第20小節目:テルマエ・ロマン

一夏ひとなつ』は、沙子さこの家からもおれの家からも車で10分弱のところにある。


 大浴場には、ジャグジー、露天風呂、サウナがあり、畳の休憩スペースには漫画が置いてあって、食事処では座敷でうどんやそば・カレーが食べられて、お金を払えばマッサージも受けられるという、非常に一般的なスーパー銭湯施設である。


 おれは洗うのも含めて30分くらいで上がって、待ち合わせ場所でもある休憩スペースに向かう。


 ちなみに、さこはすママはおれたちを送ってから一旦帰っていて、沙子が出た連絡をしたらすぐに来てくれることになっている。


 友達の母親とお風呂に入るのは気まずいだろうから、という気遣いみたいだ。まあ、おれもさこはすパパと入ることになったら気まずいもんな……。


 普段だったら音楽を聴いて待っているところだが、ヘッドフォンを持ってきていないので、本棚からマンガを取り出す。


 ちなみに、タイトルは『サどう』。サウナって本当にこんなにいいのかな……。


 1話読み終わったくらいのところで、顔の前で手のひらが揺れる。


 顔を上げると、頬を上気させた吾妻あずまが「やっほ」と指先をお辞儀させた。


「おお、早いな」


「あたし、カラスだから」


「カラス……?」


からす行水ぎょうすいってこと」


「ああ、そういうことか」


 言いながら吾妻はテーブルの向かい側にいわゆる『お姉さん座り』で座る。


「ていうか、ちょっと、これ見て」


「ん?」


 テーブルの上に白と水色のラベルの缶が置かれる。


「缶のカルピス、あったんだけど……!」


「おお……! まじか……!」


 おれにとっては大したことじゃないはずなのだが、青春部部長にとってそれがかなりのサプライズである、ということを知っているので、同じテンションで目を開いてしまう。


「いやー、ペットボトルはあるけど、お風呂上がりにカル缶が飲めるのはやばいね……!」


「かるかん……」


 それはよく知らんけど猫の餌かなんかじゃなかったっけ……?


「で、沙子とゆずは? サウナ?」


「ちょっと、妹ちゃんはともかく、さこはすの風呂の中での動きも把握してるのはキモいから……」


 吾妻さん、ドン引きである。


「いや、把握してるのは妹ちゃんだけだし。家族で来ると、いつも母親とゆずがサウナ入るから待たされるんだよ。沙子も出てきてないならゆずに付き合わされてるんだと思っただけ」


「ふーん? まあ、その通りだけど。ていうか小沼はサウナーじゃないんだね。『ととのう……!』とかいうタイプだと思ってた」


「いや、水風呂入ったら心臓止まりそうじゃない? あれだけは一生理解出来ないと思うわ……」


 興味はあるんだけどな。『サ道』読んじゃうくらいには……。


「そういう吾妻も、サウナ好きそうだけど」


「いやあ、あたし、のぼせやすいから。昔からお風呂って長く入れないんだよね」


「へえ。そういう体質なのか?」


「体質っていうか、ほら……あたし、オバケがほんのちょっと苦手じゃん?」


 そう言われて、合宿の時の肝試しの吾妻を思い出す。


「ほんの、ちょっと……?」


「ムカつく顔すんなし……! とにかく、だから、お風呂って怖いんだよ。それで、パパッと入るくせがついちゃって。まあ、体質もそうなのかも。鼻血とか出ちゃうことあるし」


「ああ、それこそ合宿の時も」


 女子風呂で倒れてたらしいよな、と言いかけて、これはさすがにキモいので控えた。


「……なんでもない」


「ああ、あれは、天音あまねのせいだから!」


 それでも、その程度のことでは誤魔化せないらしく、吾妻は胸の前で手を振る。


「知ってる? 天音の身体ってめちゃくちゃ綺麗なんだよ? ……あ、知ってるかどうか教えなくて良い」


 吾妻はおれの心を本気で読みたくないらしく、自分の目を自分の両手で塞いだ。『よつばと!』でよつばがこんなポーズ取ってるの見たことあるな。


「……あ、鼻血出てきそう」


「思い出したのか……!?」


まぶたの裏のスクリーンに投影された……」


「そこ、ポエムりょく使わなくていいから……。忘れろ忘れろ。手を外せ」


「うう……!」


 吾妻はそろー……っと、指を開いて、おそるおそるおれの顔を見た。


「なんだ、知らない、のか……」


「ああ、うん……」


 ……うーん、気まずい。知ってるよりは気まずくないのか?


「あー……そんで、練習メニュー、決まったのか? 今日」


「ああ、うん。めちゃくちゃベタだけど、やっぱりメトロノームに合わせて練習する予定」


「まあ、そうなるよな……」


 楽器を一定以上真剣にやろうとした場合、99%くらいの人が言われるであろうのがこれだ。


「やっぱり、メトロノームの音を消すようにってやつか……」


「何それ?」


 だけど、おれの言った方法論は知らないらしく吾妻は首をかしげる。


「あれ、もしかして打楽器だけか? 練習台をメトロノームと全く同じテンポで叩くと、メトロノームの音が全く聞こえなくなるんだよ。中学時代そうなるように一生懸命練習した」


「へえー、面白いね」


「だからメトロノームとかも、ポッポッって鳴る電子音のやつよりも、もっとカッカッって鳴るやつの方がいいんだってさ。ポッポッって鳴ると音の幅が広くてストライクゾーンが広くなるっていうか」


「ふーん」


 ポッポッとかカッカッとか、擬音ぎおんまつりなおれの説明にも、吾妻は素直に感心してくれている。


「ていうかそれ、舞花まいか部長も言ってたかも」


「うわ、じゃあ絶対正しいじゃん」


「ちょっと、今度は舞花部長の信者になったの……?」


 ジト目で見られてしまう。いや、違うんすよ、そうじゃないんすよ。短期間かもだけど、あの人に師事することにしたので……。


「まあ、普通の練習になっちゃうけど、練習したら出来ることしか、あたしには出来ないしね」


「それがすごいんだよなあ、吾妻は……」


 当然だけど、『練習したら出来ること』が出来るようになるには練習しないといけない。


 普通はそれが苦しくなって、自分に言い訳をしてサボってしまうものなのだ。


 おれも、結局、明日の神野さんからのレッスンは、そんなことを実感させてもらうためのものなのかもしれない。というか、練習って、つまるところはそんなもんなのだろう。


 おれも頑張らなきゃな、と気合を入れ直した時に、


「ふおぉ……」「拓人……」


 目をとろんとさせたゆずと沙子が出てきた。


「めっちゃスッキリした……」


「ととのったよ、たっくん……」


 そう言いながら座敷に大の字になる沙子とゆず。


「ゆりすけー……」


 沙子はそう言いながらずるずると移動をして、吾妻の太ももに頭を載せる。


「おうおう、さこはす。どうした」


 吾妻がその金髪をすごく自然に撫でながら微笑む。


「ゆりすけ、柔らかい……」


「お、おう……。……ねえ、それ、喜んでいいやつ?」


「もちろん……」


 言いながら沙子は瞳を閉じる。


「え、寝るの?」


「寝ない、めっちゃ今夜頑張る」


「そうかいそうかい」


 沙子が目をバキッと開いて、吾妻がまた柔らかく笑った。


 向かい側でさこゆりしているうちに、おれの足にも頭が載っていた。


「おいゆず、兄の膝でととのうなよ……。ていうか髪の毛濡れてんだけど」


「うるさい枕だな……」


「枕じゃねえし」


 服が濡れるのが嫌なので、ゆずの手元にあったバスタオルを折り畳んで、やや乾いている方を下に、ゆずの頭と自分の脚の間に挟む。


「……なんか、結構お兄ちゃんなんだね、小沼って」


 吾妻が頬杖をついて微笑んでいる。


「いや、おれがお兄ちゃんっていうかこいつが妹なんだよ」


「何その謎理論、うける」


 ひとしきり笑ってから、また表情を変えて、呟いた。


「だから、かなあ……」

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