第四章 過去編少年期

六十八話 魔界に落ちた人間

 ――百年前、僕は魔界に落ちた。

 

 だが、すぐにそこがどこか分かったわけではない。

 存在すると噂で聞くことはあっても実際に目にしたことはないのだ。思い至らなくて当然だろう。それに当時の僕は大した知識も経験もない十五歳の少年だった。


 視界に映る赤い空と赤い大地。

 鉄と獣臭が鼻を突いた。


 最初の感想は『なにもない』だった。


 赤いむき出しの大地がどこまでも続いている。一言で言えば荒野。不毛な土地に砂混じりの乾燥した風が吹き抜ける。

 僕は立ち上がろうとして身体が重いことに気が付く。心なしか呼吸も苦しい。

 それはまるで水の中で呼吸をしているかのようだった。普通水の中で呼吸なんてできないけど、あえてたとえるならそう表現する。この身体にまとわりつくような感覚はそれしか表現できない。


 僕はまず状況を確認するべきだと考えた。

 この異常な現状を一刻も早く理解すべきだと。


 周囲を見渡し注意を引くものを探す。


 目に飛び込んだのは遺跡。石柱に囲まれた石の舞台は僕が直前までいたものとそっくりだった。言うまでもなく僕がここに来る原因となった遺跡と深い関わりのあるものだろうことは予想できた。いや、があると言うべきか。

 あのぐねぐねしたトンネルを通ってここに放り出されたのだから、そう言う方が正確だと思われた。


 僕は遺跡を観察して戻る方法を考えた。


 ここがどこかは今は棚上げしよう。僕はルナやテトの元に戻らなければならないのだ。二人もさぞ心配していることだろう。戻って安心させてあげなければ。


「あれ? おかしいな……」


 この時点ではまだ戻れると信じていた。行きが簡単なのだから帰りも簡単だろうという思い込みがあったからだ。魔界に関しての知識があればもっと早くに取り乱して絶望を味わっていたはずだ。無知故にポジティブに考えることができていた。救いがあったとすればそこだろう。


 僕はここへ来た状況を再現して帰還を試みる。

 何度も血を垂らし待ってみたがあの球体は現われなかった。


 そこで僕はがいないからだとひとまず結論づけた。


 ここへ来たのはあの妖精の仕業だと考えたからだ。

 次に行ったのは妖精探し。周囲を捜索してあの妖精がいないか探し始める。

 この頃になると僕は少し焦りを覚えていた。もしかしたら帰れないかもしれない、そんな言葉が頭の中に浮かんで慌てて否定した。そんなことはあってはならない僕は必ず帰るのだと強い感情でその都度上書きした。


 結論を言えば妖精はいなかった。


 僕はどうすれば帰れるのか分からず途方に暮れる。抱いていた楽観を誰かに笑われた気がした。

 赤い地面に座り込んでただただぼーっと地平線を眺めた。思考がまとまらず次に何をすべきなのか、僕にどのような危機が差し迫っているのか想像ができなかった。

 物語の主人公ならきっと僕は何かを察して次の行動に移っていたかもしれない。だがしかし僕は主人公でもないし物語の主要人物でもなかった。数年前にできたばかりの村で暮らす何の変哲もない村人なのだから物事をスムーズに進めることなんて無理な話だった。


 だから僕が地獄を味わったのも至極当然だったのだ。


 ――夜が来た。


 赤い空が紫に染まり日が沈む。

 夜空には星空が瞬き大地に凍えるような寒さが下りる。

 僕は遺跡の近くで身を縮めて必死に耐えた。


 もしかしたらもう一度あの黒い球体が現われるかもしれない、そんな期待を抱いて待ち続けたのだ。


 だが、当然ながら球体は現われなかった。


 翌日になって僕は喉の渇きと空腹に襲われる。


 昨日から何も口にしていないのだから当然だ。今まで気が付かなかったのは気が張っていたからだろう。僕はこの状況下で何より優先して探すべきだったのは、食料と水なのだとようやく思い至った。


 死んでは帰還を果たすことはできない。

 僕は二日目にしてようやく本格的な探索を開始した。





 遺跡から遠く、地平線に町らしきものが見えた。

 僕はまずはそこを目指して進むことにする。


 一応だが歩きながらも食料と水を探した。

 この地は水分を容赦なく奪う。唇は乾いて肌はかさつく。

 一刻も早く水が飲みたい気分だ。


 しかしながらそんな都合良く水があるわけもなく、ふらつく足でひたすらに前へ前へと町らしき場所へと近づいた。


 ここはどこだろう。なぜ空はこんなにも赤いのだろう。

 言葉は通じるだろうか。あの遺跡はなんだったのだろうか。

 妖精はどこへ行ったのだろう。どうすれば帰れるのだろう。


 疑問は尽きない。なのに答えてくれる人はいなかった。


 かさかさ。音がして目を向けた。

 そこには小さなトカゲがいた。


 だが、僕はそれを食料とは見なさなかった。まだ余裕があったからだ。

 よく見ればそこら中に小さな生き物がいたが、見て見ぬ振りをした。余計な体力を使いたくないってのもあったからだ。

 捕まえたところで火を付ける道具もない。


 程なくして僕は町に着いた。


 そこは千人くらいが暮らしていそうなそこそこの町。

 見ようによっては村と言えなくもなかった。

 どちらにしても僕は人がいると分かって安堵した。


 しかし、町に入ったところで僕は足を止めた。


 暮らしていたのは異形の者達。道行く人々の姿は千差万別、蟹のように大きなハサミを腕に持つ人型のトカゲ、二つの頭部を持つ人狼、蜂のような身体に女性の顔をした異形、その中には人の姿もあり景色は混沌と化していた。

 僕は怖くなった。ここがどこだか分からない恐怖をはっきりと自覚した。


 それでも僕は町の中に入り観察を続けた。


 逃げ出したところでこの現実は変らない。そう思えたのは村人として生きてきた積み重ねがあったからだろう。今年は作物が不作、家畜が病気で死んだ、知り合いが魔獣に殺された、当たり前に送ってきた理不尽な人生が今の僕をなんとか支えていた。

 もちろん正気を疑いもした。何度も何度も頬をつねったが見えるものに変化は起きなかったのだ。故にこれが現実であることはすでに疑いようがなかった。


「あ、あの!」

「ん?」


 僕は勇気を振り絞って人に声をかけた。

 振り返った女性は見とれるほど美しく僕はしばしぼーっとする。


「何の用だガキ」

「実は道に迷ってしまって。ここがどこだか分からないんです」

「迷子か……しかし、ガキの魂なんて喰っても腹の足しにはならないな。まぁいいさ。で、お前はここがどこだか知りたいのか」

「はい」


 彼女が発した不穏な言動はこの際聞き流す。

 僕は次の言葉をどうしようもなく聞きたかったからだ。


「ブロウの町だ」

「それはどこにあるんですか?」

「トイオックスのルオール地方だ。元締めのピスターチという男が一応は治めてはいるが、実質無法地帯の荒くれ者が集まる辺境さ」

「聞いたことがないです。グランメルンから近いんですか」

「は? グランメルンっていやぁ人間界の国じゃないか。あんたもしかして人間のガキかい?」


 女性は妖しい色を浮かべてこちらを見る。

 本能的な危機感を抱いた僕は慌てて否定した。


「あ、間違えた! 覚えたばかりの名前だったからつい口から出ちゃった!」

「そうかい。なら気をつけな。人間のガキと間違われたらあっという間に食い殺されるよ。このじゃあね」

「は、はい……」


 女性は興味を失ったのか挨拶もせずにこの場を離れる。

 僕はその背中を見ながら教えられた事実に身体が震えていた。


 どうやら僕は魔界に落ちたらしい。


 同時に腑に落ちた気もした。ここは人間界で語られる悪魔デーモンの世界、僕はあの遺跡を通じてうっかり異界へと落ちてしまったのだと。だが、それでもなおまだ希望は抱いていた。この時の僕は魔界から帰還した人間も存在すると勝手に思い込んでいたからだ。

 来られたなら帰る事もできる、この考えは揺らいではいなかった。


 僕は町の散策しつつ水と食料を探した。


 勇気を振り絞って悪魔に話しかけたりもした。もちろん軽くあしらわれるだけで相手にもされない。この世界では力のない子供は話をする価値もない、そんな印象を受けた。


 空腹と乾きに耐えきれなかった僕は、気が付けば店の裏側にあるゴミ箱を漁っていた。


 もうそれしか今を凌ぐ方法が思い当たらなかったのだ。

 お金がない僕には店を利用する選択は端から与えられていない。

 しょうがなかった。これしかなかった。


 ゴミ箱を漁りながら僕は腐敗臭にえずく。

 吐き気が止まらない我慢のできない臭いだった。

 蝿がぶんぶん飛んでいて最悪の気分だ。


 僕はその中から食べかけの骨付き肉と革製の水筒を見つける。


 水筒の中はちゃぷちゃぷ言っていて、まだ三分の一程度水が残っているのが分かった。

 僕はゴミ箱の陰で肉をむさぼり水筒の水を飲み干す。


 多少だが気持ちが落ち着いた。


 肉を食べ終わるとゴミ箱を漁って食べられそうな食料を探した。

 食べかけのパン、食べかけの野菜。残念なことに水筒はもう見つけられなかった。

 空腹が紛れたところで僕はそのゴミ箱を離れ、何件かの建物の裏を確認した。


 それはあった。井戸だ。


 こんな土地だからなのか井戸は共同になっていて、誰でも無料で使えるようになっていた。

 面白いのは井戸にはレバーが付いていて、レバーを上下させる度に綺麗な水が地下からくみ上げられていた。

 僕は拾った水筒を軽く洗ってから水を入れ、その後死ぬほどお腹を膨らませた。


 正直安堵した。数日程度なら空腹も我慢できるけど水だけはないと生きて行けない。

 特にこんな乾いた土地では。僕は心底ほっとした。


 ひとまず水は良しとしよう問題は食料。人間界へ帰還するまでの間、どうにかして空腹を凌がなければならない。ぱっと思いつくのは労働だが、この地に僕なんかに与えられる仕事などあるのだろうか。

 迷っている暇はない、やるべきことをやってから考えよう。


 それから僕は目に付いた店に入り交渉をした。

 だが、先に述べたとおりこの地は子供を相手にしない。僕はどこの店でも追い返されてしまった。


 日が暮れ始め、僕はゴミ箱にあったぼろきれを片手に遺跡へと戻る。


 まだ帰れると言う希望は失っていなかった。

 あそこでどうにかすればまたルナとテトに会えると信じていた。


 僕は震える寒さに耐えて夜を越した。





 僕の遺跡と町を往復する毎日が始まった。


 日に日に身体は痩せて行き、自覚するほどに神経はすり減っていた。

 それでも町に行ってはゴミを漁り飢えを凌いだ。決してお腹いっぱいにはならないが、それでも食べられるのは幸運だ。まともなゴミがない日は、僕は地面を走るトカゲを捕まえて口に放り込んだりもした。

 いつしか僕は食べられるならなんでも口に入れるような思考回路を形成していた。

 贅沢など言っていられない状況にまで追い込まれていた、と言うのもあるが生きることに必死で味などどうでも良くなっていたのが一番だろう。


 一ヶ月を過ぎる頃には僕は町の有名人になっていた。


 さすがに無関心を装う悪魔達にも、町のゴミ箱を漁る子供がはっきりと見えてしまったようだ。自分では分からなかったがひどい悪臭を漂わせていたらしい。ただ、それが幸いして小動物に餌をやるように僕に食べ物を恵んでくれる人……ここは悪魔と呼ぶべきか、そんな優しい悪魔も存在していた。

 とはいってもあくまで食べ物を恵んでくれるだけ。世話をしてやろうなんて奇特な気持ちを抱く者は皆無だった。


 一つだけこの地に来られて良かったと思うことがある。

 それは魔獣がいなかったことだ。出てくるのはせいぜいトカゲや虫。中型や大型の獣はこの辺りをうろつかない。餌がないからだ。

 そのおかげで僕は敵に襲われることなく日々を過ごすことができていた。


 一方で僕は焦燥感を抱いてもいた。

 いくら待っても人間界に戻ることができないからだ。

 思いつく限りの方法は試した。より大量の血液を舞台に流してみたり、思いつきで水を掛けたこともあった、神に祈りを捧げてみたことも。だがしかし、いずれも僕の望んだ結果を迎えることはなかった。


 そして、僕はそろそろ限界に近づいていた。


 この地に留まる意味を見いだせなくなっていたのだ。

 もしかしたら帰る場所は別にあるのでは、そんな考えがよぎり始めていたのである。

 人間界では触れてはいけない土地が複数存在する。同様に魔界でもここみたいな場所が複数存在すると考えるのは自然だろう。僕はここがダメなら別の場所で帰還を果たせるのではと考えていたのだ。


 それはそうと差し迫った問題もあった。

 この日の僕は二日ほど何も食べてなくて酷く空腹だったのだ。

 ここ最近、店から出るゴミは妙に綺麗だった。もしかすると店主が僕の存在を疎ましく思い、客に残すなと言っているのかもしれない。

 おかげでまともな食事にありつける機会が減っていた。


 だが、町に入って僕は違和感を抱いた。


 やけに人気がないのだ。大通りにはいつも大勢の悪魔が行き交っていた。なのに今日に限って誰もいない。妙な静けさに満ちていた。


 僕は町の奥へと行く。


「ひっ!」


 そこにあったのは山積みとなった悪魔の死体。

 ただ一つ動くものがあった。

 それは肉を喰らう人型の異形である。


 巨人かと見紛うような体躯に青白い皮膚をしており頭部は牙の生えた馬だった。露わになっている上半身は筋肉が隆起し、太い血管が浮き出ている。

 そいつは大きな目をぎょろりとこちらに向けて血まみれの口で笑った。


「いけね。つい腹が減って食っちまった。しばらく我慢しようと思ってたんだけどなぁ。つーか、どいつもこいつも美味そうなのが悪いんだよ。ヒヒン」


 悪魔は立ち上がって去って行く。


 残された僕は呆然と両膝を屈していた。


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