第39小節目:おやすみなさい

 市川いちかわに手を引かれて、市川邸までやってきた。何度見ても豪邸だ……。


「お邪魔しまーす……」


 なるべく音を立てないように、かすれ声で挨拶をする。


小沼おぬまくん、抜き足差し足になってるよ?」


「いや、だって早朝だし、なるべくおれのいた痕跡こんせきを残さないようにしないと……」


「私は泥棒さんとお話してるのかな?」


 泥棒に『さん』とか付けなくていいのに……。


「小沼くん、お弁当箱預かっちゃうね」


「ああ、うん。ごちそうさまでした……」


 弁当箱を手渡しながら、答える。


「お粗末様でした。まずシャワー浴びるよね? 今日着る制服はあるんだっけ?」


「ああ、うん……」


 というか、とんとん拍子に進む状況に徹夜明けの脳みそがついていかない。なんでおれはこんな日も出て間もない時間に女子の家にいるんだ……?


 ふわふわしたまま、洗面所兼脱衣所に連行される。


「でも、寝る時に着る服は持ってきてないよね? 私の着てもらうわけにもいかないし、お父さんのを着てもらうわけにはもっといかないし。ズボンは私のランニング用のやつを履けると思うんだけど」


「あ、いや、そこまでしなくても……」


「それで、上なんだけどね、昔、サンプルでもらったTシャツがサイズが大丈夫と思うから、これ着てもらえるかな?」


「さんぷるでもらったてぃーしゃつ……」


 何を言ってるんだろう……と思って、市川が差し出してくれたものを見ると。


「こ、これは……!?」


 何かのライブTシャツっぽいなあ、などと寝ぼけまなこで思ったのも束の間、そこには、『amane LIVE HOUSE Tour』の文字が。


「もしかして、amane様のライブTシャツですか……!?」


「呼び方……。うん、そうなんだ。結局ツアー自体ナシになっちゃったし、このTシャツも生産する前に差し止めたみたいだから、結局これを含めて何枚かしかないんだけど」


「激レアじゃないですか……!」


 吾妻あずまに話したら実際に喉から手が出てきてしまいそうなブツである。


「もう、いいから……! とりあえず、シャワー浴びてきて? はい、これ、バスタオルとタオル」


「お、おう……!」


「シャンプーとかリンスとかは好きに使ってね。あ、ボディバーム使うならこれ」


「ありがとう……。……ぼでぃばーむ?」


 首をかしげながら市川の差し出す缶(?)の蓋を回して開くと、クリーム状のものが。


「何これ?」


「お風呂上がりに身体に塗るやつだよ?」


「はあ……?」


 お嬢様はおっしゃることが違うというか、意味不明というか、なんというか。え、クリーム? よく見ると、塩(バスソルトというやつか?)とかもあるし、ここは『注文の多い料理店山猫軒』なのでは? おれ、食べられちゃうのかしら……。


「それじゃあごゆっくり!」


 そう言って、市川が脱衣所から出ていく。


 服を脱ぎながら、市川の家でおれは全裸になるのか……と妙な気まずさを感じる。


 それにしても、準備がよすぎるというか。もしかして、市川はこうなることを予期していたんだろうか。


 ……いや、予期も何も、市川が迎えに来てくれたんだから、こうなるように計画をしていたということなんだろう。


 心配してもらってありがたいなあ、としみじみ思う。


 浴室に入って、シャワーを浴びる。


 うちにあるシャンプーやボディソープとは一味も二味も違いそうな、読めないラベルのやつを使わせていただいて、身体や髪を洗った。


 上がって、髪を乾かして服を着て、こそこそと脱衣所を出ると、さっきまでの服を着た市川が待っていてくれていた。


「こっち、私の部屋」


「い、市川の……」


 言われるがまま向かうと、市川天音の部屋にたどり着く。


「はい、ベッドで寝てください。……私、シャワー浴びてくるから」


「え、なんで……?」


「ランニングしたからだよ……?」


「ああ、はあ、たしかに……」


 ……じゃあ変な溜めをしないで欲しい。


「ほら、早く寝ないと、どんどん睡眠時間なくなっちゃうよ?」


「いや、そうかもしれないけど……」


 とはいえ、さすがに戸惑いもあるんだけど……と思っていると、市川がじれったそうな顔をしてから、「ごめんね」と小さくつぶやく。


「ごめんね?」


 と思った瞬間、市川がおれに抱きついて、


「市川……!」


 そのまま、ベッドに押し倒される。


「おやすみ、拓人くん・・・・


 久しぶりのその甘美な響きに、おれは、意識を手放した。

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