第1曲目 第19小節目:声
新小金井の駅から電車を乗り継いで、スタジオに到着する。
「マイク何本いりますかー?」
カウンターで店員に聞かれる。
「あ、1本で大丈夫です」
「2本で!」
おれが答えるのを遮って、市川が言う。
2本、という意味で立てているのだろうが、ピースサインをしながら話しかけているみたいでちょっと間抜けだ。
「おれ、歌わないよ?」
「いいからいいから!」
「2本すねー」
金髪にメガネのバイトがカゴに2本のマイクとマイクシールド(ケーブルのことだ)を入れて渡してくれる。
スタジオの中に入ると、市川がストレッチをしはじめる。
「んしょ、んしょ......」
なんだ、その可愛い感じの声......。
てか地味に個室に二人きりだな......。
なんだか所在無くなってしまったおれは、マイクスタンドを立てることにした。
と、市川は地べたに座って、開脚前屈を始めた。
......ええ!?
スカートから太ももがちらっと出てきて、前かがみになったYシャツの胸元から何かが見えそうになる。
「いや、市川、それ......!」
「んえ?」
無邪気にこちらを見てくる。
「い、いや、なんでもない......」
おれが見なきゃ良いんだ......。実際別に見えているわけではないんだから......。意識しすぎだ、おれ......。
念仏を唱えながら、目をつぶってマイクスタンドを立てる。
「よし!」
スカートをパンパンと叩く音がする。
おれはそろーっと目を開ける。よかった、立ち上がってくれたらしい。
「小沼くんマイクありがとー!」
そういって、アコギをケースから取り出す。
マイクの前に立ってアコギを構える市川を見ると、なんだか感慨深いものがあった。
「なに? じろじろ見て」
「あ、いや......」
少しだけ、感動してしまったのだ。
おれの作曲人生の原点みたいな状況に、こんなに至近距離で立ち会えてしまったことに。
「小沼くん、コード教えて」
「わ、わかった」
スタジオの中に取り付けてある小さなホワイトボードに、おれはそっとコードを書いていく。
書き終わって、準備完了。
「よし、じゃあ、歌ってみるね」
そう言って、ギターを構える。
おれは丸椅子に座って、ぼけーっとそれを眺めていた。
「歌いまーす......」
「おう」
市川が咳払いをする。
「うんうん、コード、これね......」
「ん? うん」
「えっと、歌詞は、これか......」
「そうだけど......」
「おっけーおっけー、そんじゃ、いきまーす」
「おう」
「すぅー、はぁー、呼吸を整えてっと......」
「市川?」
「あ、あ、んー、んー」
「市川......?」
一向に歌いだす気配がない。
「もしかして......」
おれがそう言うと、眉毛を八の字にして市川が笑う。
「ちょっと、緊張しちゃって」
市川の手元がかすかに震えていた。
「......怖いのか?」
「......声、出るのかな、って」
呟く声が、部屋の隅っこに溶け込んでしまう。
「だけど、これは自分の曲じゃないだろ?」
「そう、そうだね」
何回か頷く。自分に言い聞かせるように。
「だけど、自分の曲として、歌うから」
「市川......」
すると、市川は目を閉じて、ふぅーっと息を吐いて、すぅーっと息を吸う。
これは......
「インストアライブの時と同じ......」
曲を始める時の儀式だ。
「よし」
市川の瞳に迷いが無くなる。
「小沼くんが頑張ったんだから次は私がやらなきゃね」
その凛々しい姿を、おれはぼーっと見上げていた。
ちらっとこちらをみた市川と目があう。市川の頬がほんのり赤くなる。
「小沼くん、そんなに見なくても......」
「あ、ご、ごめん」
おれもなんだか照れてしまってうつむいてしまう。
何? この妙な雰囲気は......?
「歌ってみるから、ちょっと、むこう、向いてて......」
「お、おう......」
おれは後ろを向く。
すると、衣擦れの音がした気がした。
「んしょ......」
なんすかなんすか......。
「じゃ、歌うね」
え、今どんな状況? 服着てる?
だけど、そんな悶々とした感情は、そのあと、一瞬で吹き飛ぶことになる。
だって、アコギを爪弾く音がしたのだ。
あの、amaneのアコギの音で。
おれが作ったはずの曲のイントロが鳴っている。
おれは、その瞬間の幸福感で、心ごと持ってかれてしまった。
『目覚まし時計に追いかけられて家を出た』
吾妻の書いたその歌詞がそっとamaneの声で紡がれていく。
背中からぞわぞわっと鳥肌が立つ。
なんだ、これ。
あの声だ。
おれがずっと探していた声だ。
あっという間に4分が過ぎる。
最後のギターのストロークを終える。
おれはただただ震えていた。
「声、出た、良かった......」
市川がふう、と息を漏らす。
「小沼くん、どうだったかな......?」
「......いいんじゃないか」
おれはそれだけを言うと、そのまま前を向いていた。
「......そっか、よかった」
その時の表情を見られるわけには、いかなかったから。
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