうと思った時にはもう赤になっていた。
「何やってんだ! 」口先でそういい、目は彼女の方へ向けようとした。
「あれ? いない? 」急いで走り回ったが、彼女の姿が見当たらなかった。
この辺りは区画の整理がきちんとされているころなので、道は広く、比較的まっすぐに伸びている。だが、背の高いマンションや、メゾネット型の住宅も多い。
「中に入ったのか、このあたりに住んでいるのかな」マンションは入り口に入るのすらロックがあるタイプになっていた。結局見つからず、やっと合流した彼はまだ少々放心状態だった。
「どう、美人だったろう? 橋本環奈級だったろう? 」
それに対して、真剣なまなざしで頷いていた。その目が多少きついように思えたのは、自分のさっきの言葉が、まるで彼女を自分のものであるかのように言ったせいなのかもと思った彼は、今度は遜るように
「見たことある? 写真とかでも」と聞いた。しばらく考えて彼はこう言った。
「ないね・・・確かに似ているよ。無表情だったから人形みたいだったけど。でもあれだけきれいだったら、絶対にプロダクションとかがほおっておかないと思うんだ、似すぎてダメっていう感じじゃない」
「橋本環奈に似すぎってすごいよな」
「そうだろう? それだったらそれで売れるレベルだよ、ごめん、疑ったりして」
「いや、いいよ、でも写真撮れなかったな、みんなに約束したのに」
「失礼だよ、でも見れただけで充分だ」
「じゃあ、橋本環奈の写真は撮らないの?」
「この目で充分見たから今は撮っているよ、将来の想い出のために」
「そうなのか、上手いことをいうな」今まであまり話すことのなかった二人が、この後もしばらく一緒に過ごした。
彼らの友人がこのこと多くの人に広めてしまったため、町にはそれを目当てに来る人がぽつぽつ現れ始めた。カメラを片手に、額にと、いかにもというその人間たちの前には、美男美女は全く現れなかった。その状態がたった数日続いただけで、
「これは出まかせだ」という人間が現れ、町の人は困惑してしまうことになった。自分たちはただ、彼ら、彼女達らを見ていただけなのだ。住民の中には「これをあげようか」と食べ物を美女たちに差し出するものもいたが、それには全く聞こえていないふりでもするかのように去っていった。そこで嫌な思いをするのならわかるが、ウソつき呼ばわりされるのは、心外この上ないことだった。
しかも「美女の写真が撮れた! 」とネット上に載せられたものは、住民の予想通り合成で、その姿は有名女優のものを使ったものだと、すぐさまにばれて叩かれた。しかしながら「売名行為だ」とか「利潤目的だ」といった、工務店や個人の車屋ぐらいしかない所には、見当違いな言いがかりまで付けられるようになってしまった。なので汚名を晴らしたいとまではいかないが、それに近いことが出来はしないだろうかと考える人も多く出てきた。だが、ここに住んでいても全く彼らを見たことのない人間は、やはりまだ半信半疑だった。
「本物を見たことのない人が言っているだけよ、今はメークの技術も上がっている。きっと、ざわちん、の真似をしている人でもいるんでしょう。だからさっと逃げてゆく。そうでなければ逃げる必要なんてないじゃない。最初はフラッシュモブかドッキリかと思ったけど、それにしては日数がかかりすぎているから。まあ、メークの練習と、モデルの度胸試しのウォーキングの線がいいとこじゃないの? 」
「まあ、若い人はそう考えるだろう。私も見たけど・・・本当にきれいだったと思うのよ。でもまあ、あんたが見てくれた方が、って区会の人も言っているしね」
ある家で年ごろの娘と母親が話していた。彼女の父は今年町内会長で、祭りやどんと焼きの世話をやっていた。もう少しでそれが終わる、あとは慰労会だけというときになってこのことが起きた。
「とにかく、明日の昼間このあたりを散歩してみる、でも最近いないんでしょう? 」
「いなくなったけど・・・まあ・・・お願い」
「有給休暇の消化のためにちょうどいいかもね」と彼女は若さで強気に言っていた。それだけの理由もありはした。なぜならこの町内で彼女が一番数多くのスターを身近で見てきた人だったからだ。
彼女は熱烈ないわゆる「塚ファン」で、宝塚の地方公演は必ず見に行き、年に何回は必ず、大阪の大歌劇場にまで行くことが彼女の生きる目的の一つになっていた。
宝塚のスター達は舞台のための過度な化粧を自分たち自らしている。その化粧も、下絵を写し絵のようになぞっているだけに過ぎない。下絵、完璧なまでの均整の取れた顔がなければ、厚化粧をすればするほど、不均一な醜いものにしかならないのだ。そんな宝ジェンヌ達を自分は何人も真横で見てきた。
「この人たちと自分は本当に同じ人間なのだろうか」
と思うほどに彼女たちは美しい。自分には与えられていないことをずっと嘆くよりは、それを生まれながらに持ち、それを保とうとしている人を素直に応援することの方が、自分の心が正常でいられると思うようになった。給料をつぎ込んでいるが、一応両親と同居で多少の金額は家に入れているため、あまりそのことを親はとやかくは言わない。言わせないために入れているというのもある。だが、今回のことは同じ塚ファンからも真相が知りたいと言われていた。
「とにかく行ってみよう」と昼前に外に出た。
考えればこのあたりを歩くのは久しぶりだった。小さい頃から住んではいるものの、中学、高校、大学になるにしたがって行動範囲は広くなり、逆に自分の家の周りは飛び越してしまっていた。
「え! ここも宅地になったの? 」
身近過ぎるが故の、あまりにも新鮮な驚きだった。小学生の時はこの丘を探検と称して入っていった。別に何があったわけでもなかったが、降りることのできない斜面を見ることが、もしかしたら冒険だったのかもしれないと、今になって考えていた。
彼女は大きな道、吉永小百合似の女性が歩いていた、小学校の真横の車止めで行き止まってしまう道を歩いた。学校は授業中で、とても静かだった。
「この道はまだあるんだ」
彼女は小さな、車一台がやっと通れる私道へと入っていった。この道は体育館の真裏を通り、校庭の猿渡、鉄棒の後ろとまっすぐに伸びた道だった。
学校の中にも自分たちの頃にはなかった建物があり、さらにそれを建て増しの工事が行われていた。
ぼんやりとそれを眺めていると、この道の学校の終わるところから、こちらに向かって一人の女性が歩いてくるのが見えた。
軽やかに歩いているその姿は、まるで音楽にでも合わせているようだった。その目には、少し長めのつけまつげがあった、だがそのつけまつげは目を際立たせるというより、大きなその瞳を隠しているように見えた。足取りは軽いがほんの少しうつむき加減で、小さな顎が猶更細く見えた。それらを見れば彼女はまるで生きていない作り物の様であったが、唇はぽってりとした、いかにもやわらかそうなものだったので、このことが間違いなく、彼女が生きている人間であるということを表していた。
「きれい・・・」
自分が初めて宝塚のスターたちを間近に見た時と、全く同じ様に自然につぶやいた。その女性は、宝塚の女役、お姫様から町の娘までを見事に演じきれるような、表面には純真とかわいらしさと、その奥には上品さと高貴さが見え隠れするような人だった。年齢は自分より上だろう、宝塚を退団するくらいの年齢だ。もしこの女性がそのまま女優となったとしても、悪い下賤な女の役など、年を取っても一生演じることなどない、そんな話すら来ないような顔だった。それが良いとか悪いとか、演技の幅を狭めるとか、そういうことではない。これこそが彼女の生まれ持った「美しさの質」なのだ。それが上質、というのとも違う。水に例えるなら軟水か、硬水かというだけの事なのだ。
その女性はすっと自分の横を通り過ぎて行った。いつものようにスターたちにキャーキャーと寄って行っていくようなことはできなかった。なぜなら彼女の取り巻いている雰囲気は、どこか張り詰めた、それは決して冷たいものでも、威圧的なものでもないが、自分たちが一生見ることのないであろう、舞台袖での緊張感を思わせるものがあったからだった。通り過ぎてもその後ろ姿を見るために、まるで邪魔にならないようにゆっくりと振り返り、視界から消えるまでそれを見送った。彼女が消えると、不意に真正面に女性が見えた。この道の先の家の前で玄関帚を持ったままで動かなかった。それを見て急に彼女は走り出し、その家の前あたりで止まった。
「見た? 」五十年配だろうか、彼女は友達に話しかけるように若い彼女に言った。
「見ました、見ました」
「きれいねえ・・・まるでメーテルみたい。ああ、メーテルってわかる? 」
「わかります、あのアニメの黒い服を着た人でしょう? 」
彼女の表現はぴったりだった。だが自分の中ではそれが明らかに別の誰かだった。そのことも気になるのだが、友人に言われた、使命、指令が、頭の中を激しく動き回っていた。
「この道降りていきました? 」「ええ」「ありがとうございます」
といって、あの美女を追いかけた。道は下り坂で、しかも本物の木のように道が左右交互にのびていた。まっすぐな枝などはほとんどなく、即折れ曲がったり、急に上をむいたり、というものもあった。数段のかなり急な階段の上に、昔からの墓地があるのだ。あちこちにに大小さまざまなお墓があり、そこも幼い頃は探検の場所だった。
「ああ、見えない、複雑だもの」
逆に知っているが故に困難さも十分承知していた。とりあえず、スーパーの棚を見るように左右を確認したが見えるはずもなく、その下にある、例の小さな横断歩道まで行ってみたが影すらなかった。その先の川沿いの遊歩道も同様で、仕方なくそのまま彼女は帰途に就いた。だが家に帰るとすぐに部屋で探し物を始めた。
「ああ、あれは誰だっけ、そっくりな人がいた。昔の宝塚女優だ、今大女優の、えーっと」歴代の宝ジェンヌが載った本をパラパラめくり、あるページで止まった。
「見つけた! この人! そうか八千草薫だ! きれい・・・そう、よく似てた、そっくり、ちょっと唇は石原さとみみたいだったなあ」と解決した。
「確か八千草さんは病気療養中だったな、そうだわ、これから神社に回復祈願に行ってこよう」
彼女は上質なファンだった。
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