ペパーミントグリーン:春風
静嶺 伊寿実
1. 駅
春と云えどもロンドンの夜はひんやりと冷たくて、時折香る埃っぽさを感じながら、メアリーはキング・クロス駅に着いた。
ロンドンの大学へ通っているメアリーは、イギリス北部都市のグラスゴーにある実家の両親と会うために、前から一度乗ってみたかった夜行列車カレドニアン・スリーパーを予約していた。
カレドニアン・スリーパーはイギリスを縦断する形でロンドンとスコットランドを結ぶ一日一往復の寝台列車で、車輌は大きく分けて、客室寝台車、ラウンジ車、座席車の三つがある。さらに客室は、一人用個室でルームサービスも利用可能なファーストクラスと、一室に二段ベッドが用意された二人用個室のスタンダードクラスの二種類が用意されていた。ちなみにスタンダードクラスの寝台を一人で予約した場合は、同性の他の乗客と相部屋になる可能性がある。深夜零時前にキング・クロス駅を出発した列車は八時間かけて北へ走り、グラスゴー駅やエディンバラ駅などに到着する。
メアリーが予約したのはスタンダードクラスの寝台室。さすがにファーストクラスには手が出なかったが、どんな人と一緒になれるかも楽しみであったし、他にもラウンジのソファの心地や噂のサービスの良さ、何よりも明日の両親の顔などなど、メアリーのテンションは上がりっぱなしで、夜食に入ったカフェでボストンバッグを忘れそうになった。
メアリーは駅の案内板の通りに進み、青い車体のカレドニアン・スリーパーが待つホームに到着する。ホームへ行く間にも平日深夜にも関わらずキング・クロス駅は少なからずの人が行き交い、ロンドンに住むメアリーもさすがに都会だなと感じた。
メアリーがチケットを見ながら乗り込む車輌を探していると、背後から男性が声を掛けて来た。
「君もこの列車に乗るのかい」
メアリーが振り返ると、褐色の肌に黒髪を短い坊主に揃え、キャメル色のブルゾンと紺色のチノパンを着こなした、二十代半ばの男性が、くしゃっとした笑顔ですぐ近くに立っていた。
「おっと、ごめん。俺もこの列車に乗るんだ」
と、肩に掛けたリュックを見せながら男ははにかむ。メアリーの身長も高い方だが、男性はさらに長身で、メアリーは自然と見上げる形で男の次の言葉を待った。車輌の位置が分からないだけで声を掛けて来たのか、まさか自分の部屋番号を盗み見るつもりなのか、メアリーは身構える。
「俺はジェイミ、友達からはジェイって呼ばれてるんだけど、あー、その、良ければ後でお茶しないかい? 君さえ良ければだけど」
なるほど、とメアリーは少し肩の力が抜けた。メアリーはこれまでこの手の誘いを経験したことがあった。大抵の男は自信満々で気取ったり、じゃらじゃらとアクセサリーを見せびらかしたりして、話しをしたとしても自慢話を聞かされる退屈な時間ばかりだったけれど、この男性ジェイミの優しそうな笑顔と、唯一のアクセサリーであるさり気なく黒光りする腕時計に好感が持てた。
「ラウンジでならいいわよ」
メアリーは何でも無いと装いながらすっぱりと答える。
「それはよかった。ありがとう」
ジェイミの厚い唇が大きく笑った。
「いや安心したよ。こんなことをするのは初めてなんだ」
「そう? 慣れているようだったけれど」
「いやいやホント初めてだって。でも慣れてるって思われるくらいうまく行ってよかったよ」
メアリーはボストンバッグを持ち直して、手を差し出す。
「私の名前はメアリー。ジェイミ、よろしくね」
「ジェイでいいよ」
ジェイミは握手に応じた。
「じゃ後で。なんなら俺の部屋に来てもいいよ。俺はファーストクラスなんだ」
「それは狭そうだからお断りするわ」
「冗談だよ。じゃあね」
互いに手を振って、それぞれの車輌に乗り込む。メアリーはK車の7Uの客室だった。
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