第10話 心に珍妙なものを取り入れる。

ランニング中、目の前を走る初老の男性が乗る自転車。私と同じ方向、同じ速度で走っているので距離が離れるわけでも縮むわけでもない。かれこれ1キロ以上、目の前を走行している。くせえ。風に乗って運ばれてくる強烈な煙草の臭いに顔をしかめる。


いっそのこと追い抜けばいいのだが、ランニングというものはゴールまでの残体力を予測、換算し、それを逆算しながら走らなければならないため、自転車の人が煙草臭いという理由のみでピッチを上げると体力を必要以上に消耗するため危険である。


仮に追い抜いたとしても、速度を変えない自転車に再び追い抜かれないためにも、常に追い抜いた時と同じスピードを維持しなければならない。逆に減速して自転車との距離を開けるという手もあるが、これもまた自分のペースが乱されるので癪に障る。


くそ。ストレス解消のためにやっているランニングでストレスがたまるとは本末転倒。なんとかならんのか。


―――「防衛機制」とは、自己を守るために無意識的に起こる防衛メカニズムのことで、不快な感情や認めたくない状況にさらされたときに、心理的に安定した状態を保つために発生する心理的な作用のことです―――


はっ!・・・・・・自転車のおやじは・・・・・・コーチ・・・・・・そう、俺のコーチなのだ。現役中はオリンピックを目指すほどの名選手だったが、車に轢殺されようになった犬を救った際に肘を壊して以来、酒に溺れてしまった・・・・・・そう、俺はコーチから夢を託され、復活を目指すボクサーである。


あの日、居酒屋で介抱したのが運のツキだった。俺の前腕筋を見ただけでボクサーだと見抜いたコーチは、俺に勝手に夢を託しやがった。


「チャンポンになれ」


俺は麺類として曖昧な位置づけのチャンポンになるくらいなら、同じく曖昧な位置づけの焼きビーフンになりたいと言ったが、コーチは酔って呂律がまわらないだけで、「チャンピオンになれ」と言っていたのだ。


最初は酔っ払いの戯言かと思っていた。今さらチャンピオンを目指すくらいならチャンポンになった方がいいとも思った。だがこうして走っているとどこからともなくフラリとやってきて、俺の前をピタリと陣取ってペースを確認している。勝手に夢を託されたのは面白くないが、この歳でチャンピオンを目指すのも悪くないとも思えてきた。


俺は少しピッチを上げてコーチを追い抜く。そして通行人にバレない程度に、シャドーボクシングの真似事をする。


しかしボクシング経験はおろか、シャドーボクシングすらやったことないため、手と足の動きが合わずに、へっぴり腰で手をひらひら前に出す珍妙な踊り、脳内でのイメージと全く違う動作となったため、シャドーボクシングは即刻中止する。


追い抜いた俺の後ろ姿を見てコーチは安心したのだろうか、スーパーSEIYUに自転車を停めた。どうせ酒でも買うのだろう。コーチ、飲み過ぎには気をつけろよ。せめて俺がチャンピオンになって祝杯を上げるその日まで・・・・・・。


と、身体機能優先ではなく精神機能優先で走っていたため、妄想が終わった途端に大減速する。クソ、馬鹿みたいな妄想に耽りその気になって突っ走ってしまった。いつもそうだ。情けない。大腿が、膝が、肺が、知らぬ間に限界に近づいている。


「ゴールの武道館まであと数キロ! すでに会場総立ちで応援しています!」


脳内で徳光さんのナレーションが聞こえる。「負けないで」が流れ始める。・・・・・・そう、俺は24時間マラソンランナー。ゴールは近づいてる。全てが限界を超えている。放送時間までにゴールできるだろうか。苦痛で顔が歪む。横断歩道での待ち時間に、手をぶらぶら揺らしたり、足首をマッサージしたりと、全力で24時間マラソンらしさを演出する。


「防衛機制」の種類の一つに「取り入れ」というものがある。自分にとって好ましい者や理想とする者の特長を取り入れて真似をし、精神的充足を得ることである。


子供が戦隊ヒーローを真似て力強く感じたり、女性が好きなモデルの化粧や髪型を真似てご機嫌になったりと、一般的には他者の好ましい部分を取り入れて、自己の評価を高めようとすることである。


まあ要するに「感化される」ということなのだが、私の場合、アル中コーチと共に夢を掴もうとする引退寸前のボクサー、満身創痍の24時間マラソンランナーなど、昔からこの取り入れの対象、感化のされ方に問題があるような気がする。


私が基本的に取り入れを行う対象は、すでに敗北、もしくは敗北に向かっている場合が多いという、「敗北型感化」をするのだ。精神的充足を得るためのイマジネーションが敗北から始まっている。この「敗北的感化」は、なんとなくランニングをする人の共通項であるような気がしないでもない。


その時、私を追い抜く自転車。あ、コーチだ。SEIYUで購入したのだろう、パックの日本酒をストローで飲んでいる。くせえ。風に乗って運ばれてくる酒と煙草の臭いに顔をしかめる。若い女性とすれ違う。「負けないで」は流れ続ける。ふとした瞬間に視線がぶつかる。若い女が俺を見つめている。違う。俺がただ凝視しているだけなのだ。


集中できない。常に何らかの要素を取り入れ続けないと走り続けられる身体、精神ではないのだ。幼少時から「取り入れ」を繰り返すことで本人の特性につながり人格が形成されていくのだが、おかしな要素やシチュエーションばかり取り込んでいたので、こんなにエキセントリックな人格が形成されてしまった。


俺はボクサー。もっかいシャドーボクシングやってみる。ふとした瞬間に両足がからまる。

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