第15話 へりくだってからへりのぼる。

「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」


こういうタイプの質問をする人を、日本政府は国民10人あたり1名の割合で全国に配置しており、国民のメンタルヘルスを脅かす要因にもなっている。


「えー、何があったんですかー? じゃあいいニュースだけ。ってダメですか(笑)じゃあ・・・・・・悪いニュースから・・・・・・ちょ、ちょっと待って下さい。ちょっと待って下さいね。もしかしてあの件の話? ですか? えーあれダメだったんですか? あー、なんですかそのかおー。その笑いなんなんですかー。あー、迷うー。どっちにしようかなー」


なんて、いちいち相手の手のひらに乗って踊らなければならず、心と時間に余裕があるのならそれなりに舞い踊ることも可能だが(こういう時の私の舞は本当に惨めで美しい)、こういう類の質問は忙しい時に限って質問されることが多く、「わコッワ、じゃワルいやつからシャッス」(わあ怖い。じゃあ悪いニュースからお願いします)と、棒読みでススッと相手の手のひらに乗ってパパッと踊ってササッと業務に戻らねばならず、鬱陶しいことこのうえない。


鬱陶しいもう一つの要因に、こういう質問は自分より目上の人が好む傾向がある。忙しい時に無駄に話しかけてくる目上の人、要するに完全に暇を持て余している上司や、暇であることをひた隠す古参の社員などである。目上なだけに邪険に扱うこともできず、それなりの敬いと慈悲の念を込めて耳を傾けなければならない。


百歩譲ってそれが有益な情報だったらまだ許せる。しかしその人の価値観によってニュースの良し悪しを判断しているので、もったいぶる割にはたいして良いニュースじゃなかったり全然悪いニュースじゃなかったりして心から拍子抜けする。魂から脱力する。ちょっぴり緊張していた自分に腹も立ってくる。


日本企業は、社員の忙しい姿を見るとコンスタントに茶々を入れて業務をちょっぴり妨害する上司を社員10人あたり1名の割合で配置しており、近年の日本企業衰退の要因の一つとなっている。こういう上司は忙しい社員を見て少し休むよう提言したり、手助けしてくれるというような優しさはなぜか微塵も持ち合わせていない。


「あっ! ああっ! そういえばあのプリンターのトナー発注の件はどうなった⁉」と、1万年後でもいいようなことを喫緊の課題であるかのようにまくし立て、周囲の者は1万年後に着手しようと思っていたのでその件に関してまともな対策を講じておらず、「ほらみんな忘れてるでしょ! これだから俺がいないとダメなんだよ!」と、調子に乗らせてしまう。


このような自分の思い付きを、あたかも真実を証明する証拠のように考え、客観的な基準がないのに感情的に決めつけて周囲を振り回す目上の人に対して、我々が講じることができる対策は2018年現在、「苦笑い」しかない。


このタイプは、暇にしてると思われるのは心外なので忙しさは演出したい。だけど本当に忙しいのはイヤだというジレンマを定時を迎えるまで抱えている。つまり、切迫、即刻、緊急という状況だけは保持したいのだが、それに付随する用件を作りたくないので、緊急に明日有給を取りたい、空腹が切迫している、可及的速やかにコンビニに行くなど、陳腐でチープな言動を一生懸命執り行っている。


「会社の膿ぜんぶ抜く」などのテレビ番組があった場合に、これらの上司は、エクセルで作成すれば一瞬で作成できる表が並ぶワードファイルや、会社の仕組みをより難解にしている業務フロー、わざわざプリントアウトして配布されるネット情報の印刷用紙などと一緒に、ヘドロの中でピチピチと瀕死な状態で発見されるであろうと思われる。


そんな上司が「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」と得意満面に言う質問のことを、心理学では「誤前提暗示」という。承諾が前提で質問し、NOという選択肢がない質問形式のことである。


例えば意中の女性に「今度食事行きませんか」と正攻法でいくと断られる可能性がある場合、「いい感じの店があるんだけど、鉄板焼きか鍋料理どっちが好き?」と質問する。食事に誘うことが目的なので、どっちを答えられても構わない。そもそもそんな姑息な手を使う男はいい感じの店なんて知らないし、そんな誘いに乗るような女は料理の味なんてわからない。「鉄板焼きかな」「それじゃあ今度一緒に行かない?」「うーん、いいよ」と、自分が「鉄板焼き」と行ってしまった手前、なんとなく「鉄板焼きに行きたい」と意思表明したような気持ちになり、食事の誘いをOKしてしまうという、「誤前提暗示」によってもっともらしい二者択一を迫られると、それ以外の選択肢があるのに、その2つだけで判断してしまうのだ。


そんな上司は決まって「君が作成した資料は、業務報告書か改善報告書、どっち?」などと不意打ちで質問し、「・・・・・・えっと、改善報告書のつもりだったのですが・・・・・・」と答えると、「どっちも報告書の体裁を取ってないじゃないか」と、二者択一で答えてしまったため無駄に怒られるという、「神様にでもなった気分の上司がイソップ物語『金の斧、銀の斧』モードで勝利前提の話を仕掛けてくる」モードで、上司であることをたびたび誇示しようとする。


そして我々は「それ以外の選択肢があることはわかってるのに、その2つだけで判断しなければいけない」しんどさを知っている。暇にしてるという上司の後ろめたさを打ち消すために、部下より自分の方が上とアピールしたいがために、何気ない会話の中で自分の優位性を示そうとする。そんなマウンティングする時間があるんだったらランニングすればいいと思います。


ランナー同士の会話ではマウンティングする人は少ない。ランニングでは、相手の力量を把握するための質問に「だいたいキロ何分(1kmを何分)で走るんですか?」というものがある。キロ4分、5分だとかなり早いというイメージがあるのだが、早い遅いはあまり重要視されておらず、ランニングしている人たちはキロ何分と言ってもだいたい称賛してくれる。


「だいたいキロ6分で走ってます」

「へえ! いいですね!」


と、ひとまず感心してくれる。「キロ30分です」と言っても「逆にすごいですね!」とか言ってくれそうである。「俺なんてキロ4分で走ってるけどまだまだだと思ってる」など、自分の優位性を示そうとするものはまずいない。なぜかというと、マウンティングは相手より優位に立つことを目的としているのだが、ランニングは相手より優位に立つことにあまり意味がない。それよりも昨日の自分自身のタイムを、距離を越えていきたい。他人ではなく常に自分自身に優位に立つことを目指すのだ。そして優位に立つには日々のトレーニングの積み重ねしかない。

 

「ランニング以外だったら、スイムとバイク、どっちがいい?」と、誤前提暗示を使ってトライアスロンの優位性を示したり誘ってきたりする者なんていない。みんなランニングに一生懸命なのだ。


「・・・・・・じゃあ悪いニュースから!」

「よし! しっかり聞いとけよ不安になるなよ! 今日俺は・・・・・・午後から不在だ!」

「えーー!!(驚愕と不安を表出しつつ内心ズコー!!)」


私はもうへりくだり疲れました。へりへりくだった帰り道、愛する妻にいつもありがとうと言えず、知らん人にいつもお世話になっておりますというこの社会に疲れました。だから今夜も走ろうと思う。俺の人生は相手を敬ってへりくだるばかりの下り坂ではない。時には自分を敬ってへりのぼる上り坂を走ろうと思う。


他者ではなく自分に優位に立ちたい22時。颯爽とランニングウェアに着替えて外に出ると雨。今日はランニング中止だ酒だ酒。

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