第3話 限りなく成功に近いスルーをする。
防寒タイツにハーフパンツにパーカー姿は、休日にランニングという高尚な趣味を持つグッドダンディーエクセレントランニングマンを演出しつつ、「俺はまだ本気は出していない」と、しんどさによってはいつでも撤退できるという心の準備を共存させている。退路を確保しながら格好良く前進しているのだ。俺はイケてる趣味を楽しんでいる。そして全然本気出していない。
「俺はまだ本気出していない」という気持ちは精神衛生上、とても重要である。例えば「自己愛性パーソナリティ障害」の診断基準の一つに「誇大な自尊心を持っている」という項目がある。業績や才能を実際よりも過大視し、相応の実績がないのに自分が優れていると認められているはずだと思う、まことに勝手な自尊心である。この勝手な自尊心は自己愛性パーソナリティ障害に限らず、誰にもみられるものではないだろうか。
このような者は常に「自分は特別な人間なので本気出せばすごい」と思い込み続けているが一向に本気を出さない。なぜならば本気を出して大したことのない結果に傷つくより、本気を出す可能性を秘め続けているほうが自尊心が守れるからである。だから何もやらない、何も達成できない。つまり「やらない」「続けない」ということは、「できる」「達成する」という可能性を同時に残すことなのだ。
みんな言ってたでしょう? 夢を持てって。
夢を持つというのは結果を残すことではなく、可能性を保持することなのですよ。
よって何らかの試練が立ちはだかっても、やろうと思えばやれるけど、しょーもない、レベルが低い、時間がないなど、自分の実力に見合わないとみなし結局何もしない。「限りなく成功に近いスルー」を行うのである。人生のトーナメントで常にシード権を狙い、更に不戦勝を願う生き方。
このようなそれぞれの自尊心的な事情によって、世の中には私を含め、まだ本気を出していない人たちで溢れているのである。それは徳川埋蔵金であり、日本海に眠る大量の石油。そんなものは存在しないとちょっぴり諦めてはいるけれど、自己の奥底に眠るポテンシャルを信じ、一発逆転の夢を抱き続ける。だから本気って照れくさい、マジメって恥ずかしい。
私の横をランニングする同年代と思しき男性が追い抜いていく。ちゃんとしたタイツにちゃんとしたハーフパンツを履いている。本当に日曜の午後に本気出して本気の格好でランニングする人っているんだなあと、慈しみを込めた視線で追い抜く背中を眺めながらニヤリと笑う。本気に取り組む者へ向けた冷笑は、いつまでも本気を出せない自己への嘲笑の投影。
もうどのくらい走っただろうか。長い期間走っていると、だいたいの距離の感覚が掴めてくるものだが、私のような初心者はどのくらい走ったか皆目見当もつかない。まあわからないのも無理ないだろう。なんてったって俺はまだ本気出していないのだから。だが俺はもう疲れた。ナイスダンディーファンタスティックランニングマンはもう太股と足首が痛い。しかし自分の弱みを隠すようなクールな表情はしない。
対戦競技では辛く苦しい表情を見せることが敗北につながる。よって敗北直前までクールな表情を保持しなければならない。だがグレートダンディーマーベラスランニングマンは趣味も本気。休日なのに20キロ走っているという苦悶の表情を浮かべるのだ。人目もはばからず、通行人に、世の中に、そして自分に向かって。
アスファルトがぬかるんできたんじゃないかと思うほど足の動きが重くなってきた。ああ今日は風呂掃除当番だった(まだ走れるけど)。そろそろ家に帰ろう(まだ走りたいけれど)。意外と早く息が切れるんだな(本気出してないだけ)。こうして中年を迎えてからの初めてのランニングはほぼ邪念にまみれて終了した。
どのくらい走ったのだろうか。グーグルマップで走行距離を調べてみた。2キロだった。想像以上に短い。ただただ、本気出してないだけだった。
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