第11小節目:金木犀の夜

* * *


 金木犀の帰り道。私は何かに導かれるように、吉祥寺きちじょうじの街を歩く。


 我慢できなくて、泣いてしまうかと思った。


 我慢できなくて、わめいてしまうかと思った。


 高校に入ってから良いことなしだった——ううん、悪いことすら何もなかった私が、今年の6月に奇跡的に手に入れたもの。


 それがもうすぐ終わりを迎えることと、終わりを迎えたこと。


 そして、それを私が選んだこと。


 勇気がいる決断だったと弁明したって、きっと許してはくれないだろう。


 ——許さないでね、お願い。





 駅前の楽器屋の前を通り、


『ジャズ以外でも使うんだよ、ジャズベース。なんでかは知らん』


 商店街サンロードのマックの前を通り、


『いや、ナマモノなんだから早く飲めよ……』


 レコード屋ディスクユニオンの前を通り、


『だって、おれはこのCDに人生を変えられたんだから』


 惑星系ライブハウスの前を通り、


『連れて、戻ってくるから』


 そして、井の頭公園に辿り着く。


『えっと、あれ……?』


 もっとかっこいい思い出シーンだってたくさんあるはずなのに、思い出すのは彼のちょっとサマにならない表情ばかりで。


 逆になんだか、鼻の奥がつーん、と痛い。


 ベンチに座って、すっかり暮れた夜空を見上げる。


『amaneは、おれの憧れなんだ。』

『ゆっくりでいい。ゆっくり、歌えるようになってくれ。だけど、絶対にまた歌えるようになろう』

『おれは、憧れているものに手を伸ばすために』

天音・・!!』


 最初は、不思議な人だと思った。


 自意識過剰なくらいに自分に自信がなくて、何一つ期待していないような、そんな人。


 冷静を装っているくせに、どうしても胸の中にある情熱を隠しきれずに、はみ出した感情は何度も何度も、私の心を貫き、突き動かした。


『……そんなの、嫌です』

『おれは、市川天音に、たった一人の特別な女の子として、恋をしています』


 そもそも恋なんてものを知らなかった私が、初めて恋を知った。


 ……そっか。私の基準は、全部小沼くんになっちゃったんだ。




 彼はいつだって、情けなさそうな顔をして、なんてない顔をして、だけど、まるで物語の主人公みたいに、私を助けに来てくれる。


 私はまるで攫われたお嬢様みたいに、手を引かれるままに歩みを進めていくだけ。


 ずいぶん前に偶然出来上がっただけのわたしうたに支えられて、まるで天才みたいに扱ってもらっているだけ。


 ほら、それじゃ、私は重荷になってしまう。


 彼も、彼女も、彼女も、自分のいる意味をそこに植え付けようと、必死にもがいている。


 私は、どうだ。


 もしも今日初めて出会ったとして、私は、amaneのギターボーカルに選んでもらえるんだろうか。彼の恋人に選んでもらえるだろうか。


 ——その疑念がいくら考えても、晴れないまま、とうとう決定打を打たれてしまった。



『amaneを、……ちゃんと終わらせよう』


 何をしてしまったんだろう、と思う。


 後悔するのかもしれない。


 ううん、もう後悔は始まっている。


 きっと、こんなことをしなくても、上手くやっていく方法はあったはずだ。


 だけどこれは、私が胸を張ってあの・・マイクの前に立つために、彼の隣に立つために、必要なことだった。これ以外の方法が、私には分からなかった。


 この暴挙の結果、それが叶わないのなら、いずれにせよその資格はなくて。




 思っていたほどは器用じゃなくて、かといって、不器用と言ってもらえるほどまっすぐじゃなくて。


 むしろ、他の人から見たら、まっすぐな道を飛び出して、蛇行して、ぬかるみのなかをぐねぐねと進んでいるように見えるのかもしれない。


 もっとすぐに目的地につけるような近道が本当はあって。それこそ、ネットで検索したら出てきちゃったりするくらい簡単なものなのかもしれない。


 でも、近道なんかじゃなくていい。


 近道なんかじゃなくて良いから、私は、みんなと、彼と、なるべく遠くまで行きたい。


 今の私じゃ、いつか、『私を置いていって』って言ってしまうだろう。


 だから、過去これまでがなくても、選んでもらえるように。


 まずは今をなくさないといけないから。


 


 だからお願い。


 全部忘れて。


 これまで一緒に歌った歌も、一緒に見た景色も、一緒にかいだ匂いも、一緒に聴いた音も、一緒に感じた気持ちも、全部全部。










「……忘れないよ」


* * *

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