第72.1小節目:香水

 4時間目の体育が終わり、昼休み。


 売店にでも行くかと立ち上がったそのタイミングで、


肌寒はだざむいねえ、たくとくん」


「そうなあ……え?」


 おれの席の横を通った英里奈えりなさんが、おれが椅子にかけていたカーディガンを当然みたいな顔をして取って、当然みたいな顔をして羽織はおった。


「いやそれ、おれのカーディガンなんだけど」


「えぇ? 肌寒いから貸してって言ったじゃんかぁ」


「言ってないじゃんか」


「言ったもんー。ほら、売店行くよぉ?」


「ええ……」


 まあ、売店には行くけど……。





 ピンクベージュの髪をふわふわと揺らしながら鼻歌など歌って歩く英里奈さんの右を歩いていると、英里奈さんが謎にこちらの方に近づいてくるので、同じ分だけ右に動く。ぶつかるんですけど……。


「なんで離れてくのぉ?」


「いや、なんで近づいてくるの?」


「えぇー」


 ふくれっつらだがまったくもって意味不明である。


「たくとくん、何か気づかないー?」


「え、なに……?」


 廊下の真ん中、英里奈さんが自分を指差しながらあざとく首をかしげる。


「ていうかそんな質問がおれに答えられるわけないんだけど……。別に英里奈さんの彼氏でもなんでもないし」


「ふぅーん? じゃあ天音あまねちゃんの変化には気付けるの?」


「……そうでもない」


 ていうか『髪切った?』とか聞いたことないな。切ってないってことはないだろうからまじでおれ気付いてないんだな……。どうなんだ、それって。


「じゃぁ、えりなで練習しておこぉー!」


 おぉー! みたいな感じで右腕をかかげる英里奈さん。おれのカーディガンを着ているもんだから、そでが余って折れて垂れ下がってる。


 まあ、たしかに練習はしておいた方がいいかもしれない。


 ……じゃあ、定番の質問から。


「髪の毛を切った?」


「ノー」


「爪を塗った?」


「ノー」


「いつもと髪を結んでる位置が違う?」


「ノー。全然ダメだねぇ、たくとくん。テキトーに言ってない?」


 いや、そんなこと言われても全然分かんないし……。


 じゃあ、もう少し広い情報から絞ってくか。


「それは見た目に関係することですか?」


「ノー」


「気分に関係することですか?」


「ノー。あ、でも、気分は変わるかもぉ」


「それは良い気分になることですか?」


「イエス!」


 いやこれ、ただのウミガメのスープだな……。


 見た目に関係しなくて、気分が上がるものってことは……。


「……匂いを変えた?」


「正解ぃー! 香水つけてるの!」


「ああ、そうなんだ……!」


 うん、答えがわかった喜びはあるものの、これは水平思考ゲームに勝っただけで別に英里奈さんの変化に気付いたわけじゃないから練習になってないよな……。


「ねぇ、どぉどぉ?」


 おれの内心などどうでもいいのか、英里奈さんはれ犬みたいに頭をぶんぶんと振る。ふわふわのツインテールから甘い匂いがこちらに届いてきた。


「ああ、うん、匂いするよ……。なんで香水変えたの?」


「変えたんじゃないよぉ、付けるようになったんだよぉ!」


「ほーん……」


 いつも良い匂いがしてる気がしてるからよく分からなかった。きもいから言わないけど。


「どぉ? 良い匂い?」


「そうなあ……」


「なぁんかテキトーじゃない?」


「そうなあ……」


 だって、良い匂いとか言うわけにもいかないし、かと言って変な匂いとか言うわけにはもっといかないじゃん。


「で、なんで香水?」


「なんとなく気分が上がるじゃんかぁ。さっきまで体育だったしねぇ。えりなは汗かくの止められるから全然くさくないけど、でも一応? 着替え終わってから香水付けてみたんだぁ」


「そういうもんすか?」


「そういうもんすよぉ」


 ていうか、えりなは汗かくの止められるのか……。ベテラン女優かなんかなのかしら。


「たくとくん的にぃ、香水つけてるのとつけてないのどっちがいいー?」


「おれに聞くなよ、それこそ……」


 おれは周りを一応見回してから声を落として、


「……はざまに聞くとか」


「いやぁ、健次けんじに聞いてダメって言われる前にたくとくんに聞いてるんじゃんかぁ」


 またぶかぶかになったカーディガンの袖を振りながら「たくとくんはたくとくんだなぁ」とか言ってくる。


 たくとくんがまた悪い意味になってるのは釈然しゃくぜんとしないが、まあ、一理ある。一理あるけど、でも。


「でも、別に、誰がなんといおうと、英里奈さんが自分的に気分上がるんだったらなんでもいいんじゃないの? そういうのって」


「……ほぉ?」


「ほぉ、ってなんだよ?」


「たくとくんのくせに、ちょっと良いこと言うねぇ! そぉかもしれない!」


 余った袖でおれの背中をぽんぽんと叩いて上機嫌にしている。うん、なんか知らないけど喜んでくれたならそれでいいや。



 …………いや、ちょっと待てよ?


「なあ、英里奈さん」


「んー?」


 英里奈さんが余ったそでを口元にやって首をかしげる。



 ……今、絶賛その香水の匂いがおれのカーディガンに付いているのでは!?




「英里奈さん、すぐにカーディガン脱いで!」


「えぇ、なんでぇ!? 寒いんだけどぉ!?」


「なんでもだよ! 脱いで!」


「そんなに言うなら自分で脱がせばいいじゃんかぁ……。ほらぁ」


「……っ! いや、頭おかしいんじゃないの?」


 両袖をこちらに差し出してくる英里奈さんに一瞬何か大事なものを失いそうになりながらも踏ん張ってツッコミを入れる。成長したよ、たくとくん!


「もぉ……」とか「こぉいうのって脱がすのが楽しいんじゃないのかなぁ……」とか言いながら英里奈さんがおれのカーディガンを脱いでおれに渡してくる。


「やっぱり寒いよぉー」


 おれは英里奈さんが不満そうにしているのを無視して、取り上げたカーディガンを少し顔に近づけた。


「うわ、やっぱりついてる……!」


 ちょっと着てただけだけど、香水をつけた直後にカーディガンを着たからか、ばっちり匂いが染みてる……!


「たくとくん、もしかしてえりなの匂いをかぎたかったのぉ? ……あ、やば」


「違うよ! いや、そうじゃなく……て……? どうした?」


「たくとくん、うしろ……」


 いきなり顔面蒼白がんめんそうはくになった英里奈さんが指差す先、おれの背後を振り返ると。


「何してるの?」


 ……天使が鬼の形相ぎょうそうをして微笑ほほえんでいた。


「……どこから見てましたか?」


「私の恋人が他の女の子に『服脱いで!』って言ってるところから」


 ああ、女神様……!


「ち、ちがう! これはそうじゃなくて……!」


 戦慄せんりつするおれの肩をぽんと叩く悪魔。


「終わったねぇ、たくとくん。えりなのドルチェアンドガッバーナの香水のせいだね」


「いや、英里奈さん自身のせいでしょ!」


小沼おぬまくん、それ一旦いったん私が着るから、そのカーディガンそのまま貸して?」

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