六十九話 歩き出した少年

 馬顔の悪魔は大量の死体を残して去って行った。

 残された僕は茫然自失となり目に映るものをただただ見つめる。


 悪魔の本性を見た気がした。


 どんなに人に似ていても僕とは全く違う別の生き物なのだ。奴らは同族の肉を喰らい魂を啜る、そんなことは始めから知っていたのに、僕はいつしか悪魔を人のように見ていた。なまじ話が通じることで勘違いをより強固にしていたのだ。

 改めて思い知る。ここが人間界ではない場所だと。魔界だと。


「……ごくり」


 僕の視線は悪魔達の肉で止まっていた。


 あの馬顔が美味しそうに肉をむさぼっていた光景を思い出す。

 胃袋はすでに空腹で限界を迎えていた。今すぐにでも何か口に入れたい衝動に駆られる。頭ではダメだと分かっているが、足は勝手に動き一歩ずつ進む。目の前の肉がどうしようもなくご馳走に見えてしまっていた。


 やめろ。それだけはだめだ。

 もう戻れなくなるぞ。


 理性でブレーキをかけるが本能が強力な力で僕を引っ張り死体へと向かわせる。

 足は次第に速まり気が付けば走っていた。


「あむっ、あぐっ!」


 僕は悪魔の肉を口に頬張る。未だに血が滴る瑞々しい新鮮な肉。

 嫌悪感や忌諱感は完全に麻痺していた。それよりも食事にありつけたことへの歓喜が僕をどうしようもなく満足させた。涙が出るほど美味い。だめだと分かっていても手と口が止まらなかった。

 唯一の救いは人の形をしていない悪魔が沢山いたことだ。

 そのおかげで人を喰らう感覚は皆無だった。


 無我夢中で食らい続け唐突に正気に戻る。


「うぐ……おえっ!」


 何を食べているのか思い出して嘔吐した。

 だが、今さら拒否したところでもう遅い。僕は知ってしまったのだ悪魔の味を。

 悲しいことにそれらは甘露だった。肉は今まで食べたどんな肉よりもジューシーで柔らかく身体に溶けて行く感覚があった、血はどんな果実酒よりも甘く僕を酔わせる。

 もっと食べたいと思わせるなにかがあった。


 直後、僕の身体を激しい痛みが襲う。

 焼け付くような熱さが一気に広がり毛穴という毛穴から汗が噴き出した。心臓の鼓動は今までにないほどの速度で打ち続け、空と地面が逆になったかのような感覚を味わった。

 僕は胸を押さえながら町を出る。


 身体を引きずり遺跡までの道程を辿る。


 呼吸は絶え絶えで足が重く歩くだけでやっと。

 視界は揺らめき平衡感覚を失って僕は倒れてしまった。


「いぎ、あがっ、ぎぐぐう!!」


 痛みは継続していた。

 まるで内部から強引に身体を作りかえているかのような体験したことのない苦しみだった。骨がきしみ肉が裂け血が沸騰するような錯覚があった。いや、もしかしたら実際に起きていたことかもしれない。もしそこに観察者がいたならば確かめられただろう。


 僕は大量の血を吐いた。


 まとまらない思考で最悪の未来が迫っていることを予想する。

 悪魔の肉を食べたから罰が下ったのだ。だからこんなにも苦しく死にそうなのだと僕はなんとなくそう思っていた。


 それから僕は三日三晩激痛に耐えた。


 朦朧とする意識の中で、何度もルナがくれた人形を握りしめて生きて帰る事を願った。どんなに惨めでも醜くても僕は必ず家に帰ると自分に言い聞かせた。歯を食いしばり、地面でのたうち回り、指で何度も何度も地面を爪が割れるほど引っ掻いた。






 そして、四日目の朝――。


 僕は起き上がって眩い朝日をこの目で捉えた。

 あれほどあった激痛はすっかりなくなり、感じたことのない力が全身に漲っていたのが分かった。五感は恐ろしいまでの鋭敏さで周囲の情報を伝え、第六の感覚すらもはっきりと認識できる。


 僕は自身の髪がずいぶんと伸びていることに気が付いた。短髪だったはずなのに今では長髪となっている。肉体もやけに筋肉が付いているように感じた。痩せ型で決して筋肉質とは言えなかった僕の身体は、今では引き締まり厚みが増していたのだ。


 ……一体僕の身に何が起きたのだろう。


 だがその問いに答えてくれる者はいない。

 原因ははっきりしていた。その結果がまったく分からないのだ。

 悪魔の肉を食べた人間がどうなるかなど僕は知らなかった。


 喉が渇いたので町に行くことにした。

 幸い空腹感は全くないので今日はゴミを漁る必要もないだろう。


 町ではいつもと変らない光景があった。


 大量の死体も片付けられすっかり跡形もなくなっている。通りでは変らない生活が続けられていた。もしかするとここではああいった出来事は日常茶飯事なのかもしれない。悪魔にとって殺し合い喰らい合うことはごく自然なこと。そう感じるほどになにも変わりがなかった。


 僕は井戸に到着して水を汲む。

 腹がいっぱいになるほど水を飲んで至福の息を吐いた。


 そろそろここを離れるべきかもしれない。あの遺跡で帰還ができないなら別の方法を探すしかないのだ。予想した通り別の場所に同じような遺跡があるのなら、そこを目指すべきだろう。

 僕には無駄に時間を浪費する余裕などないのだ。


 だがしかし、備えはしなければならない。ここは荒野のど真ん中だ。水も食べ物もないまま歩けるほど優しい場所ではない。それに道だって分からない。


 僕はどうすべきか考えながら町の中を歩く。


 ふと、とある店のガラス張りに目を向けて僕は足を止める。


 そこにはうっすらと青藍に目を光らせる少年がいた。


 誰だこいつ。悪魔なのか。

 なぜ僕を見ている。


 まず最初に考えたことはそれだった。

 次に僕はそこがガラスであることに気が付き、それが紛れもなく己自身の姿であることに気が付く。


 それはもう心底驚いた。仰天したと言っていい。


「ひぁ、なんで!?」


 ガラスを見つめて確認する。

 その顔は間違いなくロイ・マグリス。けれどほんの些細な箇所が以前とは違う。

 光る目にやけに目立つ犬歯。明らかに僕の何かが変っていた。身体も前とはほんの少し違う。低めだった身長は十センチほど伸び爪は獣のように尖っている。あったはずのほくろや痣が綺麗さっぱり消えていた。


 一応アソコも確認する。


「おおおっ」


 これに関しては僕は快く受け入れる。

 大きく長いことは男にとって喜ばしい。


 しかし、一体全体僕の身に何が起きたのだろうか。

 思い当たる節は悪魔の肉、あれが原因で僕に変化が起きたと考えるべきだろう。

 問題は僕がなにになったかと言うこと。


 ただ、その答えはもう出ている様な気がした。


 僕はぼーっとしたままいつものようにゴミ箱へと行く。

 今日は漁る必要もなかったのだが、習慣というのは恐ろしいもので無意識にそっちに足が向いてしまうのだ。現実を受け入れられないままゴミを漁る。


「あ」


 出てきたのは穴の開いたボロボロのリュックだった。

 他にも大量の干し肉。大きめのサイズの水筒などがあり、おまけに携帯用の鍋や裁縫セットなども。

 これは予想だが、恐らく殺された者達の所持品だろう。客が残していった不要な物を店がまとめて捨てたようだ。ここを離れようと考えている僕にとっては好都合だった。


 急いでゴミを持って遺跡へと戻った。


「痛っ」


 慣れない裁縫をしながらリュックの穴を塞ぐ。

 この時間は心地よかった。余計なことを考えず無心に作業をするだけだからだ。それに生きることに必死で最近は集中する機会もなかった様に思う。


「よーし、完成だ」


 リュックを掲げて修理を喜ぶ。

 それから僕は妹に貰った人形の修理に取りかかった。


 僕はずっと人形を握ってあの苦しみを乗り越えた。そのせいで人形の一部が壊れてしまったのだ。これは僕の唯一の支えだ。失うことはできない。


 人形を修理してその日は一日を終えた。



 ◇



 リュックを背負いその上から外套を羽織る。

 僕は昇る朝日を見ながら遺跡を旅立った。


 行き先は未だ不明なままだが、ひとまず町から出ている道を進むことにした。

 他の町に行けば僕の知りたいことも知ることができるかもしれない。それに仕事にありつける可能性だってあった。お金を得ることができれば、地図を買うことができる、それに情報だって金次第だ。

 僕は人間界に帰還する算段が長期になることをすでに覚悟していた。


 荒野に続く道を進みながら僕は己の新しい身体を試していた。


 実に不思議なのだが、今の身体は空腹がほとんどなかった。いや、空腹感はあるにはあるのだ。小腹が空いた程度であまり気にならないと言うべきか。厳しい飢餓感を体験してきた僕にとってそれはほとんどないに等しい。

 それに喉の渇きもほとんどなく持っている水筒の水も未だに手つかずのまま。

 幸先の良いスタートに僕の足は軽やかだった。


 正直に言えば新しい場所に行けるのが楽しみだった。

 一ヶ月以上あの遺跡に張り付いていたせいで刺激に飢えていたのだ。それにできれば悪魔になったことも頭から追い出したかった。今の僕が人間か悪魔かなんて考えたくもない。それが所詮は棚上げにしかならないと分かっていても。


 僕はそれから長い道を歩き続けた。


 雨の降らないこの地は乾燥した風が吹くだけ。

 どこまでも続く赤い大地は終わりがないようにすら感じてしまう。

 世界の果てにたどり着いてしまったような言葉にできない感覚を抱いてしまった。荒野を永遠に歩き続けなければならない、そんな恐怖すら感じた。


 それは不意に訪れた。


 地平線に町が見えたのだ。

 僕は人恋しさから無意識に走り出していた。


 前の町を出て数日が経過していただけに他者と言葉を交わしたい欲求が膨らんでいた。

 知人のいないこの魔界ではことさらに孤独感を抱く。ここは兄弟も両親もお隣さんも村の人達も誰もいないのだ。それどころか人間すらいるかどうか分からない。そんな場所で寂しくないなんて言える奴は僕は尊敬するよ。


 そこはブロウの町よりも大きな町だった。


 住人はざっと見て数千人。ブロウよりも大きな建物が建ち並び、通りには多くの悪魔が行き交う。ただ、相変わらず人の姿をした者や禍々しい姿をした者など混沌としている。これが魔界だ、と言われればそうなのだろうとしか言いようがない雰囲気だ。


「くせっ、何だこのガキ!」

「ひでぇ臭いだ」

「この子、蝿がたかってるわよ」


 町に入った途端、僕は多くの悪魔に迷惑そうな顔をされた。

 彼らは鼻を押さえ道を空ける。


 あまりに過剰な反応なので、一応自分の臭いを嗅いでみるが臭いなどとは思わない。ブロウでは僕の臭いに住人が慣れていたからだろうか。それとも旅の途中でかいた汗が臭いをより酷いものにしているとか。判断がつかなかったので僕はひとまず身体を洗える場所を探すことにした。


 幸い町の近くには大きな湖があった。

 僕は水辺で服を脱いで身体を洗うことにする。


 久しぶりの水浴びは気持ちが良い。


 頭をごしごし洗って垢を落とす。すると周りに段々と魚が集まり始めた。

 どうやら垢を餌と勘違いしたらしい。魔界の魚は一メートルを超すものばかりでゆっくり静かに僕を中心にして回る。


 がちん。脛に小さな痛みを感じた。


 足を上げてみれば大きな蟹がハサミで僕の足を挟んでいるではないか。

 沢蟹の一種だと思うが、甲羅だけで三十センチはありそうな大きさに僕は思わず涎が出そうになる。

 昼の食事はこいつに決まりだ。


 しかし、僕はずいぶんと頑丈になったようだ。沢蟹と言えど大きさはかなりのもの、そのハサミで挟まれたら普通は足がどうにかなりそうだが。今の僕の足は小さな凹みはあっても傷は皆無だ。

 悪魔になったのは良くないことだとばかり考えていたが、案外魔界を生き抜くにはこれで良かったのかもしれない。もちろんだからといって悪魔になったことを肯定するつもりもないが。


 水浴びを終えて僕は早速蟹をゆで始める。

 バラバラにして鍋に詰め込むと煮立つまで待った。


 ほくほくの赤くなった爪を割って身を食べればシューシーな味に大満足だ。

 今まではゴミを漁ってなんとか凌いできたが、これからは狩りを行って獲物を獲るべきだろう。その方が心配も少ない気がする。

 問題は武器をどうするかだが……やっぱりナイフくらいは欲しい。

 そうなるとやっぱりお金が必要だ。


 この町で仕事があればいいのだけれど。


「ぎゃぁぁぁああっ!」


 町の方から悲鳴が聞こえて僕は立ち上がる。

 ひどく嫌な予感がしていた。


 僕はなぜか逃げずに騒ぎの方へと向かう。


 騒ぎの発生源は大通り。

 逃げる悪魔達とは反して僕は原因の場所へと近づく。


「なんだなんだ、せっかくこのピスターチ様が来たってのにかかってくる奴はいないのかよ。ヒヒン」


 三人の男を連れたあの馬顔の悪魔がいた。


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