第3話 地味子が同居の条件を受け入れた!

金曜日の4時に内線が入る。


「篠原ですが?」


「白石です。ご提案を前向きに検討させていただきたいと思います。実際の同居スペースなどの詳細な条件をお聞きしたいのですが?」


企画書の説明をして回るのに頭が一杯で忘れていた。周りに聞かれたらまずいので、とっさに声を落として話す。


「それなら、直接マンションを見に来てくれませんか? 場所は六本木交差点から歩いて15分くらいのところです。マンション名は『タワーマンション ひかり』です。ネットで場所は調べて下さい。すぐに分かります。明日土曜日の午後2時にマンション入口前まで来てください。待っています」


「分かりました。2時に伺います」


前向きに検討すると言ってきた。悪い条件ではないと思っていたが、やはり食いついてきた。


◆ ◆ ◆

丁度2時にマンションの入口前に彼女が現れた。あの黒のスーツ姿に赤いメガネだ。遠目でも彼女と分かった。


あの格好、何とかならないものか? でもその方が良いのかもしれない。入口ドアを開けてロビーに招き入れる。とりあえずロビーのソファーで話をする。


「すぐにここが分かりましたか?」


「はい、すごいマンションですね。玄関とロビーをみても高級なのが分かります。こういうのを億ションというのですか?」


「親父の持ち物だから」


「お父さまはお金持ちなのですね」


「故郷で地味な商売をしている。ここは友人に頼まれて買ったそうだ。バブルがはじけたころと聞いている」


「あれから考えてみました。私は派遣社員でお給料が少なくて精一杯節約して生活しています。衣服にかける余裕がありませんので、このとおり、いつも同じ黒のスーツです。おかしいでしょう」


「そんなことはない。実用的で無駄がないと思うけどね」


「お家賃が3万円なら助かりますので考えてみます。どういう生活になるのか想像できなくて、詳しくご相談したいと思いました」


「それなら、僕の部屋へ来てもらっていいかな? 実際に見てもらった方がいいから。それと心配しないで、何度も言うけど君をどうこうしようとは思っていないから」


「分かっています。篠原さんを信用しています」


コンシェルジェのいるカウンタ―の横を通り過ぎてエレベーターに向かう。コンシェルジェが会釈をするのを受けて軽く会釈を返す。地味子ちゃんも会釈を返している。彼の目に地味子がどう映ったのか、聞いてみたくなった。


コンシェルジェは来客の案内をしてくれるほか、宅配便の受け取りなど生活の支援をしてくれる。ただ、朝7時からで夜9時まで、それ以降はいなくなる。


マンションはオートロックでキーがないと入口のドアが開かない。それに監視カメラが随所に備え付けられている。これを警備会社が24時間監視しているので、セキュリティーは万全だ。まあ、管理費が高額になる訳だ。


エレベーターで32階へ向かう。35階建てなのでここはほぼ最上階だ。このフロアーには4戸しかない。


左隣りはどこかの国の大使館の職員が住んでいると聞いた。一度だけ部屋を出た時に会って挨拶を交わしたことがある。上品な初老の紳士だった。


右隣りには誰が住んでいるか分からない。このフロアーのほかの住人には今まで顔を合わせたことがない。


32階に着いた。エレベーターを出て5mほどで3202号室だ。ドアを開けて俺が先に入る。地味子がおそるおそる入って来る。


「すごいですね。これが億ションですか?」


「今買うと、2億円近くはすると聞いている」


「管理費が高いのが分かります」


「ここが玄関、ここで靴を脱いでくれる?」


「この先がリビングダイニングですか? すごく広いですね」


「50㎡はあると思う。大きなソファーのセットがあるだろう。4人掛けが2つ、一人掛けが2つで10人は座れる」


「全面ガラスの大きな座卓、古いけど素敵ですね」


「それにダイニングテーブル、10人は一度に食事ができる。食器棚には10人分のフルコースの食器がそろっている」


「普通の造りではないですね」


「少し古いがカラオケシステムもある。壁にスピーカーがあるだろう」


「本格的ですね」


「自分の練習のためにカラオケの装置だけはここへ来てから新しいものにしたけどね」


「へー」


「ここはどこかの会社のまあ迎賓館だったようだ。玄関脇にトイレもある」


「トイレはそこだけですか?」


「いや、メインルームとサブルームにもある。それぞれお風呂とトイレが付いている。見てみる?」


「はい」


「ここがサブルーム、もし同居するならここが君の部屋になる。バス、トイレ付だ。机と椅子、クローゼット、ベッドも備え付けてある。一方の壁側が全面、棚になっている」


「ここからはすごく見晴らしがいいですね」


「ああ、それにここなら覗かれる心配もない」


「確かにそうですね」


「僕が使っているメインルームを見るかい?」


「見せてもらっていいですか?」


「ああ、掃除をしてもらわないといけないから」


リビングダイニングを横切るとドアがある。その奥に俺が使っているメインルームがある。


「サブルームよりもずっと広いですね」


「ベッドはダブルベッド、それにウォークインクローゼットがついている。テレビも置いている。こちらがバスルーム、広いので洗濯乾燥機の置き場にもなっている。洗濯はここを使ってくれればいい」


「ここだけでも生活できますね。キッチンはあるのですか?」


「キッチンはリビングダイニングの奥にある。案内しよう」


リビングダイニングの奥に目立たないキッチンがある。


「ここですか、意外と狭いですね」


「大型の冷凍冷蔵庫、ガスレンジ、電子レンジ、食器洗い機、流しがあるが狭い。この広いリビングダイニングにお客を招いて、ケイタリングで10~20人くらいでパーティーをするような想定だと思う。まあ、二人で住むのなら十分だと思うけど」


「そうですね。大体わかりました」


「ソファーに坐って相談しよう。コーヒーを入れてあげよう」


コーヒーメーカーでコーヒーを2人分作る。それを地味子が見ている。


「砂糖とミルクはどうする?」


「ブラックでお願いします」


出来上がったコーヒーを持ってソファーへ行く。


「もう少し詳しい条件を聞きたいのですが」


「君はあのサブルームに住む。家賃は3万円。光熱水費2万円を負担する。各部屋は冷暖房機が付いている。週に1回、全部屋の掃除、風呂とトイレの掃除、僕のベッドのシーツ、寝具、バスタオル、タオルなどの洗濯・乾燥をしてもらう。それに一番大切なことだが、お互いのプライバシーを尊重する」


「同居していることも秘密ということですね」


「そうだ。いらぬ噂をたてられても困る。君もそうだろう。これは賃貸雇用契約だから契約書もしっかり作ろうと思っている」


「契約期間はどれくらいですか?」


「俺は今32歳だが、35歳までは結婚する気はないから、3年間でどうかと思っている」


「間違いないですか?」


「もしそれ以前に契約を解除する場合は引越し費用を俺が負担する。それも契約書に書こう」


「3年間家賃が3万円なら、かなり貯金できますからそれでいいです。億ションに住めるなんて一生に一度あるかですからね。私の話も聞いてもらえますか?」


「まず、確認事項ですが、メインルームのバスルームにある洗濯乾燥機ですが、いつ使えますか?」


「俺の洗い物は夜に入れて翌朝に取り出すから、白石さんのものは朝に入れて帰ってきてから取り出すことでどうか。シーツ、寝具などは土日に洗濯することでいいんじゃないか。俺がいないときでも部屋には自由に入って使って下さい」


「お部屋に勝手に入ってもいいんですか?」


「白石さんを信用している。そうでないと掃除もしてもらえないだろう。でも、俺は白石さんの部屋に勝手に入ったりしないから、安心して」


「分かりました。そうさせてもらいます。このリビングダイニングは共用スペースとして使わせてもらっていいのですか? キッチンも?」


「もちろん、自由に使っていい。冷凍冷蔵庫なども自由に使っていい。中の棚を分けるのもいいかもしれない」


「私は外食しないので、朝と晩は自炊したいのですがいいですか?」


「いいよ、好きにしてくれて。僕は飲んで帰ることも多く、夕食はほとんど外食している。たまに弁当を買ってきて食べるくらいだ。朝はトーストと牛乳くらいの朝食をここで食べている」


「朝食は同じ時間に食べることになると思いますが」


「一緒に食べればいいじゃないか」


「それなら朝食の準備は私がします。2人でキッチンは狭いですから」


「それならお願いしたい」


「一定額をお預かりして私も同額出しますから、そこから朝食の材料を私が買うことでいいですか?」


「いいよ。こちらもその方が楽でいい」


「朝食のご希望はありますか?」


「トーストと牛乳があればいい。ほかはまかせる」


「了解しました。夕食は必要ないですね」


「ああ」


「その方が気楽です」


「それから俺の友達を連れて来てここで2次会をすることがあるけど、給仕や後片付けをしてもらえるかな? いつか週末までそのままだったことがあるので」


「いいですけど、個別にお手当をいただきたいです。不規則で契約外と思いますので」


「ああ、その方がこちらも気兼ねなくお願いできる。それなら時給はいくらにする?」


「夜は時給1000円くらいが相場だと思いますが、どうですか?」


「了解した。これで2次会の経費が安上がりになる」


「お友達との飲み会などは多いのですか?」


「飲み仲間は結構多い。それと女子を連れ込むことがあるかもしれないけど気にしないでくれ」


「リビングダイニングで鉢合わせはしたくないですね」


「そこは考える」


「私も友人を連れて来ていいですか? 女の友人ですけど」


「いいよ、この同居関係の秘密を守ってくれる人であれば」


「信頼のおける友人ですから心配ありません」


「それで提案なんだが、マンションのコンシェルジェへの説明用の俺たちの関係だけど従妹としたい。つまり俺の叔母さんの娘だ。俺の社外の友人にもそう説明する。住まわせて面倒を見る代わりに、身の回りの世話をしてもらっていることにしたい。それで今の感じでいいと思うけど、社外の友人の前では目立たないように地味にしていてほしい。それと社内の人には秘密にする。会社の人は絶対に連れてこないから」


「分かりました。いらぬ噂を立たせたくないのですね」


「白石さんなら分かってくれると思っていた」


「お安い御用です。問題ありません。立派に地味な従妹を演じますから」


「ありがたい。これで一安心だ。言いたいことはすべて話した。他に何かある?」


「住所変更はここでいいですか。郵便物もここへ届くことでいいですか?」


「問題ない。コンシェルジェには従妹が同居すると伝えておくから」


「引越しはいつがいいですか?」


「いつでもいいけど、週末がいいんじゃないか?」


「再来週の日曜日にします」


「了解した。手伝うよ」


「お手伝いはご無用です。ここの家電や食器棚を使わせてもらいますので、荷物も少なくなります。ご心配なく」


「でも俺がここにいないと困るだろう。コンシェルジェには話しておく。それから契約書を作っておくから、出来上がったら連絡する」


「分かりました。では、これで失礼します」


地味子は帰って行った。何とかなった。これで気楽にマンション生活が楽しめる。地味子ならいても気遣いすることは全くない。地味子には女を感じないし、空気と同じだ。ムラムラして襲いかかるなんて想像もできない。地味子も俺に好かれるなんて想定外だろう。

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